10、不可抗力な盗み聞き
かつて爽と二人きりで街中を歩いたのは10年以上も前のことだ。爽に会う前は、何を話そうとか何が好みなのか、どこに案内すればいいの……などといろいろと考えあぐねていたものの、思いのほか、爽とのお出かけは楽しいものだった。
爽はデスクワーク中にのみ使用するメガネを探しているらしく、何軒か回った後、一つを選んで購入した。それは爽が、真っ先に手に取った品ではあったが、陽奈も絶賛したフレームだった。
今どきはやりの太めのフレームではないが、サイドに細工が施された上品なメガネだ。爽の細い線によく似合っており、それをつけると柔らかい中性さがシャープな印象に変わる。出来上がった品をかけ、フレーム越しに陽奈を見つめられた時、不覚にもドキドキさせられた。
陽奈は俗な“メガネ男子への萌”などとは、無縁だ。しかし……爽に見つめられた瞬間、そんな人たちの気持ちが少しわかる気がした。
しばらくぶらぶらと散策した後、少し休憩しようと爽が言い出した。
施設案内図でカフェを見つけ、二人で向かう。
店内はpm3時に近いこともあり、人でごった返していた。陽奈は店内を見渡し空いた席を見つけると、爽に注文を任せて席の確保に向かった。
「ふう~……」
二人が向かい合って座るだけの小さな席だったが、とりあえず座れる席を確保できたことにホッとする。
小さなため息とともに、足の力が抜けると、先ほどから少し痛みのあった踵の感覚が少し和らいだ。
靴箱に長らく眠っていたパンプスを履いたせいだ。このところいつもスニーカーばかりで女としての自覚が足りない気がして、買ったもののほとんど履いたことないこのおしゃれな靴を選んだ。それが間違いだった。
女の美には努力と忍耐がつきものだと言えども、できれば痛みは避けた方が賢明だ。
とはいえ、先ほどタイミングよく爽が“ドラックストアに行きたい”と言うので、こっそりと絆創膏を購入できたのだ。後でトイレにでも行ったときに貼ろうと思っていたのだが……
陽奈はカバンからその絆創膏を取り出すと、こっそりと爽が帰ってこないか確認する。
レジからは2~3組離れたところで、退屈そうに順番を待つ爽の姿が映る。まだ帰ってくる様子はないようだ。
陽奈はさりげない動作で、踵の少し擦り切れた傷に絆創膏を貼る。そして、保護された場所を確認し、安心感からほっと溜息をついた。
気持ちが落ち着くと、次第に周りの声が陽奈の耳に届いてきた。ガヤガヤと話し声が混在する中で、フッとなんとなしに「そろそろ、時間ですね」と言う、通路を挟んで右隣の女の人の声が陽奈の耳に入ってきた。
小さいがコロコロと楽器を叩くような可愛い声だ。その声に誘われるように視線を向ける。
白色の柄レースのチュニックに若狭色のボレロを羽織っている小顔の女性が見えた。ふわりと肩までかかるウエーブの髪を揺らしながら手元のチケットとにらめっこをしている。声の通り、柔らかい雰囲気を持つ女性に見える。
このカフェは映画館と目と鼻の先なので、その発言からしても、映画の時間待ちをしているのだろう。
その女性の前には上背のしっかりとした男性が座っており、陽奈からは顔は見えなかったが、「飲んだら行くか」と言う声で、どうやら連れの様だと言うことはわかった。
彼氏だろうか?
「そうですね~……ちょっと久しぶりです」
他人の会話を聞くのは不謹慎だと知りつつも、なんとなくその女性の声が可愛いのでつい耳に入ってきてしまうのだ。陽奈は気を散らすようにカバンを探り、意味もなくスマホの画面をたち上げる。
「嘘つけ、前に行っただろうが」
「前って……一緒に行った以来ですよ?」
「十分最近だろ」
「そうかなぁ~……」
ど、どうしよう。聞きたくないのに聞こえちゃう……
「でも……やっぱり嫌な予感がします」
「またか」
「だって……平田さんが、くれたんですよ!?」
あれ?
