手を握る
エアコンの回る音しかしないリビングに、母のうめき声が響いた。
モルヒネが切れたのだ。慌ててベッドに駆け寄った私は、苦しげに歪む母の顔を覗き込んだ。
リビングに隣接する和室に置かれた介護ベッドは、まだ届いてから一週間と経っていなかった。その前に借りた車椅子も、壁に立て掛けられるだけになってすでに三日は過ぎていた。
十一月に肝臓に転移した癌が胃を圧迫し、母の食を細らせてから三ヶ月。一人で身動きができなくなってからは二週間。手足は枝木のように痩せ衰えていた。ふっくらと丸かった頬も削げ、あごを細く尖らせている。冬の日が続いていた。
母が全身の痛みを訴えたのは昨日のことである。訪問医の説明では衰えた筋肉がわずかな身じろぎでも筋肉痛になってしまっているとのことだった。癌の痛みではなかったが、母が苦しむので医師は気休めにとモルヒネを投与してくれた。すると母は落ち着き、よく眠った。
その日は朝から会社を休んだ。
「もう数日」
自室で上司に説明する電話は、ひどく乾いたものに聞こえた。電話をしながら横目に見える窓の外の風景は、いつもよりも静かなものに映った。
秒針の音が耳に突く。
もう、いよいよなのだ。
電話を終えリビングに戻ると、姉が母の傍らに付いている。入れ替わりで今度は姉が職場に休みの電話を掛けにいった。
私はベッドの脇に膝付き座り、母の顔を覗いた。母は穏やかに寝息をたてている。私は母の手を握り、そのぬくもりを手の平にそっと確かめた。その手はまだあたたかかったが、寝息とともに漏れるのは、鼻腔を逆なでる饐えた病人の臭いだった。それは内臓を蝕まれた病人の臭いで、先に亡くなった父の病床で嗅いだ臭いと同じものだった。
エアコンが静かに回る。
母が苦しみ出したのはそれからしばらくしてのことだった。
姉が訪問看護師に電話をしに走った。私はともかく母の横に駆け寄り、その手を握った。母がうめいた。
「私も…連れてい…って」
母は手を上げてうめく。
「置いていかないでぇ……」
私は両手で母の手を握った。他に何もできなかった。できはしなかった。
「大丈夫だから、大丈夫だから」
私は弱く声掛けた。
「ちゃんと連れていってもらえるから。もう少しの辛抱だから」
そこで母の目が開いた。大きく開かれた目は、困惑気味に辺りを確かめるように動き、やがて私の顔を見定めると、その色に失望を浮かべた。
「この…まま連れて…って、もらえる…と思ったのに」
母は爛々とした目で虚空を見ながら、再びうなり出した。私は母の手を握り、同じ言葉を繰り返した。
「大丈夫だから、大丈夫だから」
同じ言葉を繰り返した。
母の手はまだあたたかい。