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【短編】水妖馬の夢が明けるとき

作者: 天城らん
掲載日:2026/02/21

◆第1話 街の朝と、不穏の知らせ


 街の朝は、いつもと変わらない。

 暖かな太陽の日差しに、焼きたてのパンの匂い。

 果物を並べる商人の声が、人々を目覚めさせる。

 戦の影はもう薄くなり、街はようやく日常を取り戻しつつあった。


 ライネルは、いつものように石畳の巡回路を歩いていた。

 歳の頃は三十代半ばのベテラン衛兵だ。

 少し髭が浮き、くたびれた風貌をしているが、真面目で面倒見が良いため街のみんなに頼られている。

 ライネルは街の様子に穏やかな視線を送る。

 彼は人々を見守りながら、今日も誰かが生きていることを確かめるように、巡回の歩みを進めた。


 衛兵といっても、やっていることは雑事が多い。

 主な仕事は治安維持ではあるが、それも露店同士の敷地争いや夫婦喧嘩の仲裁などの、小さな小競り合いばかりだ。


(平和なものだな……)


 ライネルは心の中で願った。

 この穏やかな日々がずっと続くことを……。


   *


 そんな彼の元に、神殿から使いの者がやって来た。

 かつてライネルが世話をしていた、孤児院出身の青年だった。

 今は、神殿の下級神官として働いている。


「どうした? 元気にやってるか?」


 ライネルが軽く声をかけるが、若い神官は震えていた。


「それが……今日はお願いに来ました。ライネルさん、力を貸してください」

「どうかしたのか?」

「聖女セラ様がいなくなったんです」


 にわかに不穏な話に、ライネルの心はざわついた。


「聖女様が、神月(しんげつ)の湖に身を清めに行ったまま戻ってこないのです」


 神月しんげつの湖――。

 そこは、この土地では月の守り神が降臨されたと言い伝えられている神聖な場所だった。


「聖域だろう? 何を心配する」


 とはいえ、ライネルは神をそれほど敬虔けいけんに信仰しているわけではなかった。

 彼は、十年前の戦争とそれに伴う疫病で、多くの仲間の騎士や街の者たちを弔った。

 傷を負う仲間のうめき、全身を蝕まれそれでも生きたいと泣く人々の声が、今でも耳の奥に残っている。

 地獄のようなその日々を思い出すと、神の存在など到底信じることはできなくなった。


 願いは届かず、命はこぼれ落ちる。

 両手で救い上げてくれる神はいない。

 それは、かろうじて死を逃れたライネルが悟ったことだった。


  *


「戻ってこないって……。探しに行けばいいだろう?」

「それが、探しに行った聖騎士たちも、ことごとく消えているんです」


 若い神官は、次は自分かも知れないと怯えている。

 聖騎士とは、神殿所属の騎士のことだ。


「神月の湖――聖域に異常がある。そういうことか?」

「おそらく、何かがいるんです。わたしも近くまで行きました。

 馬のいななきと、苦しいのか、笑っているのかわからないような女の声が聞こえるのです……。

 あれは……あれは魔物です」


 魔の気配に敏感な神官は近づけず、途方に暮れているそうだ。


「それで、街の衛兵の俺にまで声を?」

「ライネルさんは元騎士だから、街の衛兵とは違うでしょう?」


 それは確かにそうだ。十年前の戦争帰りで、生き残った騎士はとても少ない。

 神殿の聖騎士ですら、十年前には子どもだった者ばかりだ。


(今は隣国と戦争をするだけの国力も兵力もなくなったことで、両国の平和を維持しているのだから、皮肉なものだ)


 聖女は孤児院育ちではないが、戦災孤児であったと聞く。

 何度か礼拝の時に目にしたが、まだ二十代前半の儚げな美しさを持つ女性だ。

 どこか影を落としたような眼差しが、印象に残っている。

 なんでも、傷を癒す特別な力を持つという。


(聖女をさらったとするならば、おそらく魔物のしわざだろうな……。神官が近づけないとなると、やっかいだな)


 ライネルは神を信じていなかったが、魔物が存在することは知っていた。

 騎士時代に、何度か遭遇したことがあったからだ。

 多くの魔物は、聖力を苦手とするのだが、聖力を持つ者すら近づけない特異な魔物だとするなら、ライネルが剣を教えた聖騎士や衛兵では太刀打ちできないだろう。

 彼は、眉をひそめた。


(ここしばらく、特異な魔物などあらわれていなかったのに、いったいなぜ?)


 ライネルはいぶかしんだが、考えていても埒は開かない。

 街の人々を脅かすものならば、ベテラン衛兵として行くしかない。


「わかった。神月の湖へ行こう」


 ライネルは、しばらく抜いていない腰の剣を持つ手に、ぐっと力を込めた。



◆第2話 神月の湖へ


 その夜、ライネルは装備を整え神月の湖へ向かった。

 月は雲に隠れてはあらわれ、湖へ向かうライネルの道を淡く照らしていた。

 その光は、ちらちらと揺れながら、彼を静かに現実の外側へいざなうようだった。


 神殿裏の森の先に、鏡のように静かな神月の湖があった。

 水面は、夜闇を映し、ひときわ昏い。


(恐ろしいほどの静寂だな……)


 ライネルは、静かすぎる湖の様子に違和感を覚えた。

 先ほどまで聞こえていた、木々の梢の音さえ聞こえない。

 月も星も出ているというのに、耳が痛くなるような静寂だけがそこにはあった。


(強い風で雲が流れているのに、水面すら揺れていない。やはり魔物の仕業か?)


