26.唇に阻まれた言葉
――――――え?
チロルを両手で抱え話しかけていた陽奈の背後から、その悩みの原因ともいえる人物の声が響いた。
信じられない現実に思考が一旦停止し、身体の動きが止まる。そんな陽奈の手の隙間から、この事態は手におえないと言うように、チロルが滑り落ちていった。
え……?
え………??
「……俺はね……これでも自制してたんだよ。陽奈が望むように……陽奈の幼馴染としての俺でいるために……」
「なっ……!?」
再び聞こえた爽の声に、弾かれたようにベットの上で起き上がった。その視線の先には、ボクサーパンツ一枚に肩からバスタオルをかけた爽が、ドアにもたれかかるように立っていた。風呂から上がってすぐに来たのか、かきあげられた前髪の隙間からぽたぽたと滴がタオルに落ちている。白いタオルから除く爽のボディーは思ったよりも筋肉質で、その引き締まった男らしさと風呂上りに見せる気怠そうな色気が相まって、陽奈の心臓はドキンッと跳ね上がった。
見てはダメだと思いつつ、そんな爽に釘づけになってしまうのだ。
爽はそんな陽奈の様子をじっと見つめ、それ以上言葉を発しなかった。いつの間にか部屋の中に足を踏み入れ、陽奈の座り込んでいるベッドの前まで歩みを進めた。
陽奈は近づいてくる爽を、ぼんやりと見つめていたが、やがて自分がどこにいるのか自覚した瞬間、ハッとしてベットから立ち上がった。しかし勢い余って前につんのめってしまう。そんな陽奈の手首を、すぐそばまで来ていた爽に掴まれた。
驚いてとっさに顔を上げた。
「なっ、そっ、そそ、そうちゃん!? どうして、ここっ……」
「服を選んでおいでって言ったけど、場所もわからないだろうしあまり待たせたら可哀相かと思って上がってきたんだけど」
「そっ……そう……」
「まさか、こんな恰好で……俺のベッドで……」
爽はそういい終わらないうちに、陽奈の身体を後ろに押した。強い力に再び布団にしりもちをつくような格好で倒れこむ。
目の前の状況を把握するよりも早く、陽奈の足に爽の膝が触れた。爽はベットに片膝をつくようにして、陽奈の目の前に迫っていた。
「なっ……にするのよ!?」
「それはこっちのセリフ」
「……え?」
「どういうつもりか聞かせてくれる?」
「なっ……なっにが!?」
「男の部屋で……こんな恰好でいる理由だよ」
「こんな恰好?」
陽奈が怪訝に思って聞き返した瞬間、爽の瞳が意地悪く細められた。そしてその瞬間、陽奈の膝に爽の右手が触れ、倒れた拍子にTシャツの下がむき出しになってしまった太ももに向かって、その大きく温かい手が滑りこんでいく。
「ひぁ……!」
自分の身体とは違う感触に驚いて、妙な声が口から飛び出した。その声にわずかに爽の眉がぴくりっと動く。するとその手は素早く陽奈の素足から離れた。爽は触れた手を引き抜くと、なぜかさらに不機嫌そうな様子で陽奈を睨みつけてきた。
「だって……そんなとこ触られたら、びっくりして……」
言い訳をするようにそう言ってから、ハッとする。
もしかして……爽が来た時もこんな風にシャツが捲れあがっていたのだろうか……それを見せてしまって……?
まったく意識していなかったことだけに、その無防備な自分が恥ずかしい。
「もうっ、悪ふざけはやめて」
いたたまれなくなって、強気で突っかかる。
とりあえずこの体制がいけない。まるで責められているような……自分が弱者になった気がするのだ。
陽奈は爽を押しのけて立ち上がろうと、自らの手を爽の胸の前まで持ってきた。その瞬間、はっと爽が裸であったことを思い出す。
押しのけようとすると、爽の裸の胸に触れるわけで……。
それはそれで恥ずかしくなりその手をさまよわせた結果、爽の二の腕に照準を合わせることにする。しかしその手も、敢え無く爽の手によって奪い取られた。
「これは……何?」
「え?」
その言葉に爽に掴まれた場所に目を向けた。
そして「あっ」と声を上げる。その手の中には無意識に握り続けていた爽のシャツが、原型を留めずに収められていた。
「こっ……これはっ……」
「俺のシャツ……だよね?」
「そっ……そう、そうなの! そこにあって……その……」
「なんで陽奈が持ってんの?」
「それは……今日着てたなって思っただけで……違うわよ。……触ってみたいとか思ったわけではなくて、ギュッとしたりなんかはしてないし……別にやましくは……」
その言葉に、爽は一瞬目を大きく開くと、そのまま陽奈から視線を逸らしてしまった。
相当動揺していて、否定が反対に墓穴を掘ってしまった気がする。しかし、今となっては後の祭りだ。
逃げるしかない。
そう思って爽からの視線がそらされた隙に、何とかこの体制から脱出しようとするが、掴まれた腕の強さに身体を起こすことさえもままならなかった。
「もう……離して? 私、夕食の準備の続きを……」
陽奈がそう言い切るよりも先に、爽が大きなため息をついた。そしてそんな爽に戸惑って言葉を切った陽奈の目の前で、口に手を添えて苦しそうに首を振る。
「……もう無理」
「そう……ちゃん?」
そうつぶやくと、横に向いていた顔がゆっくりと陽奈に向けられた。
なんだろう……強く握られた腕のせいが、心臓が今までにないぐらいドキドキする。そしてその心臓は爽の瞳を捉えその視線を交差させた瞬間、飛び出すかように大きく跳ね上がった。
