12.黒の……黄身?
「梶原?」
「彼女には一言も……挨拶の一つもないんですか?」
「は?」
「え?」
朝倉と陽奈の間の抜けた声が同時に響く。そのシンクロした思いを共有するかのように朝倉と視線が合った。
明らかに、朝倉も戸惑っているようだ。陽奈と朝倉は視線を合わせたまま、何度か瞬きを繰り返した後、その答えを探すように再び爽に向きなおった。
「そうちゃん……?」
「彼女は、俺の幼馴染の笠井 陽奈。笠井専務の愛娘です」
爽の言葉を受けて、朝倉の顔色が変わる。やがて事態を把握したように小さく「ああ……専務の」と呟いた。
なんなの?
どうして、わざわざ陽奈を紹介する必要があるのだろう。もしかして、この人と父には何か関係があるのだろうか……?
ますます疑問符の飛ぶ陽奈は答えを探すように朝倉を見つめる。その視線に朝倉が再び陽奈に視線を向けた。
……ん?
なぜか、一瞬睨まれた気がする。彼女以外の女性には興味がないのだろうという事は、先ほどからの態度から見てなんとなくわかるのだが、今陽奈に向けられた視線はそれよりももっと何か嫌なものを見るような敵意のようなーーーーーー初対面なのに嫌われていると感じずにはいられない。
なんなの……この人。
なんとなくむっとして陽奈もキッと睨み返した。
傲慢な男だという印象だが、さらに”失礼な奴”という項目も追加してやる。そう心の中で決意しながら視線を外すことなく朝倉に宣戦布告のごとく見つめかえした。
しかし、まさか反撃されるとは思っていなかったのか、そんな陽奈の視線に驚いたような朝倉の視線がぶつかった。
ちょっとかっこいいからって、調子のんなよ!
心の中で勝った……という、勝利をかみしめながら、得意になって爽を見上げた。しかし、怪訝そうに陽奈を見つめる爽の視線に、ハッと今の状況を思いだした。
しまった……やってしまった。
この人は爽の上司。専務である父親の会社の関係者だったのだ。相手の態度いかんよりも、ここは娘として礼儀正しく接するところだった。そう思い返して、一度視線を外し小さく息を吸い込むと、仕切りなおすように作り笑顔を浮かべ、朝倉に向かって自己紹介を口にした。
「初めまして……笠井陽奈と申します。いつも父がお世話になって……」
陽奈がその言葉を言い始めたとき、突如驚いたように朝倉の目が大きく見開かれた。その驚愕したような表情に、陽奈まで驚いて言葉を切る。
「な、なんですか……?」
「……今……」
「は?」
どこか奇妙な反応を見せる朝倉の様子に、眉をひそめる。そんな陽奈の様子に負けず劣らすこの男も怪訝そうな様子で陽奈を見つめ返してきた。
「……君、本当に笠井専務の娘の”陽奈”?」
「はぁ……? そうですけど……?」
「確か……菓子作ってる……?」
え?
「ご存じなんですか?!」
初対面なのにどうもおかしいな反応見せると思ったら、どうやら自分の存在をしっていたらしい。そういえば以前あのおかしな上司、平田という男が父が陽奈のことを会社でも話していると言っていた。ちょっとした噂になっていると。
あの時爽に邪魔をされて内容が聞けなかったのだが、きっとこの朝倉という人物もその噂とやらを知っているのだろう。
だからさっきから……ーーーーーー
「また……パパ……?」
「パパ? ……笠井専務…………? 」
「颯人さん……?」
独り言のように「そうだよな……初めから……違和感が……」などと呟やきながら考え込み、まじまじと陽奈を見つめる(この男の場合、睨むといった表現のほうが正しい)朝倉の様子に、心配になったのか彼女が遠慮がちに声をかけた。
その声にハッと朝倉は、彼女に視線を向けた。
「どうしたんですか?」
「杏実……」
どこか様子のおかしい彼氏の様子に、彼女は陽奈と朝倉を交互に見つめた。
その視線は……何か過分な心配が含まれている気がして、少し居心地が悪くなる。なんだか……この状況、誤解されているような気が……
そんなことを心配しかけたとき、朝倉はやがて何か思いついたように「あ……そうか……そういう事か」とつぶやいた。
そして先ほどの嫌悪感に満ちた視線とは打って変わっていたずらを思いついたような含みのある視線を向けニヤリと笑うと、そのまま心配そうな彼女に向きかえる。
「平田の言ってた意味、分かった」
「……え?」
そして彼女の耳に顔を近づけて、何かをささやいた。たちまち驚いたような視線を彼女から向けられる。
「お見っ……もぐっ……!!!」
「こら! 黙ってろ!」
何か言おうと口を開いた彼女の口を押えて、朝倉はそう言い放つ。そんな朝倉の行動になぜか涙ぐんだ様子で怒ったように「だって……だってぇ……!!」と必死に言いかえしている彼女の様子が映った。
痴話げんか?
