16.牽制
吉田と話していたのですっかり忘れていたが、そうだ、日野がいたのだ。
「幼馴染なんて今更の立場を利用して爽に近づいて……さりげなく周りに協力までしてもらうなんて、子供じみてるわね」
日野はその言葉を裏付けるように、陽奈に鋭い視線を送ってきた。どこを見てそう言っているのか、分からないが、先ほどよりもあからさまな敵意だと思う。
これは、爽が好きゆえの嫉妬?
「……言ってる意味が良くわかりませんが?」
「そうかしら? 私には……」
「爽が気になるなら、外野に気を取られてないで、堂々とアプローチされたらいかがですか?」
そのストレートな言葉に、カァッと日野は顔を赤くする。図星を突かれた、といったところだろう。
陽奈に向ける嫉妬は、見当違いもいいところだが、目には目を歯には歯を。―――――売られた喧嘩は買うのだ。
「確かに私は爽の幼馴染です。でも立場を利用したことなんてありません。爽とは長い付き合いですし、今更利用しなくてもあなたより、爽に近い位置にいますから」
少々誇張した感は否めないが、この嫌味なお姉さんには丁度いいだろうと思う。
現に日野は、顔を赤くして陽奈を鋭い瞳で睨み付け、怒りのボルテージを上げている。
わかりやすいという意味では、可愛げがあるかもしれない。
―――――爽は日野のことをどう思っているのだろう?
“日野よりも自分の方が……”自分で口にした言葉が脳裏に蘇った。
それは真実ではないのだ。なぜなら……それは―――――爽が決めることだから。
「あっ、……あなたも私と同じね!」
「同じ?」
「爽の一番近くにいるって勘違いしてるでしょ……っ! 所詮一番になれないのに……気がついてない、少し前の私と同じ"バカ"よ」
一番になれない?
悔し紛れに叫んだ言葉をわかっていても、その内容が気にかかって思わず聞き入ってしまう。
「私は違うわよ。爽に好きな人がいるのを知っていて、奪おうと思ってるだけ。だって、遠距離なんてうまく行くはずないもの。こうして近くにいるんだから、私の方が有利よ
」
……好きな人?――――――遠距離?
「それって……」
先ほどまで悔しそうに顔を歪ませていた日野は、戸惑った様に聞き返した陽奈の様子に、バカにしたような笑みを浮かべた。
「やっぱり知らなかったのね。所詮、幼馴染だもんね。爽は前の職場の上司に片思いしてたのよ。佐伯課長は当時付き合っていた人もいたし、爽はあからさまなアプローチも控えてたみたいだけど、何度か二人で飲みに行ったりしてたみたいだし、佐伯課長も爽のこと可愛がってたわ。きっと佐伯課長も悪い気がしなかったんでしょうね……まるで自分が優位だってわかってるみたいに、私の邪魔ばっかりして……とにかく嫌な女だったわ」
そう言うと、日野はその時のことを思い出したのか、悔しそうに唇を噛んだ。
「でも聞いたのよ。爽と私の送別会の時、爽が佐伯課長に告白しているのを」
―――――こく……はく?
「“好きです。好きな人がいても諦められません、奪います”って。佐伯課長もその言葉に、爽を受け入れたみたいだったわ。抱き合ってたし、その後、課長と爽、二人で消えたから」
「受け入れ……たって……二人は付き合い始めたってことですか?」
「そうでしょうね」
そう言うと、日野はバカにしたように鼻を鳴らす。
「でも、そんなこと関係ないの。あんな年増より、私の方が格段に可愛いし良い女だもの。それに物理的な距離も有利、アプローチもし放題よ。このまま近くにいて、徐々に入り込むの。現にセフレにならないかって言われたこともあるし……あの時はカッとして断ったけど、それも一つだと思ってるの」
セフレって……爽がそんなことを……!?
「それに爽とのキスって気持ちよかったし……」
「……えっ?」
キス?
今……キスって言った?
「なに? 驚くようなこと? 向こうの職場じゃ、私が爽の一番近くにいたって言ったでしょ。爽って、なんでもサラッとやってのけちゃうじゃない? 突然だったから、私は心の準備もする暇もなかったわ」
“キス”
……再会してから、幾度となく爽が陽奈にしてきたことだ。
その行為が特別だと勘違いしていたわけではない。爽と陽奈は幼馴染であって、恋人ではないのだから。
始めにキスされたとき、爽ははっきりと“大人ならばキスは大したことない”と、大人には“大人の幼馴染の付き合い方”があると言ったのだ。
あのキスには意味が――――――気持ちは存在しない。そんなことは分かっている。
そして……爽は日野《この人》にもキスをした。
そして…………爽には好きな人が……彼女がいる?
そう頭の中で理解した瞬間、頭がガンガンと音を立てた。
心臓が嫌な音を立てて、どくどくと早鐘を打ち始めた。
――――――わかっている。わかっていたのに……!?
「とにかく、今更あなたみたいな、中途半端な存在は邪魔なの。関係ない奴は引っ込んでてくれない? ただでさえ、明日は佐伯課長がこっちに来るんだし、準備ってもんが……」
え?
「上司……って、そうちゃんの彼女のことだったんですか?」
「そうよ。だからあんなに浮かれてたじゃないの」
確かにすごくうれしそうな様子だった気かする。
それは……彼女に会えるからだったのだ。
「お待たせしました~!」
話し込んでいた二人の背後から、軽快な吉田の声が聞こえてきた。
その声にハッとして陽奈は吉田を振り向いた。吉田はきっちりとラッピングされた菓子箱が幾重にも詰め込まれた袋を日野に手渡すと、同時に陽奈に視線を向けた。
「陽奈、そろそろ行ったほうが良くない?」
「う……うん」
時計を見上げれば、あっという間に、休憩時間を過ぎていた。まだ仕事は山のように残っているのだ。
吉田の声に押されるように陽奈は、よろよろとカウンターの方へ歩いていく。すると、背後から再び牽制するような日野の言葉が飛んできた。
「邪魔しないでよ。あなたのために教えてあげたんだから、おとなしく引っ込んでて」
陽奈が返事をする間もなく、その言葉と共に日野は出口へ向かって行った。
「陽奈、大丈夫?」
心配そうな吉田の声が背後から響いた。
胸が苦しい。
“大丈夫だよ”たったそれだけの一言も言えないまま、陽奈は日野の残した出入店を知らせるチャイムの音をじっと聞き入っていた。




