11.朝倉という男
爽はその声に一瞬顔を強張らせた。陽奈にはそう見えたのだ。
そして、一度深く目を閉じると、何か意を決したような表情を見せ、ゆっくりとその声の主のもとへ振り向いた。
「朝倉課長」
「やっぱり、お前か。飲み会以来だな」
「その節は……飲み過ぎて失礼な発言を、申し訳ありませんでした」
「本音はそんなこと思ってねーだろう?」
「礼儀ですからね」
「はははっ! ……で、うまくいってんのか?」
「課長から言われること自体むかつきますが……おかげさまで、好きなように始めてますよ」
「お前、ほんと男前だな~」
そう言うと、爽に“朝倉課長”と呼ばれた人物は意地悪そうな笑みを見せた。
間違いない、先ほど隣に座っていたあのカップルの彼氏だ。カフェを出るところだったのか(おそらく、映画の時間だ)席を立ち、陽奈たちのすぐ横の通路に立ってこちらを見下ろしている。後ろには、あの可愛らしい彼女がバックを持ったりと、懸命に準備をしている姿が見えた。
「課長、今日はこんなとこで何してんですか?」
課長と呼ぶわりには、爽はどうもこの人物に、慇懃無礼な態度を取っているように見えて仕方がない。先ほどの会話から推測するに、爽はあまりこの人物を好きではないのかもしれない。普段人当りよく、好き嫌いなく誰とでも仲良くなる爽には珍しいことのように思う。
しかし課長の方は、全く気にしていないようだ。
「あ~映画をな」
わっ、この人……
朝倉と呼ばれた彼女の彼氏。先ほどは陽奈からは背を向けていたために全く顔が見えなかったのだが、今改めて見ると目鼻立ちがスッと整ってパーツの配置も完璧な、かなりのイケメンだった。背も高いし、その上この若さで課長。彼女が心配するだけあって、相当モテそうだ。
まあ……あの会話(陽奈が盗み聞き会話だ)を聞く限りでは、彼女にべた惚れのようだから、今のところは浮気などの心配はなさそうに思えるが……。
「颯人さん、お待たせしました」
彼氏の後ろから、先ほどの彼女が顔を出した。そして、ようやく彼氏が陽奈たちと話をしていたことに気がついたようで、「あっ……」と小さく戸惑ったような声を出した。そして、申し訳なさそうに彼氏に話しかけた。
「知り合いと話してるって気づかなくって……私、向こう行ってますね」
「ああ……いい。もう終わる、ここにいろ」
「え……あ、はい」
「課長の彼女ですか?」
二人のやり取りに、突如爽が口を挟んだ。その声に、彼女は爽に視線を向けた。そしてゆっくりその前に座る陽奈にも……。
う……。
見たい。その彼女の顔をじっくり見たいのだが、先ほどの罪悪感からサッと下を向いて視線を逸らした。
ああ~……でも、これってかなり感じ悪いんじゃ……?
とっさに取った行動を後悔するように、視線を泳がせると、いつの間にかこちらを見ていた爽と視線が交差した。
一瞬、その鋭いほど冷たい視線にびくりっと体を震わせる。
なっ……何……? 怒ってる?
知らない間に、なにか爽を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。ひょっとして、陽奈が盗み聞きしていたことに気が付いた?
疑問が頭の中に駆け巡る。しかし明確な答えが思い当たらず視線を逸らせないままに、爽の様子をだた呆然と見つめていると、何も言わず爽の方から視線が外された。
……何? なんなの??
