23.不安と抱擁
「日野さん!」
陽奈が驚いて声を上げたと同時に、吉田が抗議の言葉を放った。
「ちょっと、あんた!! なんなのよ……勝手に人の話に入ってこないでくれる!?」
「聞き捨てならないから、口を挟ませてもらったの」
「はぁ!? ふざけんじゃ……」
「よっちゃん……」
「前の時もちょっと同僚だからって、陽奈にあんな風に……むかついてたのよ! だって、結果的にあのなんとかって言う課長の話も嘘だったじゃない」
「あら……気がついたんだ」
吉田の言葉に、日野は悪びれもなくそう答える。
「気づいた? ほら、陽奈こいつ確信犯だよ!」
そうだったのか……。佐伯課長の話は誤解であったものの、日野と佐伯課長との間には何やら根深い確執があるように思えたし、日野自身は彼女と爽が付き合っていると信じているのだと思ってた。どうやら、まんまと騙されてしまったらしい。
爽を想う者同士として、爽に彼女がいると言う事実は心が痛いに違いないと勝手に共感さえ抱いていたのに……ちょっとむかついてくる。
「バカ言わないでよ。わざとじゃないけど、その可能性があるって言っただけでしょ。……」
日野はそう言い訳を並べると、騙される方がバカなのだと言わんばかりの視線を陽奈に向けてくる。
つくづく、嫌な感じだ。
「どうして、ここにいるんですか?」
日野の視線を無視するように、陽奈が強気の姿勢でそう言うと、吉田が加勢するように「盗み聞きなんて、趣味悪いわよ!」と叫んだ。
「盗み聞きって……ここで休憩してたらあなたたちの話が聞こえてきて、少し口を挟んだだけのことよ」
「休憩? ここで、わざわざ?」
ここは陽奈の職場の近くであると同時に、爽の職場からも近い。遅くまでランチタイムをしている事もあって、陽奈と吉田はよく利用するのだが、個人経営でこじんまりとした狭い店内は、敷地内に所狭しと机椅子が並びいつも込み合っていた。昼にはランチにとサラリーマンやOLの集団も良く来ているようだが、陽奈たちはそんな客よりもはるかに時間が遅いので、そのころには店内はがらんと空いているのだ。
そしてここはメインは食事であり、カフェメニューが豊富ではない。
日野が言うように“休憩”がてらによる店ではないのだ。もし本当に休憩するとなれば、向かいでも2件隣りでも、カフェ専門の店はそこらに散らばっている。
「私のことは、どうでもいいでしょ」
どうでもよくないだろう。人の話をわざわざ聞いておいて。
「とにかく、一言言っておこうと思って。まだわかってないみたいだし……忠告してあげたのにまだ爽のこと好きみたいだから」
「余計なお世話よ」
恐らく、日野の話はまたろくでもないのだろう。
言い返した陽奈に関わらず、日野は「あなたのためよ」と、押し付けがましい言葉を投げかけてくる。そしてさらに辛辣な一言を放った。
「爽はあなたのこと好きじゃないわよ」
「……っ」
「あんた……何を根拠にそんなっ!」
今一番聞きたくないセリフをストレートに言ってのけた日野に、吉田が食ってかかった。
日野はその言葉に反応することなく、陽奈を見据えて再び口を開く。
「あなた、爽からキスされたんだって?」
「……」
どこまで聞いていたのかなんて愚問だ。そして日野の言葉に答える義務もない。
「誤解するもの無理ないと思うけど……私もされたって言ったわよね?」
