17.揺れる思い
「陽奈」
店を出ると、その声とともに、爽が裏の出口の路地の歩道と車道とを隔てるガードレールに座ってるのが見えた。
爽は昼間と変わらぬ笑顔を浮かべ、陽奈に駆け寄ってくる。
「迎えに来た。帰ろう」
「……」
その言葉に返事を躊躇する。まさか……今日も来るなんて。
陽奈はいつものようにはやし立てる同僚を適当にあしらうと、爽の顔を見ないまま帰路に向かって歩き出した。
爽は何度かそんな陽奈の同僚とやり取りをした後、爽を置いて歩き出した陽奈の後を追ってきた。
自分の行動が不自然だと言うことはわかっている。
しかし今は――――――今日は、爽に会いたくなかった。
あれから数時間、多忙を極める厨房にいてもどうしても、お昼に日野の言った言葉が頭に残っていた……なぜだか、気持ちが混乱して……どうしてこんなにも動揺するのかわからないのに、どうしようもなく考えずにいられないのだ。
どうして好きな人がいるのに……彼女がいるのに……
そう思うと、必ずと言って良いほど、この考えに行きつく。
それは私の考えることではない――――――幼馴染はそんなことを考える立場じゃない。
だから……会いたくなかった。こんな混乱したまま、自分の不可解な気持ちが理解できないまま会っちゃいけない。
そっと……していて欲しかった。
「じゃあ……ね」
一言も話せないまま、家につく。陽奈は門に手に掛けて、そうつぶやいた。
今日の爽は、いつもと違う陽奈の様子に気を使ったのか、一度も話しかけてこなかった。こんな風に何も話せぬまま時を過ごしたのは、再会して初めてのことだった。
一体、爽がどんな顔をしていたのか、陽奈にはわからない。
しかし、一秒でも早くこの場から離れたかった。
「陽奈」
今更ながら呼びかけてきた爽を振り向くことなく「何?」と、返事を返す。
「仕事で……なにかあったの?」
「……別に……そうちゃんには関係ないことだよ」
「そう……」
陽奈が言うつもりが無いことが分かったのか、爽はそれ以上聞いてこない。しかし、陽奈がそのまま帰ろうとすると、思い立ったように「待って」と叫んだ。
「今日言ってた、陽奈のガレット。持って帰ってきてくれた?」
「……」
「言ったよね? 取りに行くって。欲しいんだけど」
“陽奈のガレット”
それは陽奈が今年、社内の商品開発で一位を取り、店頭に商品化した栗のガレット・ブルトンヌ。
栗を練りこんだ生地に、荒い栗とチョコレートを練りこんだ生地を挟み込み焼いたものだ。触感、風味ともに陽奈の納得のいく品だっただけに、選ばれた時は本当にうれしかった。
爽のために作ったのではなかったけれど、爽の好きな組み合わせだったから、いつか食べてくれたらいいのにと思っていた。
まさかこんな形で、この存在を知られると思っていなかったが……
陽奈はカバンを開くと、吉田に冷やかされながら無理やり渡されたガレットの入った袋を取り出した。
そして振り向き、黙って渡す。
「ありがと。大切に食うよ」
「……うん」
爽はそう言うと、おもむろにもらった袋を振って見せ、ガッサガッサと音を立て「よし、何個か入ってるよね」と言った。
「明日、俺の以前の上司が来るって言ってただろ? その人にも食べてもらおうと思って」
「……え?」
その言葉を聞いて、再び昼間と同じような嫌な心臓の音が耳に響き始めた。
それって……爽の彼女?
「なんで……」
「課長、甘いものに目が無いんだよね。向こうでよく休憩中とか、菓子の話してたんだ。彼氏が和菓子屋の職人らしくて、俺も陽奈……幼馴染がパティシエだってことで、気が合ってさ。普段は男に交じってバリバリ命令とかしてくるくせに、菓子の話になるとやたら乙女になるっていうか、相当な甘党なんだよね。で、その人、本当は洋菓子好きでさぁ、でも普段は和菓子ばっかでつまんないとか言うし……ついでにつらつらと彼氏の愚痴聞かされて……まあ、それはいいや。だから、せっかくこっち来るんならさ、明日陽奈の焼き菓子あげて自慢してやろうと思って……」
爽はうれしそうにそう言って笑いかけてきた。
幼馴染のお菓子を彼女に?
どうしよう……苦しい……
爽から視線を外して、下を向く。知らずに涙があふれてきた。
どうして涙が出るの? 何にこんなに心を乱されているの? どうしてこんなに――――――悲しいの?
