恋の劇薬 ~自由という毒~
これは乙女ゲーム『人の恋は蜜の味』に登場する攻略対象、ラウルモンド・ドレアスの物語です。
王立学園の研究棟は静かだった。
夜更けになれば学生の姿もなくなり、残るのは灯りの消えない研究室だけだ。
ラウルモンド・ドレアスは机に向かっていた。
机の上には大量の資料と試験管。
数日寝ていない。
王都で流行している感染症。
その治療薬を完成させるためだった。
「この理論でいくと、後は培養だけだ……」
震える指で薬液を見つめる。
何度も失敗した。
何度もやり直した。
ようやく辿り着いた答えだった。
ラウルモンドは立ち上がる。
急いで養父の研究室へ向かった。
扉を叩く。
「失礼します」
ドレアス教授は書類を読んでいた。
「何だ」
「治療薬の試作品の目処が立ちました」
教授の目が細くなる。
「ほう」
報告書を差し出す。
ドレアス教授は目を通し、満足そうに頷いた。
「流石だな」
その言葉だけで嬉しかった。認められると本当の親子になれた気がした。
だが、今日は違う。胸の奥に小さな願いがあった。初めて抱いた願いだった。
「あの……」
「何だ?」
ラウルモンドは勇気を奮い起こすため、拳を握る。
「今回だけでも、私の名前で発表させていただけないでしょうか」
部屋が静まる。
教授は眼鏡を外した。
「何だと?」
「私も研究者です」
声が震える。
「せめて共同研究という形でも――」
「調子に乗るな」
迷いのない否定だった。
その声にラウルモンドの身体が強張る。
「平民のお前の名前で誰が信用する」
「ですが……」
「今までの成果は誰の名前で発表された?」
何も言えない。
「お前が評価されたのではない」
教授は冷たく言った。
「ドレアス家の名前が評価されたんだ」
ラウルモンドは俯いた。
それでも今日は諦めきれなかった。
「でも、研究したのは……」
「誰がその環境を与えた?」
言葉が止まる。
「誰が学問を教えた?」
返せない。
「誰がお前を平民から引き上げた?」
教授は椅子にもたれた。
「ラウルモンド、恩を忘れるな」
ラウルモンドの顔から血の気が引く。
「私は……」
「お前は私の養子だ」
教授は吐き捨てた。
「拾われた側が偉そうな口を利くな」
その言葉で終わった。
ラウルモンドは頭を下げる。
「申し訳ありません」
それ以外の言葉を許されなかった。
◇
その日の夜、王立学園の中庭。噴水の水音だけが響いていた。
ラウルモンドはベンチに座る。
自分が何故ここにいるのか、分からなかった。
研究の完成は目前まできている。
ドレアス教授もその事に満足している。
……なのに、どうしても胸が苦しい。
「先生!」
声がした。
振り向くとユア・スタールが立っていた。
「どうしたんですか?こんな時間に……」
「君こそ」
ユアは隣に座った。
「元気ないですね」
「そんなことはありませんよ」
「嘘。先生は大人なのに嘘が下手ですね」
ラウルモンドは苦笑する。
「君には敵わないな……」
ユアは黙って待っていた。
その沈黙が怖くて、教授とのやり取りを話してしまった。
自分の名前が出ることを認めてもらえなかったこと。自分がドレアス教授にとって都合の良い養子で、終わりのない関係を、全部。
話し終える頃には夜風が冷たかった。
「私は幸せなんです」
ラウルモンドは言った。
「教授に拾っていただいて。教授の義息子になれて……」
「そうですね」
「研究も出来る……」
「そうですね」
「教師にもなれた……」
「そうですね」
ユアは否定しない。……だから苦しかった。
「だから不満なんて……ありません」
そう言った時だった。
頬を温かいものが伝う。
涙だった。
ラウルモンドは慌てて拭う。
「すみません」
「どうして謝るんですか?間違っていないと思います」
ラウルモンドは顔を上げた。
「え……?」
「だって先生は教授に拾われたのでしょう?」
ユアは立ち上がり前を歩く。
「学問も教えてもらった。ならドレアス教授は先生の恩人ですね」
ラウルモンドは少し安心した。
やはり、自分が我儘だったのだと思った時だった。
「でも……その恩返しっていつ終えるんですか?一年後?三年後?それとも、死ぬまでだったりして!」
ユアが首を傾げた。
「先生は幸せなんですね」
「そんなことは……」
「私なら絶対無理です!」
ユアは笑う。
「だって先生、自分の人生を全部あげちゃったんですもの」
ラウルモンドが固まった。言葉が胸の奥深くに刺さる。ずっと見ないふりをしていたわだかまりが飛び出しそうになる。
「私は嫌だなー。だって自分が一番大切だから。ねえ、先生……」
ユアは優しく微笑む。
母親が子供をあやすように。
恋人が秘密を打ち明けるように。
そして悪魔が誘惑するように……。
「そんな馬鹿みたいなこと、もうやめませんか?」
ラウルモンドは目を見開く。
「やめる……?」
「はい」
ユアは笑う。
「逃げてもいいんですよ」
その言葉を理解するのに時間が掛かった。
逃げる?