覚えている……
その事実は陽奈が爽のキスについて、陽奈だけが特別ではないと決定づける要素の一つとなっていた。
「爽のキスがどんな場合でも意味のないものだとは言わないけど、少なくともあなたに対しては挨拶、もしくは性欲の捌け口みたいなものでしょうね」
その物言いにむっとする。陽奈を馬鹿にされたことに対してではない……その言い方だと、まるで爽が幼馴染をないがしろにするような軽い男だと言われている様に感じたのだ。
「違う……」
「あらあら……あなたもさっき"挨拶みたいなもの"って自分で言ってたじゃない? 今更強がっちゃって」
自分で言うのと人から言われるのでは、大きく意味合いが異なるのだ。
そう思って日野を睨むと、日野はあざけ笑うように口角をあげ鼻を鳴らした。
「私の言う事が嘘だと思うなら直接聞いてみたら? “好きなのか?”って。爽は答えないと思うわよ……正直に“違う”って言えば、後々ややこしいじゃない? ちょっとしたお遊びの相手を失うのも、つまらないし。それが爽なのよ」
「あんたね! あんたもその爽ってやつが好きなんでしょうが……。なんなの、 そいつのことバカにしてるような言い方は!?」
「私はいいのよ。期待させるのもさせられるのもゲームみたいで面白いわ。曖昧なままで楽しむ爽も魅力的だし、ドキドキさせられる」
そう言うと、勝ち誇ったような笑顔を陽奈に向けて、「でも、あなたは違うんでしょ?」と言い放った。
「身体だけじゃ嫌だって……言ってたわよね?」
「それはっ……」
そんなこと―――――誰だってそう思うだろう。
好きな人に同じように想ってほしいと……気持ちを返してほしいと思うのは当然だ。
「気持ち良いだけのキスは……あなたは嫌だってことでしょ? だったら……だらだらとそんな曖昧な関係続ける意味ないんじゃない? 早いとこ、振られちゃいなさいよ」
「なんなの~!! ちょっとこの女、失礼にもほどがあるわよ!!!」
吉田は突如、堪忍袋の緒が切れたように立ち上がってそう叫んだ。その声にハッと振り返ると、吉田は口を真一文字に結び、顔を真っ赤にして怒りをあらわにしている。
さらに陽奈と視線が合うと「陽奈、行こ! こんなうそつき女の話聞く必要ないって!」と吐き捨て、陽奈の手首をつかんだ。
陽奈はそんな吉田の勢いに押されるようにして、席を立つ。慌てて自分のカバンと伝票を手に取った時、再び抑揚のない日野の言葉が聞こえてきた。
「可哀想……“好き”って言われれば、あなたにも希望があるのにね? 前も言ったけど、中途半端な存在は邪魔なのよ。さっさと諦めて、爽から離れて頂戴ね?」
その言葉を聞くや否や、吉田からすごい勢いで引っ張られ、あっという間に店の外に連れ出された。陽奈の視界から日野の姿は見えなくなる。
しかし―――――最後の日野の悪魔のささやきは、抜けないとげのように陽奈の中に留まってしまった。
陰気な店内から、燦々と降りかかる太陽の光のもとに連れ出されたのに、陽奈の不安は先ほどよりももっと具体的な形を取り、陽奈に問いかけていた。
自分の本心……手に入ることない……でも近くにいたいと願うあさましい欲。都合よく考えていれば……曖昧にしておけば傍にいられるから……。
考えなければ、幸せでいられる。
でも―――――それで本当にいいの?
