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20.太陽と空

 陽奈は書斎のドアを開けた。

昼間に出入りしたに関わらず、部屋はジメジメとしていて、一日中空気がその部屋に留まっていたことを感じさせた。

 部屋の明かりをつけ、中に入る。緩やかに蛍光灯が明かりを灯し出すと、ヒンヤリと静まり返った部屋が、にわかに時間を刻み始めた。

 陽奈は一度大きく息を吸い込むと、そのまま書斎の父親の机に向かった。

 そしてその机の上に置いてあった、本を手にする。その本は、昼間、陽奈が見つけた絵本だ。

昼には結局、爽の電話で中身を読むことなく、この部屋を後にした。

 ここに再び足を運んだのは、太一が読んでみろと、言っていたからではない。

 あの時に読んだ、一行。

 冒頭の言葉が、気になって仕方がなかった。


 そしてあの後……佐伯の言った一言に、ふと思い出したのだ。




「名前で思い出したけど、陽奈ちゃんって、夏生まれで、太陽をイメージして“陽奈”ってつけられてるんでしょ?」

「はい。もう一人双子の兄がいて二人で“太陽”の文字になるようにって、両親がつけてくれたそうです」

「そうかぁ~良い名前ね。陽奈ちゃんに、ぴったり。爽が以前教えてくれた時から、素敵だな~と思ってたの。爽の名前は、陽奈ちゃん達が太陽だったから空を表す“爽”にしたって。他人なのに幼馴染だからできる繋がりよね~。爽は“空”で陽奈ちゃんは“太陽”。……ずっと一緒にいることが決まってるみたい」


その言葉を聞いた時、デジャブが頭の中に駆け巡った。


―――――そうだ……あの絵本。


あれは、間違いなく私が母親にねだって買ってもらったもの。

“太陽”は私。“空”は爽。そう信じていたころの、無邪気な自分が、その本を見た瞬間、自分達のことのように感じて買ってもらった。



 だから、もう一度ここに来た。

―――――『覚えてない?』

 全く記憶にないけれど、どうしても気にかかる。あの冒頭の言葉が……


 陽奈は改めて、その美しく彩られた表紙を眺めた。青から赤色次第に変化していく、絵画のような絵。そこに輝く黄金色の太陽は、その色彩に溶け合わない。

 その本の下には、読み手が読み込んでいないことを証明するように、きれいな帯がついていた。


“『太陽が空に恋をした』『生まれた時から、つねに隣にいた』―――――色彩のプロとも呼ばれたカール・オデリオンの挿絵に描かれた、太陽と空の美しく悲しいストーリー”


 陽奈はその言葉を指でなぞってから、息を吸い込み、ページを開いた。





『太陽が空に恋をした。


太陽と空は、いつもいっしょだった。

生まれたときから、つねに隣にいた。

太陽は空を明るく温かく照らし、空はやさしく太陽に寄りそった。

風は二人を、「なかよしだね」と言った。

雲は二人みると、いつも「うらやましい」と言って、邪魔をした。

太陽は空が好きで、空も太陽が好きだった。


でもある時

太陽は、空に恋をした。

青く青く広がるどこまでも広い空が、大好きになった。

空は言った。


『私も太陽が好きですよ。私たちはずっといっしょです。でも私は、みんなのものなのです』


太陽は不満だった。

それでは足りなかった。

みんなのものではない、私だけのものにしたかった。

私だけを見つめてほしい。

そしてずっといっしょに……


太陽は思いのままに空を見つめた。空に語りかけて、空を照らした。

ずっと空を見ていたかったから、夜を朝にした。

ずっと空に会いたかったから、雨雲をどこかに追いやった。

夕焼けは嫌い。

青い青い空が、とこまでもいつまでも続いた。


やがて、地上の川は干からび、海は塩となった。木は枯れ果てた。

生き物は生き絶え、次第に上がる温度に山がうれしそうに噴火の息を吐き出した。

地上の空気は真っ黒に染まった。

やがて空は霞み、太陽の大好きな青い空は見えなくなっていた。

ある日、空は言った。


『お別れです』と。


太陽は信じなかった。

何日も何日も、空を待ち続けた。

空が戻ってくることを信じて、待ち続けた。


しかし空は消えた。

太陽の前から消え、太陽は一人になった。

 



