21.ルビーの神様
玄関のドアを開ければ、その音に気がついた爽が、門の向こう側から顔を出した。
「陽奈! やっぱり家に居たのか」
「……う……うん」
爽は陽奈の顔を見て、ホッとしたように表情を緩めた。どうやら陽奈を心配してここに来てくれたらしい。ドアから顔を出した陽奈を見つけた瞬間の爽の様子から、そう思えた。
「携帯……ごめん。書斎で、本を読んでたの」
「本? 陽奈が?」
爽は意外そうにそうつぶやくと、門のドアを開けて、爽の隣に来る陽奈を見つめていた。
陽奈は先ほど自覚した想いのためが、あり得ないほど心臓がドキドキを打ち付けているのを感じた。爽がそこにいる、そう思うと緊張感から、自然に爽から視線を逸らしてしまう。
どうしよう。うれしい。
好きだと自覚した瞬間から、爽が今まで以上に特別に思えて仕方ないのだ。
ただ爽の姿を見れるだけで、当たり前のように頭上から響く声を聞けるだけで、こんなにもうれしいなんて。
しかし爽の隣に来たものの、どうしたらいいのかわからなくなった。自分の手や足さえ、いつもどう動かしていたのかわからなくなって、その場でじっと固まってしまう。
顔は上げれない。今の自分はきっとおかしな顔をしている。
手の中に、汗が滲んできた。
しかし、その時、爽の手のひらがうつむいた陽奈の頬を包み、強い力で上を向かされた。
バチッと、爽と視線が交差する。
爽の細く繊細なまつ毛の中にそびえる大きな栗色の瞳が、陽奈をまっすぐに見つめていた。
その真剣な瞳に、顔が熱くなってきた。
今が夜でよかった。きっと今の自分は顔が真っ赤に違いない。そしてその逸らせない瞳に陽奈の気持ちなんて、やすやすと見抜かれてしまうだろう。
「泣いてたの?」
戸惑う陽奈の耳に、心配そうな爽の声が響いた。爽は包み込んだ手の親指で、先ほど止まらなくなった涙を伝えた頬をゆっくりとなぞった。
その動作はやさしくて、やがて目尻に微かに残った涙の名残に触れた。
陽奈はそんな爽から視線を外せないまま、されるがままに身を委ねた。爽の手のひらが温かくて、優しくて―――――愛しい。そんな想いが胸に広がった。
気がつけば、爽の胸の中にいた。爽の腕が背中に回されて、抱きしめられていた。
「もどかしい……」
「何が?」
「陽奈が辛そうなことはわかるのに、何もできないから」
「……そんなこと……ないよ」
昨日爽に対しておかしな態度を取ってしまったのに、今、こうして会いに来てくれた。そしてこの胸の中に入れてくれる。
「そうちゃん……」
「何?」
「昨日は……ごめんね」
爽の顔が見えないためか、爽のぬくもりに励まされてか、素直な言葉が口から出ていく。
今なら、言えそうな気がする。
「何に対しての……ごめん?」
「私、変だったでしょ。ちょっと……嫌なことがあって……一人で考えたかったの。あんな態度取って……そうちゃん気分悪かったでしょ。ごめんね」
「別に謝ってほしいわけじゃないよ。……それよりも、少しは解決したの?」
「うん。まあね……そうちゃんの上司の佐伯さん? あの人と話してて……あの人のおかげかもしれない」
佐伯のおかげで、この思いを自覚できた。
陽奈が「そうちゃん、ありがとうね」と言うと、爽は陽奈の肩を持って、爽の胸から陽奈の身体を離し、じっと陽奈の顔を見つめてきた。
「……なら、この涙はなんなわけ?」
「涙は……」
―――――そうちゃんが、好きだから。気持ちがあふれて止まらなかったの。
頭の中にその思いが浮かぶ。今しがた、自覚した想いを、爽は知らない。言えるはずがない。
頭の片隅で未だ……好きになったらダメだ。あの時の爽を思い出せ。と警告する、弱い自分もいる。
まだ怖い。
……そして、爽の反応も……
「本に……久しぶりに本を読んで感動しちゃったんだ」
するすると嘘が口をつく。しかし、絵本も本であるから、あながち嘘ではないかもしれない。
「本当に?」
「そうよ。案外、本も良いわね。今になって好きになってきたかもしれない」
これも本心だ。思い出したのだ。本が嫌いになったのには、あの絵本の影響が大きいことを。
いつかまたこんな辛い思いをしてしまうかもしれないと思うと、本が読めなくなった。
「そうか……」
陽奈の言葉を信じたのか、爽はホッとしたように息を吐き出した。
どうしてこんなに陽奈のことを、こんなに心配してくれるのだろう。
どうして会いに来るの? どうして……?
