表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/38

24.いたずらな手

トントン……


 包丁がまな板の上でぶつかり、軽快な音を立てた。

爽によって乱された心音は、シンクに落ちる水の音や食材が切れるときに響くみずみずしい音色に耳を擽ぐられ、たちまちに陽奈の気持ちを創作へ集中させいく。すべてがその世界で満たされていく感覚。

 早く作ろうなどということはすっかり頭から消え去り、いつの間にかダイニングテーブルに現れた爽のことも見えず、ただ鼻歌を歌いながらその作業を楽しむ。

 先にサラダとスープの下準備を終えると、次はメインのハンバーグだ。

 慣れた手つきで軽快に玉ねぎを刻む。その時、突如ダイニングから何かが叩きつけられるような大きな音がした。

 その音にハッと顔を上げる。

 カウンター越しに見えるダイニングのテーブルの向こう側に、爽が青い顔をして立っていた。その足元には椅子が転がっている。どうやら勢いよく立ち上がったために倒してしまったらしい。

 陽奈はその時初めて爽がダイニング(そこ)に居たことに気がつく。ここは爽の家なのだから当たり前なのだが、料理に集中していてすっかり忘れてしまっていた。


「そうちゃん?」

 蒼白な顔をしてこちらを凝視する爽の様子に、怪訝に思って呼びかけると、爽はその声に返事をすることなく、その苦しそうな表情のまま疾風のような勢いで陽奈のもとに駆け寄ってきた。


「どうしたの?」

 驚いて爽を見上げるや否や、彼は陽奈の腕を掴んで叫んだ。


「陽奈! なんで……泣いてんだよ!?」


―――――…………は?


「もう我慢できない……いい加減理由を教えてくれないか? 俺のことを考えてくれるのはうれしいけど……俺はとっくに覚悟を決めて……」

 爽はそこまで言うと、一度言葉を詰まらせ、視線を逸らした。

爽の言った意味不明な言葉に、陽奈は眉を顰め、頭の中でその考えを廻らせた。


 何のこと……泣く?

改めて自らの目元に意識を向ける。確かに感じていた違和感。しかしそれは……―――――その原因となる手元に目を向けると、たちまちにその意味を理解した。陽奈は服の袖で目尻から零れ落ちていたそれ(・・)を拭うと、その事実を伝えるべく顔を上げた。


「結局、俺は陽奈がどう思おうと……」

「そうちゃん」

 陽奈は爽の言葉を切って、呆れたように呼びかける。爽はその声に、ハッとして陽奈に視線を向けた。


「陽奈……?」

「あ・の・ね……泣いてないから」

「何言って……現に泣いてんだろ!?」

「……んっと……バカ」

「バカ!? 人が心配して言ってんのに、バカってなんだよ!」

「だって……もう、これだよ。こ~れ!」

 陽奈の言葉に目を吊り上げて怒りを見せる爽に、目の前にある原因と言えるものを指差して呆れたように言い放った。

 爽は明らかに苛立った様子で、チラッと陽奈の差す方向に視線を向けると、一瞬の間を開けてようやく自分の犯した間違いに気が付いたらしく「……ああ」と声を上げた。

 まな板の上には刻まれた玉ねぎが、申し訳なさそうに鎮座していた。

 もちろん、玉ねぎにはなんの罪もない。


「わかった?」

「……紛らわしい」

「……ぷっ……」

「…………笑うな」

「……くっくっ……」

「陽奈……」

「……だって……そうちゃんの顔……可っ笑しい……」

 思い出すと笑いが止まらない。肩を震わして笑う陽奈に、恥ずかしそうに爽がため息をついた。

 可笑しすぎる。玉ねぎ一つに踊らされて、危機迫った様子で陽奈に問い詰めた爽の様子を思い出すと、たまらなく可笑しくて……たまらなく可愛い。

 陽奈を大切にしてくれると分かるから……嬉しい。

 そんな優しさを持つ爽が、すごく――――――好き。


「もう……いいよ」

 陽奈に笑われたことに、がっくりと肩を落として爽は踵を返すと、キッチンを出ていこうとする。

 陽奈はその手を取って、引き留めた。


「待って」

 爽はその声に驚いて、再び陽奈を振り返った。

 その隙を衝いて「えいっ」と背伸びをすると、爽の目下に手を滑らせる。突然のことに驚いて身を硬くする爽の様子に、ニコッと笑いかけるとさらにその手を目のふちに擦り付けた。


「手を止めさせたでしょ? お詫びに一緒に手伝ってよね」

「……は?」

「だから……一緒になって?」

 その言葉に更に目を丸くした爽だが、やがてみるみるうちに苦痛の表情を浮かべ、眉間にしわが寄っていく。そしてその透き通る栗色の瞳からは大粒の涙がこぼれ出した。


「ひ~な~~~!!!」

「あっはははは……!!!」

 陽奈が付けた玉ねぎの汁は、爽の目を容赦なく攻撃しているようだ。

 爽は何とか痛みを緩和させようと瞬きを繰り返すものの、涙は止めどなく流れ落ちていった。恨めしそうに陽奈の名前を呼ぶものの、やがて耐えられなくなったのか、目の下を抑え苦しそうに目を瞑ってしまった。


