ⅩⅩⅠ.嵐の精霊王
そこはまさに聖典に記された神の世界の景色そのものだった。天を仰げば紺碧の天蓋が、地を見下ろせば純白の絨毯が継ぎ目なく広がっている。遥か彼方まで望んでも街はおろか陸地すら目に映ることはなく、ただただ波涛のようにうねる雲が時の流れを忘れるほどに静かにたゆたっていた。
「これは、すごいね……」
「人生観が変わりそうな景色ですね……」
「そうだな。人間がいかに小さき存在であるか再認識させられる」
貧乏ながらも都会育ちなわたしは案外この手の景色をナマで見たことがない。人工物が何一つなく、色の少ないキャンバスなんだけど、その分深みがあって新鮮だ。ずっと眺めていても飽きがこない。
「ここから飛び降りたら間違いなく死ぬわね……」
んんんんん~、マホツカの一言で現実へと引き戻された。ここからダイブするなんて冗談でも夢の中でもゴメンである。
でもこうして雲を上から眺めていると、どうしてか上にボフっと乗れるような気がしてくるんだよね……もふもふして気持ち良さそうだな……、いや、いかんいかん。
しばしの平穏。この島に上陸してからずっと慌ただしかったからね、偶にはこういう時間を過ごすのも悪くない。
『いつまでそうしているつもりだ。私に用があるのだろう、勇者よ』
「え?」
エコーがかかったような低い声が静寂を破った。どこからか聞こえてきたわけではなく、直接頭の中に響くような感じ。実際辺りを見渡してもわたしたち以外は誰もおらず、みんなもわたしと同じ戸惑った反応をしているので空耳ではないはずだ。だ、誰ですか?
――と、
突然硬い風が屋上に吹き荒れると、翠を帯びて球状に纏まっていく。どこかで見たことがある演出だ。しかし球の半径は記憶にあるそれと比べてさらに大きさを増していく。そして――、弾けた。
「!」
「これが!?」
「精霊王さん……ですか?」
「王と名の付くことだけはあるわね……」
派手な演出効果を散らして登場したのは巨大な鳥(?)だった。
「あなたが……《嵐の精霊王》、でしょうか?」
『いかにも』
鷲や鷹を彷彿とさせる猛禽類的な特徴を持っているが、現存する生き物にも神話上の生命体にも該当するものがない姿形。翠色の大きな一対の翼の他に、半透明状の羽とも剣とも思えるものが背中から六つ生えている。左右それぞれに六本指の手が、頭には天を衝くように伸びる角と額には閉じられた第三の目があった。
これが精霊王。圧倒的なスケールと威圧感だ。生物図鑑で見たキング系モンスターなど小動物かと思えてしまう。
ああ、わたしは本当に魔王を倒す旅に出ていたんだな。風の精霊は人間と変わらない容姿だったのでまだ現実味が薄かったけど、今回ばかりはドッキリやセットでは通せない。
『よくぞここまで辿り着いた、勇者一行よ』
「ああ、はい。どういたしまして……」
王と呼ばれる存在だから偉そうなイメージがあったんだけど、物腰は柔らかい。それに一応歓迎はしてくれているみたいだ。精霊のお姉さんはどこか面倒くさそうな雰囲気を醸し出していたんだよね。
でもあのエレベーターパニックはどう見ても悪趣味か酔狂としか思えないんだけど。どうなの実際、そこんところ?
『前の勇者がここを訪れてから十と五年か。そなたの顔を見ていると奴のことを思い出す』
「まさか、また遊び人ばかりだったとか……ですか」
思い出したくない話を嫌でも思い出す。
『ふむ。そのような下世話を誰からか耳にしたな。しかし私の下に来た時は賢者を三人伴っていたはずだ。人間ならではの連携の取れた戦術に翻弄されてしまったな。一時の楽しい時間を過ごす事が出来たのはつい昨日の事のように覚えている』
それは遊び人を解雇したってことかな? 賢者なんてそう簡単には就けない職業の人を三人も雇うとは凄すぎる。でも最後にはカジノでマネーをロストするってことは、結局変な影響が残っていたんだろう。まったく。
『彼の者達ならば我が一片を正義のために使いこなせたに違いない』
精霊王の力、か。わたしたちの目的であり、それを手に入れれば魔王を倒すための大きな武器になるという。
そう言えば力ってどんなのだろうね。剣? 魔法? それともミラクルパワーを発揮することができるようになるとか?
『私が与えるのは嵐の力だ。当然、未熟者には手に余る代物。欲するのならば私と戦って勝利を収めるのだな』
それは百も承知のこと。
けれどこんな巨大な鳥さんとどうやって戦えばいいっての? 空を飛ばれたら(既に浮いているけど)魔法以外では攻撃が届かないし、体当たりなんかされたら屋上から落ちて即終了な気もするんだけど……。
『ふっ、考えていることは分かるぞ。その点に於いては心配する必要はない』
そう述べると、巨鳥は再び光と風に戻る。そして輪郭が少しずつ縮み始め、遂には人間大まで小さくなった。
「この姿ならば戦い易いだろう」
成人男性ぐらいの背丈となった精霊王。翠色の羽は同色の鎧へと変わり、手には身の丈ほどの槍を携えている。
――――!!
それだけではない。わたしでも感じ取れる昂揚的な気を放っていた。
風の精霊や今まで戦ってきたモンスターにはなかった覇気を含んだ空気がわたしの全身を殴るように押し寄せる。殺気のように鋭くはなく、むしろ愉快というか、楽しんでいるような雰囲気だった。けれど同時に肉体が何倍も重くなったようなプレッシャーを感じる。
「――っツ」
わたしは思わず唇を噛んだ。体の震えが抑えられない。呼吸も乱れ、目の前が真っ白になりそうな気がする。
隣を見ると慄然とした顔の戦士。初めて見せる表情だった。
「勇者もか。私も全身が震え上がっているよ」
「これが王の力なんですね……、知覚を抑えないとそれだけで精神が壊されそうです」
「ふんっ、ワタシの魔法の敵じゃないわ。とっとと片付けるわよ!」
いつもの自信満々なマホツカの台詞にも、どこか不安が混じっていた。自分を奮い立たせるために叫んだような気がする。
「気概は強そうだが、それだけでは私には勝てんぞ。まあ、骸骨騎士に苦戦する実力ではあまり期待はしないほうがよさそうか。――だが、」
流麗な所作で槍を構える精霊王からは微塵も隙を覗えない。
「少しは楽しませてくれよ。せっかく十五年ぶりの戦闘なのだからな」
会話をしていた時とは別人だ。顔を覆った仮面の隙間から好戦的な光が三つ漏れる。
そして――、
「いくぞ、勇者よ!」
戦いが始まった。