突然始まった二人の妙なやり取りに、そんなものは他でやって欲しいと思う。
興奮した彼女の様子にどこか嬉しそうな朝倉はなだめるように彼女の頭を撫でる。そしてさらに引き寄せてその頭頂に軽いキスを落とすと、陽奈に向き直った。
「少し確認したいことがあります……」
「はい?」
「”黒の君”はご存知ですか?」
「…………は?」
”クロノキミ”?
初めて聞く言葉に思わず素っ頓狂な声が漏れる。そんな陽奈の様子にも、さも面白そうな表情で朝倉は陽奈の答えを待っているようだった。その隣で不安そうな彼女の瞳が陽奈を見つめている。
なんなのよ……
どうも、おかしい。どこか、この状況はおかしい。しかし、どこがなのか……理由もさっぱり思いつかない。それに”クロノキミ”ーーーーーなにそれ?
「朝倉課長! ちょっとさっきから……」
陽奈と朝倉の様子に傍観していたはずの爽が口を挟んだ。しかしその瞬間、朝倉の怒声が響く。
「梶原! ちょっと黙ってろ! ……お前が連れてきたんだろ? 俺には彼女と話す権利があんだよ」
「ぐっ……」
「バカだよなぁ~……でも、悪くない。お前の一途な精神を称えて、欲しい答え、やる。見てろ」
「……」
「で……陽奈さん。ご存知ですか?」
クロノキミ……クロノキミ……
頭の中でその言葉を繰り返したときハッと先ほど朝倉から”お菓子を作っている”と言われたことを思いだした。
もしかして……それに関連した質問?
あっーーーーー
「黄身! 黒い黄身って……温泉玉子の一種ですか?」
「ぶっ……はっ!」
陽奈が考え抜いた答えを発した瞬間、突然朝倉が噴出した。そしてそのまま彼女に寄り掛かるようにして笑い続ける。
その様子から、どうやら陽奈の出した答えは、朝倉の求めるものとは違っていたのだという事がわかる。しかし、突然おかしな質問をしてきた挙句、笑い飛ばすとは失礼だろう。
むっとして言い返そうとしたとき、陽奈の苛立ちを察したのか、朝倉が手を上げて陽奈の言葉を制した。
やがておかしさをどうにか抑え込んだ様子で、陽奈に向き直り口を開いた。
「笑ってすみませんでした。少し……思うところがあって、これで解決しました」
「はぁ……」
そんな清々しい顔でそういわれても、こちらは全く意味不明だ。
「陽奈さん……でしたよね? 改めまして、朝倉颯人と言います。いつもあなたのお父さんにはお世話になっています」
やはり父と面識があるようだ。しかし、やけに“お世話に……”と強調されていた気がした。
ただの社交辞令? それとも……
「……こちらこそ」
「専務は、私の誕生日やらバレンタインやら行事ごととかこつけては、いつも大層な品を用意してくださるんですよ。しかし……僕は受け取らないどころか、何のお礼も申し上げずで、いつも申し訳なく思ってました」
「はぁ? 父がそんなことをしてるんですか?」
なぜこの人にそんなことを?
相当のお気に入りなのだろうか。それとも、この人は何か権力者の関係者で……賄賂とか? 堅実に仕事をしていると思っていたが、そんなことに手を染めて……?
「陽奈、何を言ってるんだよ!」
頭の中で朝倉の言葉を分析していた陽奈のもとに、突如焦ったような爽の声が届いた。
「え?」
その声に驚いて声を上げた陽奈の横から、さらに面白がったような朝倉の言葉が重なる。
「それと、陽奈さんに改めて紹介させてもらえますか?」
「え?」
その声に爽から朝倉に再び視線を戻すと、朝倉が隣にいた彼女を引き寄せて、嬉しそうな笑顔を浮かべ「婚約者の、杏実です」と言う。
「婚約者ですか……?」
かなりラブラブだと思っていたが、婚約していたのか。
「はい。そのことも、何度も何度も、専務にお伝えしたんですがね……これがなかなか納得していただけなくて……」
「……父が……ですか?」
どうしてそこで陽奈の父親の話が出てくるのだろう?
「陽奈さんは祝福してくれますか?」
「は?」
なぜ私の祝福が?