やがて太陽は気がつく。

太陽が恋をしてしまったから、空は消えてしまったのだと。

太陽が空に恋をしなければ、空は消えなかったのだと。

『みんなのものなのです』

空はきっとこう言いたかったのだ。


恋をしてはいけない。

私たちは恋をしてはいけないのだと。


 太陽の後悔の涙が地上にポトン……と落とされた。

 背を向けて立ち去る太陽の後ろから、大粒の涙が、雨が地上に落とされていった。


間違いを犯してしまった。

 だから私はどこまでも遠くにいくのだ。


 空よりもはるか遠く、はるか高くに、太陽は進んでいく。

 やがて地上に落ちた雨は、川になり、海になり、生命が生まれた。

 草が生え、木が生まれた。

 そしていつしか、澄んだ空気のその上に、青い空が広がった。

 太陽の恋した青い空。

 でも太陽はそこにはいない。

はるか遠くから、はるか高い、その上の向こうから、そっと光を届ける。


もう決して空には近づかない。

やがて夜が来た。

太陽はそっと目を閉じた。

                                     』




 最後のページは、目を閉じた太陽の眼瞼に広がる景色なのか、黒一色で彩られていた。

 陽奈はパタンと、最後のページを閉じた。

 表紙とは異なる青一色の裏表紙。その上に、ポトンッと水滴が落ちた。


「うっ……うっ……」

 呆然とその青い色彩を見つめる陽奈の目尻から大粒の涙が、とめどなく流れてきた。

 その涙は陽奈の頬を伝い、本へと落ちていく。


 やっと、分かった。

 すべて思い出した。

“あの日”……陽奈はこの本を読んだ……

だから決めたのだ。

もうこれ以上爽を傷つけないように……爽が大切だから、爽を好きにはならない。

太陽(陽奈)は、()に恋してはいけない、と。

そして気持ちに蓋をした。

初めから存在しないかのように……そうすれば、辛くない。

どんなことがあろうと、爽を守り抜く、と。


“嘘をつくことは本当のことをいう事の何倍も辛い”

「うっ……」

 声にならない想いが、涙になって流れ出す。苦しい……ずっと苦しかった。


「陽奈」

 いつの間にか、太一が陽奈の目の前にいた。


「た……たいちぃ~」

「どうして泣いてるの?」

陽奈は震える手で持ち続けていた絵本を、そっと太一の方へ押し出す。太一はその本を手に取ると、静かにつぶやいた。


「読んだんだね。……思い出した?」

 その言葉に、再び止まらなくなった涙をこらえながら、首を縦に振る。


「そっか……」

 太一はそう言うと陽奈の隣に座り、泣いている陽奈の頬を手の甲で拭った。


「爽の誕生日まで読まない。陽奈と爽のお話だから爽が一緒に大きくなったら読むんだって……僕にも見せてくれなかったんだよ。それで、あの日……5歳の爽の誕生日に僕たちは栗ひろいに行った。陽奈は爽が栗が大好きだからプレゼントするって、バカみたいに頑張ちゃってさ……出来もしない木登りをして落ちた。爽は当然ながら陽奈を助けたけど、そのせいで大けがをして熱を出して……。陽奈の方も大変だった……爽のところに行くって聞かないし、ずっと泣いてるし。仕方なく、両親は僕を付き添わせて爽の部屋に行くことを許してくれたんだ。陽奈は『爽にこの本を読んであげるんだ』って、『きっと爽のお話だから元気が出る』って言ってた」

