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恋の劇薬 ~自由という毒~

作者: ヒロオカ トモエ
掲載日:2026/06/21

これは乙女ゲーム『人の恋は蜜の味』に登場する攻略対象、ラウルモンド・ドレアスの物語です。

 王立学園の研究棟は静かだった。

 夜更けになれば学生の姿もなくなり、残るのは灯りの消えない研究室だけだ。


 ラウルモンド・ドレアスは机に向かっていた。


 机の上には大量の資料と試験管。

 数日寝ていない。

 王都で流行している感染症。

 その治療薬を完成させるためだった。


「この理論でいくと、後は培養だけだ……。」


 震える指で薬液を見つめる。

 何度も失敗した。

 何度もやり直した。

 ようやく辿り着いた答えだった。


 ラウルモンドは立ち上がる。


 急いで養父の研究室へ向かった。


 扉を叩く。


「失礼します。」


 ドレアス教授は書類を読んでいた。


「何だ。」


「治療薬の試作品の目処が立ちしました。」


 教授の目が細くなる。


「ほう。」


 報告書を差し出す。


 ドレアス教授は目を通し、満足そうに頷いた。


「流石だな。」


 その言葉だけで嬉しかった。認められると本当の親子になれた気がした。

 だが、今日は違う。胸の奥に小さな願いがあった。初めて抱いた願いだった。


「あの……。」


「何だ?」


 ラウルモンドは勇気を奮い起たすため、拳を握る。


「今回だけでも、私の名前で発表させていただけないでしょうか。」


 部屋が静まる。

 教授は眼鏡を外した。


「何だと?」


「私も研究者です。」


 声が震える。


「せめて共同研究という形でも――」


「調子に乗るな。」


 迷いのない否定だった。

 その声にラウルモンドの身体が強張る。


「平民のお前の名前で誰が信用する。」


「ですが……」


「今までの成果は誰の名前で発表された?」


 何も言えない。


「お前が評価されたのではない。」


 教授は冷たく言った。


「ドレアス家の名前が評価されたんだ。」


 ラウルモンドは俯いた。

 それでも今日は諦めきれなかった。


「でも、研究したのは……」


「誰がその環境を与えた?」


 言葉が止まる。


「誰が学問を教えた?」


 返せない。


「誰がお前を平民から引き上げた?」


 教授は椅子にもたれた。


「ラウルモンド、恩を忘れるな。」


 ラウルモンドの顔から血の気が引く。


「私は……」


「お前は私の養子だ。」


 教授は吐き捨てた。


「拾われた側が偉そうな口を利くな。」


 その言葉で終わった。

 ラウルモンドは頭を下げる。


「申し訳ありません。」


 それ以外の言葉を許されなかった。



 その日の夜、王立学園の中庭。噴水の水音だけが響いていた。

 ラウルモンドはベンチに座る。


 自分が何故ここにいるのか、分からなかった。

 研究は完成は目前まできている。

 ドレアス教授もその事に満足している。

 ……なのに、どうしても胸が苦しい。


「先生!」


 声がした。

 振り向くとユア・スタールが立っていた。


「どうしたんですか?こんな時間に……。」


「君こそ。」


 ユアは隣に座った。


「元気ないですね。」


「そんなことはありませんよ。」


「嘘。先生は大人なのに嘘が下手ですね。」


 ラウルモンドは苦笑する。


「君には敵わないな……。」


 ユアは黙って待っていた。


 その沈黙が怖くて、教授とのやり取りを話してしまった。

 自分の名前が出ることを認めてもらえなかったこと。自分がドレアス教授にとって都合の良い養子で、終わりのない関係を全部。


 話し終える頃には夜風が冷たかった。


「私は幸せなんです。」


 ラウルモンドは言った。


「教授に拾っていただいて。教授の義息子になれて……。」


「そうですね。」


「研究も出来る……。」


「そうですね。」


「教師にもなれた……。」


「そうですね。」


 ユアは否定しない。……だから苦しかった。