「……痛っ……てぇよ!!」

「……あははは」

 いたずらが成功して笑いが止まらない。お腹を抱え笑っていると、せめてもの抵抗のように爽はその頭をごついた。


「……こら、笑い過ぎ」

「だって……そっ……」

 辛そうに目を細めながら、恨めしそうに睨まれる。その様子さえもおかしくて笑ってしまう。爽はその様子に諦めたのか、大きくため息をつくとその場で閉眼してしまった。

 こんな風に爽にいたずらを仕掛けるのは、子供の時以来だ。仲の良い幼馴染だったので一緒に過ごす時間は長かったし、お互いいたずらをしたり喧嘩したり笑いあったり、数えきれないほどの思い出がある。爽と再会するまでは、そのすべては苦しい思い出でしかなかった。爽の辛そうな顔しか思い出せなかった。

しかし自分の気持ちと向き合ってこうして爽と過ごしていると、それだけではなかったと思う。そのすべては陽奈にとって楽しかった思い出であり、温かい爽の笑顔があったのだ。

今この時のように。

願わくば、これからもこんな風に爽と時を共有できたらいいのに……と、思う。自分の立場では、とんでもなく贅沢な願い事かもしれないけれど―――――心の中でこっそりと思うぐらいは許されるだろうか?


 ひとしきり笑わせてもらったあとで、目を閉じてじっとしている爽の腕を引っ張ってシンクへ誘導する。

 爽はまるで陽奈がそうすることがわかっていたように、素直にその陽奈の腕に従った。


「ちょっと待っててね」

 陽奈はそう言うと、自分の手をよく洗ってから爽の顔をシンクに近づけて、涙で濡れた目の周りを良く洗った。

 爽はその陽奈の行為にじっと目を閉じて何も言わない。やがてきれいに洗い終えると、きれいなタオルで爽の顔をふき取った。


「目、開けて」

 陽奈がそう言うも、爽はじっとしたまま目を閉じていた。


 あれ? まだ痛い?

 陽奈は爽の両頬に手を当てると、少し屈むように自分の方に引き寄せて、その目のふちを覗き込む。

 目の周りはただれているようには見えないし、新たな涙も出て来ていないようだ。


「そうちゃん? 目、開かない?」

「……」

「まだ、痛いの?」

 そう言ってその目の下を触れようと手を伸ばした時、パッと爽の目が開いた。

 

「あ……」

 よかった。なんともないみたい……

 少し潤いが残っているものの、別段異常の見られない瞳の様子に、ホッと胸を撫で下ろす。

 しかし次の瞬間、その濃茶の瞳が意地悪そうにきらめいた。


「この手……が、イタズラなんだよね……」

 爽は突如そうつぶやくと、彼の頬に添えていた陽奈の手を掴んだ。

 その声色と何かを予兆するような言葉に、反射的に身体を離そうとするが、両手を引っ張られてより近くに寄り添ってしまう形となってしまった。

 陽奈を見つめる爽の瞳はわずかに細められ、形のいい唇は蠱惑的に歪められている。

 突然変化した二人を取り巻く空気に、知らずに心臓が早鐘を打ち始めた。


「陽奈は昔からそうだったよね……」

「そっ、そうちゃ……」

「可愛い顔して……その一瞬でやってのけるんだから……」

……可愛い顔?

 どさくさに紛れて……それは褒められているのだろうか?

 そう考えながらも、いっそう早くなった心臓の音を必死で抑え爽の真意を量る様にじっと見つめた。


「ほら……今も。そうやって俺を丸め込むんだよね……何も知らない、何もしてないってね」

 爽はそう言いながら、陽奈の手をゆっくりと引き寄せていく。


「そっ、そんなことない……」

「あれ? じゃあ……自覚はあるんだ……それはもっと性質が悪いね」

自覚って……何?


「まあそんな陽奈も、俺にとっては可愛いお姫様だったわけで……でも……今日のはちょっと放置できないなぁ」

 どうしよう……

何か、やばい気がする……

先ほどのイタズラが相当痛かったのか、かなり頭にきているらしい。これは今すぐ謝った方が賢明な気がする。


「そうちゃ……ごめっ」

 動揺が先走って、謝罪の言葉がうまく口に乗せられない。とはいえ、詰まりながら謝った陽奈の言葉が通じたのか、一瞬彼がその動きを止めた。意外そうな表情を浮かべ、陽奈を見つめていた。


「あれ? 珍しく素直だね」

 その言葉に懸命に首を縦に振る。この誠意をとりあえず伝えるのみだ。


「ふ~ん」


だから……許してくれる?