 覚えている。そして部屋に入った時、爽は顔中に包帯をして死んだように眠っていた。怖くなって、太一と爽の顔に手を当てて息をしているのか確認したのだ。

 そして……


「寝てる爽の横で、僕と陽奈はこの本を読んだ。初めは爽に聞かせてあげるんだって言ってた陽奈だったけど、途中から声が出なくなった。……今みたいに泣き出して、読み終わった後も、爽の顔をじっと見てしばらく動かなくなった」

 その時の爽を見た時、とっさに自分のせいだと、この太陽のように陽奈が爽を傷つけてしまったのだと思った。

 苦しそうな爽を見ると、自分が爽を好きになればもっと恐ろしいことが怒るかもしれないと……そう思わずにいられなくなった。

 怖くて……願った。

“どうか、そうちゃんを元気にしてください! 私はこの太陽のようにはなりませんから。そうちゃんには、決して恋をしたりしませんから……”

 流れる涙にそう誓ったのだ。


「それからだったよね……それまで爽にべったりだったのに、急に別の女友達を作るようになって、爽から距離を取り始めた。贖罪の気持ちか、爽の前では明らかな態度ではなかったけど、僕から見れば不自然そのものだったよ。そして……おかしなこと言い始めた」

「怖かったから……」

「わかってるよ。僕は全部見てたから……。でも……爽の前で意地を張るたび、バカだなと思ってた。こんな本を真に受けて……どんどん殻に閉じこもっていく陽奈が、かわいそうでさ。早くこんな本のこと忘れたらいいのに、って思ってた。でも本当に忘れて……そのトラウマだけ残すなんてほんとどうしようもないね……」

 トラウマ?

 そうだったんだろうか。今の……この苦しさは、ずっと陽奈のトラウマ(それ)に縛られていたんだろうか。

 ごまかしようのないこの想いも……


「太一……私、そうちゃんが好き……好きなの」

 この想いを口にした時、あふれ出す想いと共に、涙が再び溢れてきた。

 爽を守りたくてついてきた嘘。

 今でもその思いは変わらないけれど、もう自分の中に閉じ込めておけそうにない。爽と再会した時から、爽の笑顔を見た時から……こうなんことが、ずっと怖かった。

 今でも……怖い。


「うん。知ってるよ」

「どうしよう……止められなかった」

「止めなくていいよ」

「でも、私が好きになったら、そうちゃんにまた……」

「バカ、それはもう関係ないでしょ」

「それは……わかる……けど……」

「陽奈の想いを止めるか止めないか……それを決めるのは、爽でしょ?」

 太一はそう言うと、陽奈の腕を持って強い力で立ち上がらせた。


「行っておいで」

「……え?」

「外で、爽が待ってる」


―――――え?


「さっき、陽奈に会いたいって、俺に言いに来た。携帯に電話したみたいだけど、連絡が取れないからって。家に陽奈の靴はあったから……家の中、探してたんだ。そしたら、書斎に灯りがついてたから」

「……なんで?」

「知らないよ。それは直接、爽に聞きなよ」

「でも……」


 今?

 ずっとさまよっていた迷宮の出口を、やっと見つけた。しかし、その出口はさらに入り組んだ洞窟の入り口の始まりに過ぎない。

 “片思い”と言う始まり。

 そんな想いを自覚したとたん、本人と会うなんて、どんな顔をしたらいいかわからない。

 今、爽の前に行って……どんな態度を取ってしまうのかすらも、不安なのだ。


「行きたくない? それなら、俺が追っ払ってあげようか? 陽奈が本当に会いたくないって言うならね」

 陽奈が躊躇している様子を見て、太一はからかうようにそう言った。そして意地悪そうな笑みを陽奈に投げかけ、鼻で笑って見せる。

 その挑発的な仕草にむっとして、元来の意地っ張りな性格が顔を出してしまった。


「行くわよ!」

「あっそ……じゃあ、いってらっしゃい」


 あ……

後の祭りとは、この事だ。陽奈は「久しぶりに、ここの本読もう~っと!」と嬉しそうに本を取り出した太一をしばらく見つめ、やがて諦めたようにため息をつくと、書斎を後にした。




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