そんな選択肢、今まで一度も考えたことがなかった。
平民の自分を養ってもらったから。学校に通わせてもらった恩があるから。
これは、当然だと思っていた。
「逃げても……いいんですか?」
「ええ」
ユアは微笑む。
「先生は十分頑張りました!」
その瞬間、何かが壊れる音がした。
長い間、自分を縛り続けていた鎖が音を立てて崩れてゆく。
◇
ラウルモンドは王都を離れていた。
小さな村の診療所。
患者は一人しかいない。
それでも彼は穏やかな表情で薬草をすり潰していた。
「ようやく……自分の名前で研究ができる」
誰にも聞こえないほど小さく笑う。
ラウルモンドは、まだ知らない。
自分が置いてきた研究室で、多くの命が失われ始めていることを。
◇
その頃、王都では――。
朝食後、ユアが王都新聞を見る。
『流行病による死者数急増』
その記事の隣。
『ドレアス教授、研究失敗の責任追及へ』
ユアは笑う。
「先生、やっと自由になれましたね」
新聞を閉じて、ユアは父親が出したままのカルテの上に置いた。
カルテの端から覗く患者名に、ユアは一度だけ視線を落とす。
知っていたのか、それとも今、気づいたのか。
その表情からは、何も読み取れなかった。
「先生が幸せなら、それでいいの」
ユアは鼻歌を口ずさむ。
『我が子よ、幸せになりなさい』
母が歌っていた祈りの歌を――。
◇
流行病は止まらなかった。
完成するはずだった治療薬は失われ、多くの命が消えていった。
王都の外れ。
小さな診療所の一室。
一人の女性がベッドに横たわっていた。
痩せ細った腕に、苦しそうな喘鳴。
枕元には何度も開かれた古い紙切れ。
そこには幼い子供が描いた似顔絵が残されていた。
女性はかつて子供を抱きしめた時のように、震える手で似顔絵を胸に抱く。
忘れたことなど一度もなかった。
ただ幸せでいてほしかった。
薄れていく意識の中で、女性は最後の力を振り絞る。
「ら……も……幸せに……」
声にならない祈り。
それは、まるでどこかで聞いたことのある歌の一節のようだった。
「しあ……わせ……」
手から似顔絵が滑り落ちる。
窓の外では鐘の音が鳴り響いていた。
……まるで誰かの祈りのように。
女性は穏やかな表情のまま息を引き取った。
あとがき
ここまで読んで頂きありがとうございます。
今回の短編は、“もし誰も止めなかったら”という可能性の一つとして書きました。
本編『ママじゃない~攻略対象の母に転生したので、破滅エンドを潰します~』では、ラウルモンドもまた違う未来を歩んでいます。
正しいことと優しいことは、本当に同じなのでしょうか?
少しでも【恋蜜】の世界に興味を持っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると今後の執筆の励みになります。
よろしければ、本編の方も読んで頂けると嬉しいです。