先ほどから、いまいち会話がかみ合わない気がして、陽奈は今まででなく顔をしかめた。
この違和感は、なにかとんでもない真実に行きつくような……嫌な予感だ。そんな陽奈の様子にも朝倉は、素知らぬ顔で口元に笑みを浮かべこちらの反応を窺っているようだった。
胡散臭い……そう思って、何気なく朝倉から彼女に視線を移す。陽奈の視線を感じてか、彼女も戸惑ったような不安そうな瞳を揺らした。その瞳を見て―――――……あっ!と思い出す。
“浮気とか……”
先ほど二人の会話を聞いていた時、彼女はそのことを気にしていたのだ。父親のことや、先ほどから感じる違和感はさておき、このまま何も言わなければ、誤解が生じかねない。とりあえず、今は彼女の手前、誤解がないようにしておかなければ。
そう思って「おめでとうございます。とてもお似合いだと思います」と言ってみる。
「陽奈!」
しかしその瞬間、思いもよらないところから、憤りの含んだ声で呼びかけられた。陽奈は驚いて、思わず朝倉から爽に視線を移す。
爽は苦しそうな表情を浮かべて、陽奈を見つめていた。
「なんで、そんなあっさり言うんだよ」
「え?」
「いいのかよ!!」
「何が?」
「陽奈はずっと朝倉課長のことが好きだったんだろ!?」
―――――…………は?
「バレンタインだって、もう何年も陽奈が朝倉課長にプレゼントしてたんじゃないか……。一目ぼれだったんだろ? 朝倉課長が何度断っても、何年も……何年も気持ちを伝えるメッセージカードを添えて……おじさんの助言にも耳を貸さないぐらい一途に想い続けてるって、俺の前の支社まで届くぐらい有名だったよ。朝倉課長が昇進する前からだから……もう5年以上なるよね。……なのに、ここに来てあっさり諦めるの? せめて、気持ちぐらい素直に伝えたって……」
ちょっと――――――まって……誰が、誰に?!
爽の発言に、言葉を無くした陽奈の顔を見て、朝倉がたまらないといった風に笑い出した。
「あははははは……!」
「朝倉課長!! あなたこそ、婚約者がいるからって、もうちょっと陽奈の気持ちも考えたらどうなんですか!?」
「ぶっ……だってよ……梶原っ! ……この娘。どう考えても俺のこと知らねーだろ!?」
「……は?」
「はっ……“初めまして”って言ってたろーが。俺の話も全部、初耳って表情してる」
「……そんな、まさか」
爽はそうつぶやくと、突如陽奈に振り返り、両肩をつかんだ。
「陽奈。まさか……本当に朝倉課長のこと知らないとか言わないよね?」
「しっ……知らない、全く知らない。だってパパの仕事関係の人なんて会ったことないもん! なんなの、さっきから、嘘だよね? 私が朝倉好きだとか……社内に有名だとか……」
その言葉に爽はガクッと肩の力を落とし「……うそだろ」とつぶやくと、頭を垂れた。そのやり取りに再び、朝倉の楽しそうな笑い声が響いた。
嘘だよね? そんな噂……あっ……!! まさか、あの平田って人が言ってた事って!?
『会いに行かないの?』
そうだったんだ……この人があそこにいたから、そんなこと言ったんだ……。
あの時に問いかけられていたまったく身に覚えもない事、それも……これも……
……パパ~め~~~!!!
「専務から娘と見合いしてくれとか、毎回迷惑なほど熱いメッセージ渡してくる割に、本人には一度も会ったことねーし……梶原に話を聞くまでは、実在する人物と意識したことすらなかったんだよな。……でも……くっくっ……知らねーって……あの専務何考えてんだよ」
「本当なんですね……信じられない……」
「しかも黒い黄身……温泉玉子って……じゃああの呼び名は専務が考えたってことか? あの内容も……気持ち悪りーにもほどがあるだろ!?」
そういうと、今しがた思いだしたのかぞっとしたように顔を歪ませる朝倉の姿が映る。興味のない相手からもらう手紙も喜ばしいものではないが、男ましてや上司のおじさんから熱いメッセージをもらっていたとなると、嫌悪感しか感じないのだろう。
「まあ用事も済んだことだし、杏実、そろそろ行くか」
「あの……なにがなんだか……」
状況が全く把握できない彼女が戸惑ったようにそうつぶやくと、朝倉は彼女の耳に顔を近づけて何かささやく。すると彼女の頬がたちまち赤く染まった。
毎度感じるが、とことんはた迷惑なカップルだ。
「じゃあな、梶原。今度、おごれよ」
「……りょー……かいです」
そう言うと朝倉は、楽しそうな様子で彼女の肩を持って、その場を去っていった。
あ……!
父の所業とはいえ、一言ぐらい謝ろうと思っていたのに……と思ってから、やはり必要ないだろう思いとどまる。朝倉とて一言も声をかけることなく去って行ったのだ。
陽奈に興味が無くなった、と、そういうことだ。
「そうちゃん!」
「はっ、はい」
「コーヒー飲んだら、帰るからね!」
「……承知」
陽奈はそう言うと、なぜか少し笑顔を押し殺したような表情を浮かべる、爽を一瞥し店内に戻っていく。
パパ……帰ったらとっちめてやる~~~!!!
視線の先には二つの冷めたコーヒーカップが、主人の帰りを待っていたかのように並んでいたのだった。