「だから不満なんて……ありません。」


 そう言った時だった。

 頬を温かいものが伝う。

 涙だった。


 ラウルモンドは慌てて拭う。


「すみません。」


「どうして謝るんですか?間違っていないと思います。」


 ラウルモンドは顔を上げた。


「え……?」


「だって先生は教授に拾われたのでしょう?」


 ユアは立ち上がり前を歩く。


「学問も教えてもらった。ならドレアス教授は先生の恩人ですね。」


 ラウルモンドは少し安心した。

 やはり、自分が我儘だったのだと思った時だった。


「でも……その恩返しっていつ終えるんですか?一年後?三年後?それとも、死ぬまでだったりして!」


 ユアが首を傾げた。


「先生は幸せなんですね。」


「そんなことは……。」


「私なら絶対無理です!」


 ユアは笑う。


「だって先生、自分の人生を全部あげちゃったんですもの。」


 ラウルモンドが固まった。言葉が胸の奥深くに刺さる。ずっと見ないふりをしていたわだかまりが飛び出しそうになる。


「私は嫌だなー。だって自分が一番大切だから。ねえ、先生……。」


 ユアは優しく微笑む。

 母親が子供をあやすように。

 恋人が秘密を打ち明けるように。


 そして悪魔が誘惑するように……。


「そんな馬鹿みたいなこと、もうやめませんか?」


 ラウルモンドは目を見開く。


「やめる……?」


「はい。」


 ユアは笑う。


「逃げてもいいんですよ。」


 その言葉を理解するのに時間が掛かった。


 逃げる?


 そんな選択肢、今まで一度も考えたことがなかった。


 平民の自分を養ってもらったから。学校に通わせてもらった恩があるから。

 これは、当然だと思っていた。


「逃げても……いいんですか?」


「ええ。」


 ユアは微笑む。


「先生は十分頑張りました!」


 その瞬間、何かが壊れる音がした。

 長い間、自分を縛り続けていた鎖が音を立てて崩れてゆく。



朝食後、ユアが王都新聞を見る。


『流行病による死者数急増』


その記事の隣。


『ドレアス教授、研究失敗の責任追及へ』


 ユアは笑う。


「先生、やっと自由になれましたね。先生が幸せなら、それでいいの。」


 新聞を閉じて、ユアは父親が出したままのカルテの上に置いた。

 カルテの端から覗く患者名に、ユアは一度だけ視線を落とす。


「たとえ何万人死んでも。先生が幸せなら、それでいいの。」


 ユアは鼻歌を口ずさむ。"Be Happy, My Child"母が歌っていた祈りの歌を――。




 流行病は止まらなかった。


 完成するはずだった治療薬は失われ、多くの命が消えていった。


 王都の外れ。


 小さな診療所の一室。


 一人の女性がベッドに横たわっていた。

 痩せ細った腕に、苦しそうな喘鳴。


 枕元には何度も開かれた古い紙切れ。

 そこには幼い子供が描いた似顔絵が残されていた。


 女性は震える手でそれを胸に抱く。

 忘れたことなど一度もなかった。

 ただ幸せでいてほしかった。


 薄れていく意識の中で、女性は最後の力を振り絞る。


「ら……も……」


 声にならない祈り。


「しあ……わせ……」


 手から似顔絵が滑り落ちる。


 窓の外では鐘の音が鳴り響いていた。

 ……まるで誰かの祈りのように。


 女性は穏やかな表情のまま息を引き取った。

 あとがき


 ここまで読んで頂きありがとうございます。

 今回の短編は、“もし誰も止めなかったら”という可能性の一つとして書きました。


 本編『ママじゃない~攻略対象の母に転生したので、破滅エンドを潰します~』では、ラウルモンドもまた違う未来を歩んでいます。


 正しいことと優しいことは、本当に同じなのでしょうか?


 少しでも【恋蜜こいみつ】の世界に興味を持っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると今後の執筆の励みになります。


 よろしければ、本編の方も読んで頂けると嬉しいです。

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