爽が……その瞳はまっすぐに陽奈を見つめていた。
いつも爽やかでやわらかい栗色の瞳。しかし今はその色はわずかに翳って、陽奈を飲み込まんとするように深く引き込んでいく。
その目から視線がそらせない。
こんな爽は今まで見たことがない――――――しかし、本能がその瞳の意味を知っている。
どっくどっく……心臓がうるさい。耳がおかしくなったように鼓動を鳴らしていた。
いつの間にか爽の手が陽奈の頬に添えられ、爽の指が陽奈の下唇を持て遊ぶように何度も左右に擦る。そして爽の顔がゆっくりと近づいてきて……
「だっ……ダメ!」
あまりの緊張感にとっさに爽の胸に手を当てて、その行為を静止する。その手は微かに震えていて、思ったほどに力は出なかった。
心臓はうるさいし、頭は通常の動きを見せず、混乱し続けている。
しかし、解る。これは―――――止めなくてはいけない。この先は、幼馴染の範疇ではない……。
しかし顔に添えられた爽の大きな手のぬくもりを失いたくないと思う自分がいる。爽が好きだから、このままその瞳に囚われて、もっと触れて欲しいと。
同時に怖い。
決定的な言葉を……“好きだ”と言われたわけではないのに、爽が何を思って陽奈に触れようとしているのか分からないままに、この身をゆだねてもいいのか。
このまま進めば―――――幼馴染ですらいられなくなるのではないか。
戸惑いを隠せないままに爽の胸を押し続けていた陽奈の震える手は、やがて爽によって再び捉えられてしまった。もはや抵抗を許さないと言うように、陽奈の両手は爽の手中だ。
爽はそのまま陽奈の唇にチュッと軽いキスを落とした。
久しぶりのキス。驚いて顔を上げた陽奈に、爽は意地悪そうな笑みを浮かべ「ダメだよ」とつぶやいた。
「そうちゃ……」
「いまさらそんな目をしても無駄だからね。陽奈が悪い。散々煽られて……もう止める気ないから」
「なっ、何を……」
「俺は本気だよ」
「ほっ……んん……」
聞き返した言葉は、再び近づいてきた爽の唇によって阻まれた。そしてその唇隙間から吐息のような声が届く。
「陽奈が……欲しい」
どくんっ
再び心臓が大きく脈動を打った。聞いたことのないような低く掠れた声に背中がゾクゾクと鳥肌を立てた。栗色の瞳が陽奈を見つめ、その瞳が、声が、まるで自分を渇望していると言われているようで、それだけで腰が砕けそうになった。
どうしよう……ダメなのに、ダメなのに―――――拒否できない
陽奈のその思いを感じ取ったのか、やがて爽は口を開けていつもよりも深く陽奈の中に入り込んできた。爽の唇が、舌が、陽奈を飲み込んでいった。
「……はぁ……んっ」
時折与えられる空気を吸い込むと、再び塞がれる。何度も角度を変える唇に、必死で溺れないようにと思っても、吐息しか出てこない。
その情熱的なキスに翻弄され、気が付けば陽奈を覆っていた爽の大きいTシャツはベットの下に投げ捨てられ、その身体は爽の身体に組み敷かれていた。
「そうっ……ん……ぁぁ」
爽の手は陽奈の下着に入り込むと、やわらかく膨らんだ胸を覆い、優しくもみほぐしてきた。爽の温かく大きな手のひらは、陽奈の手よりもざらついてごつごつとして、その感触が触れただけでも気持ちがいい。合間に降る深いキスに体中がしびれて力がぬけていく。そして陽奈が甘い吐息を吐き出すと、爽は指はその頂に甘美な刺激を与えていく。
「やぁっ……!」
身体が大きく跳ね上がった、爽はそんな陽奈に優しく口づけると、その唇を次第に下に下ろしていく。
ちゅっちゅっと、音を立て陽奈の首、肩とキスが落とされていく。その間にも爽の手は容赦なく陽奈を攻め立て、声を上げないように我慢しても一層追い詰められていった。
そしてその唇が陽奈の頂を捉え舌で愛撫を与えたとき、電気が走ったような衝撃に思わず声がこぼれ出した。
「可愛い声……」
爽は顔を上げて微かに笑みを浮かべた。
「やっ、やめて! そんなこと言わないで……!」
恥ずかしくなって、思わずそう言い返すも、爽は意地悪そうに「嫌だ」といい、その言葉通り再び愛撫を再開する。
「あぁっ……やぁっ……やめっ」
「もっと…………聞かせて?」
「やぁ………だぁっ……」
必死で懇願するも、爽から与えられる刺激は勢いを増し、陽奈は次第に思考能力を失っていった。その甘美な刺激を全身で感じ、時折愛おしそうに呼ばれる陽奈の名前に内側からも浸食されていく。
「そう……ちゃん」
飲み込まれ落ちていくような感覚にとっさに怖くなってそう呼びかけると、爽は優しく微笑んで陽奈の唇に触れるだけのキスを落とした。そして陽奈の目尻から流れる涙をぬぐい、その目尻……頬にキスを残していく。
「私の……こと……」
―――――好き? 好きだからするんだよね?
飲み込んだ言葉は、爽の唇によって塞がれて、再び官能の世界へ誘われていった。
不安も喜びも、頭から飛び出して、形を成さずに消えていく。
爽だけが、陽奈の世界であるかのように……
「陽奈……いい?」
その言葉に陽奈は爽に視線を向けた。しかしその瞳は爽と交差することなく、陽奈の返答も爽の強引に唇に塞がれた。まるで陽奈の同意を必要としていないようにさえ思える行為だった。
その不安に苛まれる間もなく、爽の手が陽奈の膝にかけられた。
爽の焼けるように熱い腕の中で、陽奈は吐息を吐き出し、そっと目を閉じた。