確実に何かが変わろうとしている。
自分の気持ちが……そうさせている。
もう、子供じゃない……子供ではいられないのだ。陽奈はその思いを、打ち消す言葉を見つけられないままに、吉田の後をゆっくりと歩いて行った。
「はぁ~……」
どうしても、さっきからため息が止まらない。
いつもダイニングから見上げるだけだった、このキッチン。今はそこに立ち、見慣れないカウンターからの風景―――――誰もいないダイニングテーブルを見つめている。
「はぁ~」
陽奈は再び手元に視線を戻すと、蛇口を下におろした。蛇口にはしばらく掃除をしていない事をものがたり、水垢がこびりついていた。勢いよく水が流れだし、冷たい水が陽奈の手を濡らし始めた。無意識に玉ねぎを洗う。
ジャージャー
水の音が少々大きくても、陽奈は別の考えに気が取られてそれどころではない。
……どうしよう。やっぱり……聞いてみるべきかな……
先ほどから同じことを何度も考えている。
今は爽の家だ。爽から渡された鍵で先に家に入り、約束通り手料理を作るため持参したエプロンを着用して、今はキッチンに立っている。
爽は何時に帰ってくるのかわからなかったが、おそらくは毎日遅いので、今日も同様だろう。
そして時刻はPM7時に差し掛かるところだった。とはいえ、未だ炊飯器のスイッチを入れたのみ。具体的な手料理は、できていない。
陽奈は実家暮らしなのだが、実のところ料理は得意だ。休みの日は、母に変わって夕食を作ることも、しばしば。お菓子にしてもそうだが、基本的に何かを創ることが好きなのでその工程を楽しんでいる。 だから爽から“手料理が食べたい”とリクエストがあった時、それ自体に何ら負担は感じなかった。(爽に……と言う部分は別だ)
かつてお互いの家を行き来していた際、一緒に食事をする機会も多く、爽の好きなものや嫌いなものも把握しているし、メニューもあっさりと決まった。
ハンバーグなんて何度も作っているものだし、考えることなく身体は動く。動く……はずなのに、どうも進まないのだ。
原因は――――――先ほどの日野の言葉。
“爽はあなたのこと好きじゃないわよ”
「はぁ~……」
今になってバカみたいに、その言葉に落ち込んでしまっている。
あの後、吉田からは“絶対真に受けちゃダメ!”と何度も念押しされた。もちろんそのつもりだったし、その時点ではここまで気にもしていなかったのだ。
しかし家に来て、実際爽の生活空間に足を踏み入れると、爽のことを考えずにはいられなくなった。
そして考えれば、考えるほど……爽の気持ちが気になるのだ。
“嘘だと思うなら、直接聞いてみたら? ”好きなのか?“って”
聞く?
聞かない?
―――――……聞けるの?
そんなことをぐるぐると考え続けていた。
「ただいま~」
陽奈の耳に聞きなれた声が響いた。もうそんな時間かと、急いでダイニングの上にかかった時計を見上げたが、時刻は変わらずPM7時を差していた。
「陽奈~……いる~?」
そんな声が廊下の向こう側から聞こえてくる。
どうやら今日はかなり早い帰宅のようだ。陽奈が来ることになっていたからなのか、たまたまか。いずれにせよまだ夕食ができていないので、そんなことならもっと手際よくやっておけばよかったと、後悔した。
やがて玄関で靴を置く音がして、廊下の板のきしむ音が耳に届いた。
陽奈はハッとして、濡れた手を布巾で拭うと、ダイニングから廊下に続くドアの前に掛けていく。そして廊下に足を踏み入れた時、同じくダイニングに向かおうとしていた爽とぶつかった。
「きゃ……」
「……っと」
驚いて後ろにつんのめった陽奈に気がついて、爽がその背中を支えてくれる。反射的に顔を上げると、爽と至近距離で視線が交差した。
「陽奈、いたのか」
吐息が鼻にかかるほど近くで爽の声が鳴り響いたことに驚いて、とっさに腕で爽を押し、距離を取った。そして再び視線を爽に向ける。
紺のスーツにエンジのネクタイを締め、左手に黒の革鞄を持っている。ややウエーブがかった髪は少し乱れており、いつも爽やかな目元には微かに疲れを感じさせるクマができていた。
まさに仕事帰りのサラリーマン。この廊下に記憶する幼い時の爽と、今目の前にいる彼は明らかに違い、知らない大人の男性に見える。その慣れない雰囲気に妙な男のフェロモンを感じて、ドキッと胸が跳ねた。
かっこいい……!!
どうしよう。今からこんな調子では、夕食もろもろにおいて、平常心を保っていられるだろうか?