なぜかその名前、私、最近聞いたことのあるような……
「しかも……わざわざ家に来て、なぜか私に! 颯人さんと仕事で毎日会ってるのに、ですよ。しかも……渡す時に、言っていた事も気になるんです……」
「なんか言ってたのか?」
「“君達には多少のスパイスが必要だ”って……」
「スパイス? なんだそれは」
「知りませんよ! しかも“君の知らない朝倉が知りたければ、多少の冒険も必要だ”とか、なんとか……意味不明な上に“ここ”見てください」
そう言うと、彼女は右手で前髪を掻き上げて、その中心を指差した。
「帰り際、“ボケた頭には喝が必要だ”って思いっきりデコピンされて、痕がついてるんですよ」
「はぁ~!?……平田の野郎……勝手に杏実に触りやがって……」
「え……ええ? 違いますよ、問題はそこじゃないんです! 内容です、内容!!」
論点のずれた男性(この会話からすると、おそらく彼氏だろう)を、彼女は懸命に宥め始めた。なんだか微笑ましいぐらい仲のいいカップルのようだと思う。そして、ようやく落ち着いたのか、彼氏が話を再開し始めた。
「そもそも平田が言ってた事、なんで言わなかった?」
「え~……それは、口止めされてたって言うか……」
「はぁ?」
「言ったら……絶対行かないだろうから、直前まで言わない方がいいって……」
「結局、平田に乗せられてるじゃねーか」
「だってぇ……気になって……」
「何が?」
「その……私の“知らない颯人”さんです」
「は?」
「“朝倉は自分からは絶対言わないよ”って……だから……」
「ばかばかしい……」
そう言うと、彼氏は呆れたようにため息をつい頬杖をついた。その様子に見るからにしょんぼりと彼女は肩を落とす。
素直で可愛い。確かにそんな風に遠回しに人から言われれば、誰でも気になるだろう。
突き放したような発言をした彼氏だが、明らかに意気消沈した彼女のことが気になったのか、しばらくすると穏やかな口調で話しかけた。
「で? 杏実は何だと思うわけ」
「え?」
「俺の秘密だよ」
その声に、少し不安そうに彼女は顔を上げる。そして意を決したように口を開いた。
「うっ……うわ、浮気、とか……してませんか!?」
「はっ……!」
その発言に、面白そうに彼氏は噴出す。顔を真っ赤に染めて必死で言い出した彼女の様子が可笑しかったのだろう。
その様子を見ると、どうやら彼女の言ったことは的外れの様だ。
「あははははは……!」
「笑わないでくださいよ! こっちは真剣なんです。う……浮気じゃなくても……昔の彼女とか、初恋の人とか……とにかく、颯人さんの女の人に関連する何かです!」
「はははは……」
彼氏はさらに横を向いて、たまらなく面白いといった様子で笑い声を上げる。その様子を見て、彼女はすねたように顔をしかめた。
「もう! 真剣なのにぃ……!」
「ははは……悪い悪い! あまりに可愛いこと言うから」
そう言うと、ようやく落ち着いたのか、機嫌を損ねた彼女を宥めるように、ポンポンと彼女の頭を叩い
た。そして優しい口調で話しかける。
「まあ……過去にあるかないかって言ったら、無いわけじゃないけどな。関係ないよ。昔の俺は、今の俺と全く異なるものだったし、もうずっと前から杏実しか見えてないよ」
「……そ、それは……」
「それに平田の言ったことだが、俺は別の意味だと思うけどな」
「別の意味?」
そう言うと、彼女が手に持っていたチケットを指差した。
「この席、カップルシートだろ? いかにも平田らしい選択だが……お前、前に来たとき覚えてるか?」
「前?」
「あんときは、まだ付き合ってなかったしな……人の気も知らねーでと思うと、あのくそ野郎には八つ当たりしてもし足りないぐらい大いにムカついたわけだが……今回は違う」
そこまで言うと彼氏は、まったくわからないといった様子で不思議そうに首をかしげる彼女にフッ笑いかけると、その頬に手を添え、幾分低くなった声色でささやいた。
「映画館で愛しい彼女と二人っきり……健全な男が一度は想像すること……なにかわかるだろ?」
そう言うと、その頬に添えた手はゆっくりと首に降りて、その親指が彼女の唇に触れた。そして指はその形を記憶するかのように軽くゆっくりと彼女の唇を撫でていく。
その先を連想される様な官能的な動作に、たちまちに彼女の顔が真っ赤に染まった。
「あの暗がりとはいえ、公衆の面前には違いねーしな……。俺にとっても未知の領域だよ。俺ですら“知らない俺”の“冒険”になるだろ?」
楽しそうな声色で彼氏はそういうなり、顔を赤く染めて固まった彼女の方に身を乗り出すと、人目も憚らずその頬にキスを落とした。
う……うわぁ~~~!!!!
一部始終を見てしまった陽奈は、彼女の赤面が伝染してきたかのように顔を赤くしてうつむいた。
まるで映画のワンシーンを見たかのような心地だ。
しかも……むちゃくちゃラブラブの……。
目の前のやり取りに、あまりにドキドキし過ぎて、陽奈の心臓があり得ないほど早く打ち付けていた。他人事なのに、こちらまでキュンときてしまう。
それは、彼氏が彼女のことを大切にしていることがわかるからだろう。
何とか気持ちを落ち着かそうと、例のカップルから背を向け、息を整える。
しかしそんな陽奈の頭上から、突如声がした。
「陽奈? 気分悪いの?」
「うわぁ!」
陽奈はその声に驚いて、思わず振り返る。その瞬間、勢い余って陽奈の声に驚いたように視線を向けた例の彼女と、バチッと目があってしまった。
陽奈は先ほどの聞いた会話が脳裏に甦り、バツが悪くなって、バッと視線を逸らす。
その不自然な動作が気になったのか、爽が陽奈の向けていた視線の先を追った。
「何を見て…………」
爽はそう言いながら振り返り、やがてそのまま閉口する。
あぁ~……
今更ながら、人の会話を勝手に聞いてしまった罪悪感が胸に広がる。
その思いから、爽が追った視線の先を見れずにうつむいた。
しかしその行動が、爽にとんでもない誤解を植え付けたことには全く気がつかなかった……
「陽奈、出よう」
必死で後悔の思いに打ち勝つべく戦っていた陽奈の耳に、意外な言葉が響く。
「え?」
先ほどまでの出来事を忘れ、驚いて爽に視線を向けると、今日……いや、再会してから初めて見るような真剣な表情で爽が陽奈を見つめていた。
そんな爽の表情に目を見開いた陽奈の手を、爽はつかむと席を立とうと腰を上げた。
「あ?……梶原じゃねーか?」
聞き覚えのある声。
いや……正しくは先ほどまで聞いていた声が、その時、こともあろうか“爽”の名前を呼んだ。