「……課長の本命ですよね?」
「まあな」
「へ~……この人が……」
爽はそう言うと、その彼女をじっと見つめた。
やはり―――――何か爽の様子がおかしい気がする。朝倉に対して何か否定的な感情を持っていることはなんとなくわかる……仕事上の付き合いならば、好き嫌いばかりでは解決できない人間関係が複雑に絡み合うのは仕方がないことだ。
しかし変だと思うのは、今、彼女に向ける爽の視線だ。見つめるというよりもまるで相手を値踏みするような……初対面の相手に少々失礼だと思わざる得ない。いつもなら初対面の相手には、過分すぎるぐらいに愛想が良いのに……。
「あ……の、千歳 杏実です」
彼女はその視線に、遠慮がちに自己紹介を返した。気分を害しているというよりも、爽の態度に戸惑っているようだ。そんな二人の微妙な緊張感に気が付いているのかいないのか、朝倉は彼女の言葉を受けて、言葉を重ねた。
「杏実。こいつは部下の梶原。今年の移動で本社に来たんだ」
「そうですか……」
「梶原です。朝倉課長には……いろいろお世話になってます」
「あ……はい」
「梶原。いろいろって、お前、俺の直属じゃねーだろ」
「社交辞令ですよ。本気にしないでください」
即時に返したなんとも失礼な爽の返答に、朝倉は面白そうに笑った。陽奈には意外に映る爽の様子だが、不思議なことに、朝倉は気を悪くしているようには見えない。むしろ、朝倉のほうが爽を気に入っているようにさえ思えてくる。男の人同士の付き合いは陽奈にはいまいち理解できないので、案外職場ではこんな感じなのかもしれない。
爽よりも幾分深みのある笑い声が店内に響くと、周囲の女性達がたちまちに自分たちに視線を向けてくるのがわかった。ぶっきらぼうな物言いとはいえ、このようなイケメンが笑うと周囲に多大な影響力を及ぼすらしい。陽奈自身もその男らしくも柔らかい笑顔の引力にあがらうことができず、じっと朝倉を見つめた。
なんなの、この人……
かっこいい……のもある意味、罪だ。これが彼氏ともなると、彼女も落ち着かないだろう。とはいえ、どちらかというと何か冷たい雰囲気を漂わせるこの彼氏が、この彼女と会話を交わしているときの雰囲気は柔らかく等身大の男の人であるような気がした。(あくまでも盗み聞きの時の感じたことだが)それはこの彼女の持つ優しい雰囲気や愛らしさがそうさせているような気がするし、陽奈からみればやはりお似合いのカップルだと思う。
そう納得して、朝倉から視線を外すと、ばちっと爽と目が合った。やはり、不機嫌そうに顔を歪め、こちらを一瞥すると、その冷たい視線のままにフイッと視線をそらされた。
……なんなのよぉ……言いたいことがあるならさっさと言いなさいよ!
「そろそろ行くか……じゃあな、梶原」
特に話題が無くなったのか、朝倉はそう言うと、彼女の肩を抱いて店の出口に歩いていった。
とにかく存在感を消すことに集中していたためか、陽奈のことに触れられなかったことにホッとして息を吐き出す。
もう少し彼女をじっくり見てみたかった気もしたが、陽奈が会話を盗み聞きしてしまっていたことに気がついていたとしたら(一瞬、目があったので)、気まずいのでこれでよかったのかもしれない。
しかし……先ほどのイケメンは、爽の上司らしい。……ということは、もちろん父親のことを知っているのかもしれない。
役職の方だったし……一応挨拶していた方がよかったのかなぁ……?