陽奈は無意識に高揚する想いと、次第に早まる鼓動を必死で抑え込みながら、必死で練習を重ねていた第一声を口にした。
「しょ……そうちゃん、お……お帰りなさい!」
少しどもってしまったが、何とか練習の成果があったと言える言葉掛けができた気がする。
爽は陽奈の言葉に驚いたのか、一瞬目を見開いた後、何度か瞬きを繰り返した。そして覗き込むように、まじまじと陽奈を見つめてきた。
「なっ、何?」
「……もっかい言ってくれない?」
「え?」
「さっきの……もう一回」
さっき?
さっきのと言うと……
「お帰り……なさい?」
陽奈は言われたままに、そうつぶやくと、爽はその言葉にたちまち破顔した。
わぁっ!
笑顔に驚いた陽奈の腕に、爽はそっと手を添えると、陽奈の頭のてっぺんに軽くキスを落とした。そしてすぐに陽奈に視線を戻して小さな声でつぶやく。
「ただいま……」
いつもの透き通るような爽やかさと異なって優しく包み込むような笑顔を向けられて、頭のてっぺんから足先まで突き抜けるように一瞬で真っ赤に染まる。
心臓が飛び出してしまうのではないかと思うぐらいの衝撃。
その笑顔は……反則でしょ……
真っ赤になった顔を見られなくなくて、とっさにうつむくと、爽は腕に添えていた手を背中に回して、そっと抱きしめてきた。
そして陽奈の肩に顔を擦り付けるようにして、耳元で再びつぶやく。
「陽奈……ただいま」
ああ……もう!
こんなにドキドキさせて、一体私をどうするつもりなのだ。
「お帰り……なさい」
心なしか強くなった腕の力にその身を預ける。このぬくもりに包まれていると、先ほどから考えていたことや、不安がすべてなくなってしまったような錯覚を感じるのだ。
安心感と、昂揚感。
爽の隣は心地いい……そして爽と触れあうと気持ちがいい。
ずっとこうしていられたらいいのに……
「陽奈ぁ……」
「ん……?」
「もう一声くれない?」
「もう……一声?」
何のことだろう?
「やっぱ、定番でしょ。『ご飯にする? お風呂にする? それとも……」
―――――陽奈?
「言いません!!」
「え~……」
「バカじゃないの! 今どき、新婚だってそんなこと言わないでしょ!?」
「新婚……」
何気なく言った言葉を繰り返されて、今更ながらその失言に恥ずかしさがこみあげてくる。
「違っ……た、たとえ、だからっ……」
「ふ~ん……」
もう! 爽が変なこと言うから……!?
これ以上いたたまれなくなって「もう、さっさと部屋言って、スーツ着替えてきなさいよ!」と言って爽を押し退けた。そしてそのまま踵を返してダイニングに戻ろうと足を踏み出す。
すると後ろを向いた陽奈を、再び爽が抱き留めた。
「残念」
「なっ!?」
再び背中に爽のぬくもりを感じて、動揺する陽奈にからかうような爽の声が響いた。
そして「ふっ……」と陽奈の耳に吐息を吹きかけると、その刺激にびくっと身体を震わせた陽奈の耳元でささやく。
「言ってくれたら……三番目を選んだのに。そしたらこのまま俺の部屋に連れて行ったのに……な」
「……っ」
爽はそう言って動揺から身体を硬くした陽奈の頭上に再びキスを落とすと、何事もなかったように「着替えてくるね」と、廊下を歩いて行った。
“三番目”……―――――陽奈?
その言葉の意図を理解して、再び顔が赤くなる。
冗談だとわかっていても、たちが悪い。
火照りきった顔に手のひらを押し付けた。先ほどまで水を使っていたせいか、幾分冷たい手のひらに少し気持ちが落ち着いてくる気がした。
「はぁ~……」
さきほど何度もついたため息なのに、今のため息は何倍も熱い気がする。陽奈は気合を入れなおすように首を振ると、再びキッチンへと向かって行った。