「どうして……」
ぼそりと心の中でつぶやいた一言が、いつの間にか言葉になって出てしまう。爽はその言葉に思い出したように「ああ……そうだよね。今日来たのは……」と言うと、突如ポケットを探り始めた。
そして「あった……」と言うと、何か取り出して、陽奈の手のひらに乗せる。
「遅くなったけど、誕生日プレゼント」
「……え?」
「渡そうとしてたうちに、俺のほうが先にもらっちゃったけどね」
驚いて、その手のひらに乗せられた冷たく小さな品を見つめた。
―――――ネックレスだ。
アンティーク調の繊細な蝶のモチーフのネックレス。右上に直径3~5ミリほどの赤い石がきらめき、蝶の羽には色とりどりの、小さな石が散りばめられていた。
上品で可愛い。そして蝶は、陽奈が好きな模様だった。
「きれ……い……」
暗い街灯の中に、赤い石がキラキラと輝きを見せる。蝶もありふれたデザインではなく、施された細工が見たことのないほど細やかで、その美しさに思わずため息をついた。
「気に入った?」
その言葉に思わず顔を上げる。爽が満足そうな笑顔で、陽奈を見つめていた。
“誕生日プレゼント”爽はそう言った。
これは、誕生日プレゼント?
このとんでもなく素敵なネックレスは、爽が陽奈にくれたプレゼントなの?
その問いに答えるように、爽が満足そうな表情を見せて、陽奈に笑いかけた。ドキッと心臓が飛び上がった心地がした。
そんな……これは、反則。
再び赤くなった顔を見られたくなくて、もう一度手のひらの中に置かれた、ネックレスに向きなおる。
爽が選んでくれたんだぁ……
「いつも……変な食べ物とかしかくれなかったのに……」
「変な食べ物?」
「イチゴ1パックとか、きゅうり詰め放題とか。思い出した……中学の時、シジミエキスとかもくれたよね? 韓国から直輸入したとか言って……お酒を飲むような年代でもないのに、女の子のプレゼントとしては最悪」
そう言うと、爽はそのことを思い出したのか、噴き出すように笑った。
「それに去年も……くれたでしょ? 食べ物じゃなかったけど、あんな変なプレゼントそうちゃんしかありえないと思ったよ」
「気づいてたんだ?」
「だって……テルテル坊主って……何よ」
「晴れたでしょ?」
「……もう、覚えてません」
爽はその返答に「あはは……」と楽しそうに笑う。ふざけたプレゼントには毎度呆れてしまうとはいえ、あのテルテル坊主が、爽からのプレゼントだったのだと確信できて嬉しい。
内容よりも、誕生日を覚えてくれていたという事実の方が、何倍も嬉しいのだ。
「でも……今年は違うね。食べ物じゃなし……まとも」
まともどころが、特別すぎる気がする。すごく可愛いし、飛び上がるほど嬉しい。
しかし、そこは素直に言えないのだ。
「まあね……最後ぐらいは、まともなものを送ってもいいかなって思ってね」
「……え?」
―――――最後?
「……そうちゃん、またどこか行っちゃうの?」
再び別れを感じるニュアンスの言葉に、怖くなってそう聞き返すと、爽は少し寂しそうな表情で「そう言う意味じゃないよ」と笑った。
「毎年さぁ……陽奈にプレゼントあげるたびに、文句言われてて……でも俺なりに意味はあったんだよね。陽奈には最高のプレゼントをあげてるつもりだったんだ……」
確かに。物心ついてからは文句しか行っていなかった気がする。そんな陽奈に、爽は今のように”幼馴染だから、ひなには今あげれる最高のプレゼントをあげている“と言っていた。
「まあ……よくよく考えれば子供っぽいって言うか、自己満足って言うか……今になって、陽奈が喜ばなきゃ意味なかったのかなって」
「なにそれ……私のためにくれてたんでしょ?! 自己満足とは聞き捨てならないわ……」
「まあ、そうなんだけどね。だから、もうそんなのはやめようかな……って思ってね。とりあえずこれで終わりにしようと思って」
「もう……プレゼントはくれないってこと?」
「いや、次からは陽奈が選んだらいいよ」
「私が?」
「まあそれが本来あるべき姿でしょ?」
「……うん。まあ、そうね」
誕生日プレゼントなわけだし……。
そう思いつつ、再び手の中に小さくきらめくネックレスに再び視線を落とす。何度見てもきれいだ。
爽は自己満足だと、陽奈の本当に欲しいものではなかったと言っていたが、こんなプレゼントだったら、自分で選ぶよりも何倍も嬉しいと思うのに。
「その赤い石。陽奈の誕生石のルビーらしいよ」
陽奈が何気なく右上の赤い石に触れた時、爽がそう教えてくれた。顔をあげると、爽も同じところを見ていた。
「私の誕生石?」
「うん。誕生石を身に着けると、魔除けになるからってデザイナーが言ってたし、相談して……」
「デザイナー……相談?」
聞きなれない言葉に思わず聞き返してしまう。
「あ……間違えた。店員! 店員が相談に乗ってくれたんだった!」
明らかに何か動揺した様子で、爽は言い直した。何か、隠している時の仕草だ。どうしてそんなにt取り乱して言い直す必要が……? そう思ってふと、デザイナーと店員との違いが頭の中によぎる。
これは、既製品じゃ無い、とか?