今更ながらそんな気がして、顔を上げて、店内から出ていく二人の背中を見つめた。
そう思っても、もう遅い。
というよりも……あの朝倉という男。爽に声をかけてきたとはいえ、まったく陽奈には視線を向けなかった。爽に連れがいたことに気が付かないはずはないのだが……まさに眼中にないといった感じだったのだ。周囲の女性が向けた熱い視線にも無関心だったし、彼女以外はどうでもいい存在らしい。そういう意味でも、どう考えても社交辞令を好むようなタイプには見えなかったし、これで良かったのだと思う。
爽とは正反対のタイプだったわね……
朝倉の男くさい話し方や笑顔も魅力的だが、陽奈からすれば独善的で、強引かつプライドが高く扱いが難しそうなタイプに見えた。
かつて陽奈が付き合った男にそんなタイプがいた。二人きりの時は優しいのだが、陽奈の周囲の人にはまったく興味を示さず失礼な態度をとる男だったのだ。陽奈が大切だと思う人には、陽奈と同様に大切にしてほしいと願うに陽奈の考えにまったく耳を貸さず、嫉妬深く、束縛も相当なものだった。次第に陽奈の携帯も詮索するようになり、あるとき、陽奈の帰宅が遅くなった事で心配して太一が送ったメールを無断で消去されたのだ。以前からそのことで衝突が絶えなかったこともあり、即、嫌になってが別れてしまった。
それにあの男と付き合ったとき、否応なしに幾度となくこのような思考に至った-----きっと爽なら、こんなことしないのに……と。
爽は、実のところ社交的というよりは周囲の人と、浅く広くで深く関わらないという冷たいところもある。しかし、不思議なことに陽奈の大切にしている人に対しては自分と同様に心を砕いてくれていた。それは自分を大切されるよりももっと嬉しいことだった。もちろん疎遠になってからはそんなそぶりは全くなくなったのだが……何気ない日常の中にそんな幼いころの残像がよぎるのだ。
付き合っている相手に幼馴染とはいえ、ほかの男と比べること自体、相当失礼なことだったと思う。しかし無意識にそう思ってしまうのだから仕方がないだろう。
そういう意味では……原因は陽奈自身にもあったのかもしれない。
「気になるの?」
頭の中でいろいろと思いを巡らせていた陽奈は、その声でハッと爽の存在を意識する。
こんなこと……ずっと忘れていたのに、あの印象的な男のおかげで思いだしてしまった。
なんとなく息苦しく感じて、そっと爽に視線を向けると、陽奈と同様にどこかいつもと異なる爽の様子に驚いて目を見開いた。爽か陽奈をまっすぐに見つめる瞳はいつになく真剣で、どこか悲痛な趣を感じさせた。
「そうちゃん?」
心配になって思わずつぶやいた言葉を無視するかのように、爽は重ねて陽奈に同じ質問を繰り返した。
「あの二人が気になる?」
「え?」
”二人”?
そう問われてハッと先ほどのカップルのことを思いだした。再び出口に視線を向けると、まったく別のことを考えている間に二人の姿はそこから消えてしまっていた。
「あ……うん。ちょっと」
「陽奈に……声かけられなかったから?」
「え……?」
思いもよらない切り返しに驚いて急いで否定の言葉を口にする。
「まさか。そんなの当然だし、そんなことはいいんだけど……」
「当然? なんで?」
「え……?」
テーブルの上に置かれていた爽の右手の指が、微かに上下に動いていた。爽の苛立っている時の動作だ。そして向けられている視線が、先ほどよりももっと冷たく鋭いものと変わっていることに気が付く。
何? ……なんなの?
何か変だと思うのに……まったくその理由は思い当たらない。
「そうちゃん?」
「イライラするよ。こうなることを望んでたのに……」
”こうなること”?
「こんな遠慮して……陽奈らしくないよ。それだけ本気だってことなんだろうけど…………」
「本気……?」
先ほどから爽は何を言ってるのだろうか。
ますます疑問に思って聞き返した陽奈を、爽は苦痛に歪んだ顔で見つめると、突然陽奈の腕を掴んで立ち上がった。
「協力する気はない。……けど、ほっとけない」
「え?」
「行こう」
爽はそう言うなり、戸惑う陽奈を強引に引っ張ると、ずんずんと店の出口に向かって歩いていく。
「ちょ……そうちゃん、コーヒー!」
振り向けば、一度も口をつけていない2つのコーヒーカップが目に飛び込んできた。必死でそれを指差し、せめて飲み物だけでも取りに行きたいと訴えるものの、爽は聞く耳を持たない。
陽奈は引きずられるように爽に店の外に連れて行かれると、爽の「朝倉課長!」と、叫ぶ声に驚いて顔を上げた。
そしてその声に、映画館の入り口に向かおうとしている一組のカップルが、振り向いた。
朝倉と杏実と呼ばれた彼女だ。
二人とも陽奈と同様に、目を丸くして驚いたように爽と引きずられるように姿を見せた陽奈を見つめて立ち止まった。
「そうちゃん!」
もうっ……どうしちゃったの!?
陽奈が呼びかけた声も無視され、爽は無言で二人のもとに陽奈を連れていく。
やがて二人の目の前に来ると、陽奈を前に押し出した。




