二.謎の男
僕の名前は、田中 大輔。
僕は、自分の本能に、簡単に負けてしまった。
たったさっき会ったばかりの女性に、キスができてしまうほどの距離で、誘惑された。艶かしい上目遣いで、僕の反応を伺いながら、そっと手を、指を、深く絡め取られた。
それだけで、陥落してしまった。自分の性欲に勝つことができなかった。
「あの……」
生まれて初めて女性から誘惑され、漂う大人な雰囲気に、僕の心臓はもううるさいくらいに高鳴り続けている。
「こっち、来て」
されるがまま、誘われるがままに手を引かれ、僕は何も考えられず、ただ彼女の言うとおりに付いていこうとした。
「――何をしている」
その時だった。
僕の背後から、野太い男の重低音の声がすぐ耳元に聞こえた。
「うわ!」
「あちゃ〜。バレちゃったか。もう少しだったのに」
驚いた拍子に、また咄嗟に後ろを振り返った。そこには、いつからいたのか、顔に大きな傷がある青年が、腕を組んで佇んでいた。
その青年は、同年齢くらいに見えるが、顔の傷に加え耳はピアス塗れ、鍛え上げられた体躯がより威圧感を醸し出しており、誰もが『反社』という文字を連想せずにはいられないほどに、人相が悪い。
(ハ、美人局か!?)
そんな不安も過ったが、すぐにそれが杞憂だと気付くことになる。
なぜなら、その男性は見た目はかなり恐ろしいが、服装は男巫衣装を着用していたことから、この男性が先程巫女が言っていた、この神社の管理者なのだとすぐに察した。
「珠梨、この男は誰だ」
男は、ギロリと僕に鋭い睨みを利かせながら、巫女に尋ねた。
気分は甘酸っぱいドキドキ感から一変。蛇に睨まれたウサギのように、サバイバルなドキドキ感へと変わった。
「参拝者だよ」
「『参拝者』? なんで」
「知らないよ、篁沙久が入れたんでしょ」
面倒くさそうに「はぁー……」と長い溜め息を吐きながら、男は頭を抱えた。
「ここしばらく、正月に参拝者が来たことがなかったから油断した」と、意味の分からないことを話す二人。
関係性は知らないが、僕は男に指摘される前に、さりげなく、かつ自然に巫女からそーっと手を離した。
「参拝の御方」
「は、はい!」
突然男に話しかけられ、僕は思わず背筋を伸ばした。
「巫女が迷惑を掛けた。参拝が終わったのなら、即刻山を降りられよ。時期に天気が崩れる。気を付けて帰れよ」
「帰るぞ」と、男は仏頂面で巫女の手を引いて、彼らの家へ戻って行った。
「ばいばーい。また来れたら、今度こそ一緒にいいことしようね」
男に怒られながらも、全然反省の色を見せず、巫女は呑気に僕にバイバイをした。しかし、そんな彼女のバイバイを振り返す余裕なんて僕にはなく、とりあえず、なんのお咎めもなかった安心感に溢れ、その拍子に色々な緊張の糸が切れてしまった僕は、その場で腰を抜かしてしまい、しばらく身動きが取れなくなった。
僕が自分で山を降りられたのは、その約1時間後のことだった。山を降り切る寸前、男が言った通り、山の天気は崩れ、先程までの晴天が嘘かのように、山空は大雨に見舞われた。
――「またお前は、誰かれ構わず誘惑して」
家に戻るなり、男は呆れたように巫女に苦言を呈した。
神社から、さらに山の中に入って5分ほど歩いた場所にある、木造建ての平屋。そこが、彼らが衣食住を共にする住居だった。
「いいじゃん、別に。変な男じゃなくて、真面目そうな人だったし」
「いいわけないだろ。全く……どこで覚えてきたんだ」
「知ってるくせに~」
男をからかうように、巫女は彼の頬を突いてみせた。そんな巫女のからかいに、男は怪訝な顔をしながら、鬱陶しそうに巫女の手を振り払った。
「子どもの分際で大人の真似事か?」
「じゃあ子どもじゃなくなったらいいの?」
「ダメに決まってるだろ」
「なんで?」
「それは……」
巫女の追及に、分かりやすく言葉を詰まらせながら、男は気まずそうに言った。
「お前が、『贄』だからだ」
「……」
「珠梨の存在そのものが、神々への奉納品だからだ」
先程の無邪気な艶めかしい雰囲気から一変。
男に突き付けられる事実に、珠梨は分かりやすく表情を曇らせ、とても冷めた目で、本音を吐露した。
「相変わらず、あたしの身を案じるよりも、奉納品としての役割を優先するのね」
「俺がどう言うかなんて、それこそ分かっていたことだろう?」
「ああ。分かってたさ。だったら」
珠梨は男の襟元を荒々しく掴み、感情のまま勢い任せに引っ張った。
「あたしが神々への奉納品なら、篁沙久がもらってよ」
「それは……」
「篁沙久にならあたし! 食われても、喰らわれても……どうされても良い。あたしに下心なく接してくれるのは、ずっと育ててくれた貴方だけだから」
一瞬、気まずそうに篁沙久は視線を逸らすも、すぐに珠梨の手を離させた。
「俺に、お前のうまさは分からない。珠梨が作る神饌も、献納品の価値も、奉納舞だって、神々がなぜ欲しがるのか元人間の俺には分からない。お前の味だって、味覚機能が壊れた俺には、何も……」
「分かってる、それでも!」
「珠梨は! 神々にとって極上の褒賞。最高神 天照大御神様から、高位神に下賜される。たかが人神風情が、頂ける代物ではない」
それほどまでに、珠梨は、神々への贄としての価値が非常に高い。
だから、誰も足を踏み入れないようなこんな山奥の小さな神社に、彼女は幼い頃から幽閉されている。
彼女が献納されるその日まで、抜け駆けした神々がお手付きしてしまわないよう、人間から横取りされてしまわないように、公平中立な管理者を付けて。
「いつまで、人間のフリしてんのよ」
「……ああ。今、戻る」
珠梨に言われ、篁沙久が身に纏っている男巫衣装が形を崩し、深緑の軍服に姿が変わった。
ジャラジャラと着けていた耳のピアスはすべて消え失せ、坊主頭には戦時中の戦闘帽、腰元には刀剣が差さっている。
「お前の嫌いな神姿に戻ったぞ。これで、満足か?」
気象神社こと玉城神社 祭神 篁沙久神
戦死した元人間が神格化した、味覚障害を持つ神。
神々に幽閉されている至上の献納品 珠梨の管理者である。