 陽奈は瞳で懇願するように、彼の顔をじっと見つめた。二人の視線が交差する中、再び爽がぼそりと呟いた。


「言ってる傍から……」

「え?」

「ダメ。お仕置き」

 その瞬間、爽の手中にある陽奈の手が爽の顔のすぐそばまで引き寄せられた。そしてゆっくりと手の甲に爽の唇が這って行く。

 生温かく柔らかい感触に驚いてその手を引き抜こうとするも、強く握らされそれどころではない。

 爽の唇は、鳥の羽のように軽やかに陽奈の手の甲を滑り降り、気まぐれにくるぶしや皮膚を優しく挟んでは、その小さなスペースを楽しむように何度も往復を繰り返した。

 やがてその唇が手のひらに移動しようと動きを見せた時、陽奈は手に向けられた意識からハッと我に返り咄嗟に「やっ、止めて」と制止の言葉を口にする。しかし爽はその動きを止めることなく、面白がったように陽奈の手のひらの上で含み笑いすると、吐息を吹きかけて「嫌だ」答えた。

 手がしびれる。その動きの一つ一つを明確に伝えようとするように神経が過敏になって、その一か所に集中していくのだ。

 そして爽が陽奈の人差し指、中指と甘噛みを繰り返し、そっと指間にその舌を添わせた時、たまらなく官能的な感覚が陽奈の全身を駆け巡り、ビクッと身体を震わせた。


「……ぁっ」

 誰も踏み入ることのない場所に、触れられたような……敏感で、甘美な感覚。その衝撃に、思わず腰が抜けてその場で、座り込んでしまった。

 爽に捕えられた片手を伸ばした格好で、無様に座り込んでしまった陽奈に驚いて、爽が「陽奈!」と驚きの声を上げた。


 何……今の?


 呆然とへたり込みその身体に奔った衝撃をの意味を理解した瞬間、あまりの恥ずかしさに顔が真っ赤に染まった。

 どうしよう……私……


「陽奈……大丈夫?」

 突然座りこんだ陽奈にさすがにやり過ぎたと思ったのか、心配そうな声と共に、爽が陽奈を覗き込んできた。

 バチッと視線が合った瞬間、先ほどの自分が爽に感じてしまった想いが頭を駆け巡り、恥ずかしくなってさらに顔が茹でだこの様に真っ赤になった。


「……え?」

 意外そうな爽の表情を見た瞬間、反射的に手のひらが彼の頬に直撃した。


バッチーン!

 

「あっ……」

 我に返った時には、爽が苦痛の表情を浮かべて、陽奈が手のひらを命中させた頬を抑えていた。


「あっ……あっ……!」

 どうしよう……

 そんなつもりじゃなかったのに!?

 赤くなった顔を見られ、恥ずかしくなって思わずやってしまった。


「……っ痛……」

 しかも力の限り振り切ってしまったので相当痛かったに違いない。

 とっさに冷やさないといけないと思って立ち上がる。しかし慌てて立ち上がったため、バランスを崩して後ろにつんのめり、不安定に上体が後方に傾いてしまった。


「あっ!?」

「……危ない!」

 思わず空を切った手が、シンクの上に置いてあった計量カップを弾いた。そして陽奈をとっさに助けようと腕を伸ばした爽の頭の上に、そのカップの中身が豪快にぶちまけられた。

 たちまちに爽の髪、額、顔……肩にぽたぽたと黒い液体が流れ落ちる。


「あ……ソースの……」

 手製のテリヤキソース用に混ぜられた醤油、砂糖、酒……それらの液体は無情にも爽の青いストライプのシャツに容赦なく降り注がれて、その爽やかな色彩を黒く染めあげていった。

 爽はただ呆然とした様子で微動だにしない。


「ああ……わわわわぁ!!! そうちゃんっ、ごめんね!」

 陽奈は我に返ると、慌てて爽の顔を手のひらで拭う。しかし今更そんなことをしても意味のないことに気がついて立ち上がると、シンクに掛けられていた布巾で爽の頭や顔をふき取り始めた。

 残念なことに、布巾一つではソース用に作られた濃厚な液体には全く歯が立たない。陽奈が懸命にその黒いソースを爽から拭おうと格闘していると、やがて何の反応も見せなかった爽の身体がわずかに動き、手を止めた陽奈の前で肩を震わせた。


「ひぃ~なぁぁ~……」

「ごめんなさい! ごめんなさい!! こんなつもりじゃなくて……こんなっ……」

「お前……鈍くさいにもほどがっ……くっ……」

「ごめんなさい!」

「……だっ……くっくっ……」

「そう……ちゃん?」

「……くっ……あははははは!!」

 怒っていたはずの爽が、突然たまらなく可笑しいと言った視線向けて、笑い始めた。てっきりそのまま怒られると思っていたのに、意外な反応でその変化に目を丸くする。

 しかしながら、醤油の匂いと黒く染まった顔を歪ませながら楽しそうに笑う爽の様子に、なんだか陽奈も可笑しくなってきた。


「ぷっ……」

「あはははは……」

 キッチンの下に座り込んで、滑稽な格好で笑いあう。

 昔のように屈託ない頃と同じような温かい空気が、二人を包み込んでいる気がした。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