一瞬そう考えて、それこそ「まさか」と思い返す。わざわざ陽奈のために、デザイナーに相談までして作ってもらうはずがない。
いつも適当なプレゼントしかくれたことのない爽が、今更そんな手の込んだプレゼントをくれたと思うほうがどうかしている気がする。
そう思い直した陽奈に、さらにモチーフを説明し始めた爽の声が聞こえた。
「その周りにある石は、サファイアだそうだよ」
爽は蝶の羽に散りばめられたピンクや緑、黄色の石を指差しながらそう言う。
「サファイア? サファイアって、青い色の石でしょ? それに……」
「通常はそうみたいだね。でもサファイアって、いろんな色があるみたいだよ。ピンクとか
黄色とか……それにルビーも実はその一つなんだ。ルビーとサファイアはもともと、同じ鉱物からできてて、赤いものをルビー、それ以外の色をサファイアって言うんだってさ」
「同じ石から? じゃあ、ルビーとサファイアはただ色の違いから分けられているだけだってことなの?」
「まあ、そうなるね」
「そう……なんだ」
石のことは詳しくないが、自分の誕生石ぐらいはおぼろげに知っていた。そして、今言ったサファイアのことも。なぜなら―――――
「なら、このネックレスは、そうちゃんと私を守ってくれるんだね」
「え?」
「だって、サファイアは9月の誕生石でしょ?」
「……ああ、そうだったかな?」
「そうよ。…………虹みたいにきれいなのに、すべて同じ石から出来てるなんて……不思議」
改めてネックレスを見つめる。暗がりの中でも輝きを失わない、さまざまな色合いを魅せる宝石に、吸い込まれるように見入ると、その輝きに、気持ちが綿のようにふんわりと柔らかくなっていくような心地がした。
まるで爽と二人だけの世界にいるような、そんな不思議な錯覚。
「ルビーの神様だけでなく、サファイアの神様にも守ってもらえるのね。まるでそうちゃんがずっと近くにいて、見守ってくれているみたい」
このネックレスに、爽のぬくもりも閉じ込めておければいいのに……
いつの間にか、驚くほど素直な言葉が、口から滑り出していた。ずっと殻に閉じこもった意地っ張りであまのじゃくな自分ではなく、幼かった頃の、素直に爽を好きだと言ってた頃の様な、無邪気で夢見がちな自分だ。
その輝きが、そんな自分を呼び戻したように……
「ありがとう。大切にするね」
陽奈はそう言って、爽に笑いかけた。
どんなプレゼントだって、こうして素直にお礼を言えば良かった気がする。爽が陽奈のために考えてくれていたのならば、きっと爽が言うように、それが“最高”だったのだ。
陽奈の口にした心からの“ありがとう”という言葉に、爽は驚いたように目を見開いた。
あまりに久しぶりで、意外で、驚くのは無理もないだろう。
その様子に可笑しくなって、笑ってしまった。
「そうちゃん。その顔、おっかしい~!」
「なっ……陽奈が、そっ……そんな顔するからっ……」
陽奈が笑いながら、からかうようにそう口にすると、爽は我に返ったのか顔を赤くして焦ったようにそう言いかえした。
「あははは……」
心から楽しい。うれしい。
こんな風に感じれることが、何よりも幸せだ。
きっと爽がここに居てくれるからだ。
「本当に、ありがとう」
――――――大好き。でも……
「ごめんね」
好きになって……ごめんね。勝手でごめんね。
一瞬、その言葉を飲み込んだ。
言いたいけれど……伝えたいけれど、すべてを伝えるには、まだ勇気が足りないのだ。こんな弱い自分を許してほしい。
「……なんの、ごめん?」
陽奈は言葉にできないまま、首を振った。そんな陽奈を問い詰めることなく、爽は陽奈を再びそっと抱きしめた。
「陽奈……少し、変わったね」
「……え?」
その言葉に、ドキッと心臓が脈を打った。気づかれた……?
「陽奈がきれいで……」
「きっ、きれい!?」
何を言い出すのだ!?
「うん。知らない女の人みたいだった……」
「……そうちゃん?」
「笑ってるのに……どこかに行きそうで……俺は……いつまで……」
背中に回された爽の腕が力を増した。爽は、そこまで言うと言葉を切る。そして、静かなため息の後、小さくつぶやいた。
「俺たちが幼馴染として隣にいられるのは……いつまでなんだろうな」
その言葉は、陽奈の胸に深く突き刺さった。爽がどんな気持ちで、その言葉を口にしたのか分からなかったが、そう言ったまま静かに陽奈の肩に顔を埋めてしまった。
いつまで?
期限があるならば、陽奈に残された時間はどのくらいなのだろうか?
陽奈にある選択肢は……?
手の中にある宝石の輝きは、陽奈の未来を映し出すには、まだ光が足りない。陽奈はそっとその手を閉じた。




