スキンヘッド・サークル 第1話
シューーーーッ。
換気扇の回る狭い洗面所に、無機質なガスと合成樹脂の匂いが充満する。
鏡の前に立つ僕(36歳・中堅メーカー営業)は、息を止めながら、頭頂部に向けてハードスプレーを噴射していた。
毎朝7時。ここからの15分間は、僕にとって誰にも邪魔されてはならない防衛線の構築だった。
前頭部の後退と、頭頂部の心細さを隠すため、側頭部の髪をミリ単位で計算しながら流し、熱風で癖をつけ、最後に強力なスプレーで固める。少しでも風が吹けば崩壊するその脆い構造物は、もはや髪の毛と呼べるものではなかった。
それは社会という戦場に出るための、接着剤で固められた惨めな兜だ。
鏡の中の自分を睨みつけ、僕はネクタイを締め上げた。
表面上は、清潔感のある中堅サラリーマン。しかし、頭皮はスプレーの成分で常に呼吸を止められ、ヒリヒリと悲鳴を上げている。頭を掻くことすら許されない14時間が、今日も始まる。
満員電車の中、僕は他人の後頭部ばかりを見ていた。
スマホに目を落とす目の前の男も、巧妙に分け目をずらして薄毛を隠している。斜め前に立つ若い男は、流行りのマッシュルームヘアにしているが、その実、他人の視線に怯えているのが肩のすくみ具合でわかる。
誰もが皆、何かを偽装し、武装している。
僕も、あいつらと同じだ。
吊り革を握りしめながら、僕は吐き気にも似た同族嫌悪と、底知れぬ虚無感に襲われていた。
「佐藤くん、この前の見積もりだけどさ」
オフィスに着くや否や、背後から声をかけられた。営業部長の小早川だ。
振り返った瞬間、エアコンの風が僕の前髪を直撃した。
固めたはずの防衛線の隙間から、冷たい風が頭皮を撫でる。隙間ができたのが分かった。佐藤の心拍数が跳ね上がる。
「あ、はい。すぐに修正を……」
「頼むよ。君はうちの顔なんだから。身だしなみも含めて、頼り甲斐のあるところを見せてくれないと」
小早川は、月に2万円は下らないであろう完璧に整えられた美容室の髪を揺らし、僕の額のあたりにチラリと視線を落としてから、去っていった。
ほんの一瞥。しかし、僕にとってはナイフでえぐられたような感覚だった。
彼は僕の嘘に気づいている。気づいた上で、見逃してやっているのだ。
その夜。
終電で帰宅した僕は、ネクタイも外さず、再び洗面所の鏡の前に立っていた。
14時間の汗と皮脂、そしてストレスで、朝の完璧な兜は見る影もなく崩壊し、脂ぎった髪が額にへばりついている。
頭皮がひどく痒い。しかし、明日もまた、この不毛な儀式を繰り返さなければならない。
洗面台の隅に、一枚の刃がむき出しになった、重厚な金属製の安全カミソリが転がっていた。
いつか気まぐれで買ったものの、扱いきれずに放置していたものだ。
僕は無意識に、その冷たい金属の柄を握りしめた。
ずしりとした重みが、手に伝わる。
もし。
もし、この見え透いた嘘を、根本から、根こそぎ削ぎ落としてしまったら?
シャンプーのCMも、育毛剤の広告も、上司の哀れむような視線も、一切届かない無の領域に行ってしまったら?
鏡の中の僕は、カミソリを握りしめたまま、ひどく歪んだ、しかし今日初めての本物の笑顔を浮かべていた。