「陽奈?」
突然黙って下を向いた陽奈に、爽の心配そうな声が響いた。
「やっぱり……お前、今日おかしい」
目尻からあふれ出る涙をこぼさないように必死でこらえながら、首を振った。
ダメ! ダメ……爽にだけは、泣き顔を見られたらダメだ。
その思いに反して、爽の腕が陽奈の方に伸ばされる。とっさにその手を避けるように一歩後ろに後ずさった。
その仕草に、陽奈の拒否の姿勢を感じ取ったのか、わずかに爽の腕が震えた……気がした。
「俺には言えないこと?」
言葉を発すれば高ぶった感情と共に、たちまち涙があふれてしまいそうで、ただ首を振る。
わからない……でももう、ほっておいて。
陽奈がそのまま踵を返そうとすると、その腕を爽に掴まれた。想像よりもずっと強い腕の力に、爽を振り向けないままにはっと息を飲んだ。
「俺じゃ頼りにならない? 陽奈が辛そうな時に、そばにもいさせてもらえないの?」
「やめてっ……」
これ以上、私の心を乱さないで!?
「やめないよ。だって俺は……俺はいつも陽奈の隣に居たくて……」
「はい……ストーップ!」
爽が何か言おうと言葉を発した時、二人のすぐ隣から突如、聞きなれた冷静な声が響いた。
ハッと振り向けば、太一が見下ろすほどにすぐそばまで来ていて、清流のような静かな瞳で二人を見つめていた。
そして太一は同じくその声に視線を向けた爽に、「爽、それ以上はダメだよ」と冷たく言い放つと、強く掴まれていた二人の手をさっと引き放した。太一の細く冷たい手が陽奈に触れると、思いがけず気を張っていた気持ちが緩んで、無意識のうちに太一に駆け寄りその肩に顔を埋める。
太一はそんな陽奈の様子を宥めるように、ポンポンと背中を叩いた。
「爽、もう帰れ」
「太一……」
「もともと人にあれこれ言わないのわかってるだろ? 陽奈を追い詰めるな」
「でも……」
「僕は爽のやりたいことにあれこれ意見するつもりはないよ。でも今はダメ。帰って」
太一はそう言い放つと、陽奈の顔を爽に見せないように背中を押して、家の中に入る様に促す。
陽奈はその腕に支えられるようにして玄関に入ると、太一は「ちょっと……待ってて」と言って、爽のもとに戻っていった。
そしてしばらくすると、いつもと変わらぬ様子で玄関から帰ってくる。
突然の太一の登場で、混乱していた気持ちは少し落ち着きを取り戻し、あふれて止まらなかった涙はいつの間にか止まっていた。
「落ち着いた?」
「うん……」
「それならいいけどさ」
太一はそれ以上何も聞かない。もしかして先ほどやり取りを、爽から聞いたのかもしれない。しかし爽とてその理由は知らないのだ。陽奈自身も……わからない。
「そうちゃん……帰った?」
「抵抗してたけど、無理やりね」
「……太一は、なんで……居たの?」
「小腹がすいて、コンビニ行ってたんだよ。家に着いたら、二人が見えて……それで」
「どうして……」
――――――助けてくれたの?
陽奈が皆まで言わずに、太一を見つめると、太一は呆れたようにため息をついた。
「困ってたみたいだからさ」
「え?」
「双子の……勘みたいなもんかな。爽から逃げたいって思ってるみたいに見えたんだ。原因は知らないけどさ、意地っ張りな陽奈が珍しく泣きそうになってて、で、そのことは爽に知られたくない……て感じかな」
ドンピシャだ。
どうして、太一にはわかってしまったのだろう。
図星を突かれたことに驚いて目を丸くする陽奈に、太一は仕方ないと言った風に息を吐いた。
「何があったか、言う気ある?」
その言葉に首を振る。
「そう」
「違うの。私にもわからないの……何が、こんなに……混乱してて」
「ふ~ん」
「太一……私、変なんだ。どうしちゃったんだろう。そうちゃんは悪くないのに……苦しいの」
「苦しい?」
「苦しくて……そしたら考えたらダメだってどこかで警告が鳴るの。自分が分からない……怖いよ……」
吐き出すように気持ちを告白すると、再び涙があふれてきた。そんな陽奈を、宥めるでなく太一はじっと見つめていた。
涙はとめどなく溢れては、流れ、やがて静かに床に落ちていく。
その涙に答えが見えたらいいのに……そして、跡形もなく陽奈の心から出ていけばいい。
"怖い"―――――今、太一に言った言葉……それは、爽と再会した時から感じていた。爽と親しくなればなるほど、そう感じずにいられないのだ。
どのぐらいそうしていただろうか。やがて陽奈の気持ちが落ち着いてくると、太一がぼそりとつぶやいた。
「そこまで想ってるから……根深いのかな」
「え?」
「俺の方が、陽奈の気持ちがわかるのかもしれない」
「……どういう事?」
陽奈が問い返すと、その言葉に太一は意地悪そうに笑う。
「もっと単純だって言ってるの。でも、答えは陽奈が見つけないとね」
そう言って、太一は陽奈のおでこを指ではじいた。
「……ったぁ!」
「ヒントは十分言ったはずだよ。後は、陽奈次第」
私、次第?
ヒリヒリと痛むおでこを抑えながら、太一を見つめる。
太一は『ばーか』と、口パクで陽奈に言い放つと、少し大人びた表情で陽奈に笑いかけたのだった。