 ライネルは神経を研ぎ澄ました。


 ふいに、ざわと腕が泡立つのを感じ、剣の柄に手をかけた。


 目の前の水面に月が映り、波紋が輪を描き静かに広がる。

 現実と幻、その境が揺れる音のない音。


 そうして、その月から白い馬と美しい乙女――聖女セラがあらわれた。 





◆第3話 月下に現れる影


 水面に、馬や人間が立つことなどありえない。

 ライネルは目を見開き凝視するが、それは紛れもない現実だった。


 雲の切れ間から満月が顔を覗かせる。

 仄白い幾筋もの光が降りそそぎ、二人の輪郭を露わにする。


 絹のような銀毛を持つ、一頭の白い馬。

 その毛並みは、月光を受けて淡く発光しているようにも見える。


 そして、その馬のたてがみを愛おしそうに撫でる、青白く儚げな聖女。

 長い黒髪は濡れぼそり、沐浴の白布はくふは肌に吸い付くように張り付いている。

 月光がその上をすべり、隠しきれない曲線を淡く浮かび上がらせていた。

 胸元に落ちた水滴が、ゆっくりと滑り落ち、細い腰のくびれへと消えていった。


 そこには、慈愛の象徴である聖女ではなく―― セラという、艶めかしいひとりの女の姿があった。


 馬と聖女は、何か密やかに言葉を交わしているようにも見える。


(聖女は、あの魔物に魅入られたのか?)


 ライネルはごくりと息を呑むが、すぐにまわりの異変に気付き現実へ戻る。


「……これは、いったい」


 よく見れば、神月の湖のまわりには聖女を探しに来た聖騎士たちが倒れていた。

 他にも、一般市民と思われる者の姿もある。

 その顔は青白く、生死は不明だがやすらかに眠っているようにも見えた。


(どう見てもただの馬ではない。水辺にあらわれる馬型の魔物といえば――水妖馬(ケルピー)だ)


 水妖馬(すいようま)――昔話に名が残る、水の妖だ。

 清らかな者の心が揺らぐ夜、そっと姿を見せるという。

 人々の悲しみを食み、その心に寄り添うともいうが――。


(実際はどうだ。聖女を取り込んで、より多くの人間の”心”を食らおうとしているだけじゃないか?)


 ライネルは、水妖馬が人間を捕食しようとしていることに気付きゾッとする。


(なんてことだ。襲って食うよりも、誘って食うほうがたちが悪い)


 いつから棲みついているのか、湖の深いところから湧き上がるような清濁な気配を感じる。

 彼は目を凝らし、水妖馬を倒す隙がないかうがった。


 すると、水妖馬の目がライネルを捕らえた。

 一見、慈悲深くも見えるが、ライネルにはわかった。


(捕食者の目だ。俺を獲物として捕らえているのか?)


 剣を構えその視界をさえぎろうと試みるが、水妖馬の美しさに目を奪われたライネルは、一瞬出遅れてしまう。


 血のような水妖馬の瞳に、ライネルの姿が映る。

 その瞬間、彼の視界は闇に閉じ込められたように一気に暗くなった。


 視界を奪われたというのに、一滴の輝く雫が天から降りて、ライネルの額に落ちるのが見える。


 ――― とぽり


 生温かいものが、体へ、意識へ、染み込んで行くのを感じた。


(水の匂いがする……)


 ただ、それだけではない。胸がざわつくような甘い香りもあたりに満ちている。


『……今までつらかったでしょう、ライネル』

『もう、剣を置いていいの』

『あなたは、疲れているのでしょう?  ゆっくり休んで。さあ私と夢を見ましょう』


 甘い声が耳を撫でても、ライネルの心は揺れなかった。

 戦から戻った家の、あのがらんとした静けさを思い出す。

 夢よりも、現実のほうが恐ろしく冷たいことを彼は知っていた。


(……なんだ? この頭に響く女の声は)


“声”ではない声。

 水妖馬の思念が、ぬるりと生温かくライネルの意識を浸潤していった。




◆第4話 甘い夢と、抗う者


 ライネルの脳裏には、十年前の光景が浮かんできた。

 忘れたくても忘れられない記憶だ。


 戦場のくすぶる煙と血の匂い、

 倒れ伏した仲間を呼ぶ悲痛な叫び、

 そして、自分の剣が奪った鈍い命の手ごたえ。


 あの頃、彼は主君に仕える騎士として戦い、多く敵を斬り、多くの仲間を見送った。

 国を守るための戦いだったはずなのに、ライネルは何も守れなかった。


 やるかやられるかの日々。

 戦いの最中に届く、疫病まん延の知らせ。

 親や親友を土に返すことしかできなかった、苦い記憶……。


 戦争は、勝利も敗北もないまま霧散した。

 国は疫病からの立て直しに追われ、戦争で多くの騎士を失った騎士団は解散を余儀なくされる。


(俺たちは、何のために剣を取ったのか……)


 その答えだけが、誰にも分からないまま残された。

 


 ――― 祈りは神へは届かず、多くの民は救われなかった。



 その時の後悔、無力、寂寥が一気に胸へせり上がり、彼の胸中を爪を立て掻きむしる。



(くそっ……人の記憶を無理やり引きずり出すな!)



 ライネルはこの十年、ただ生きた。

 生き残った意味を探そうとしたこともあった。

 先に死んだ仲間たちの分まで、生きようと考えたこともある。

 けれど、どれも違う気がした。


(俺は選ばれて生き残ったわけじゃない。運が良かったわけでもない)


 悩み、苦しみながら、ただ一日一日を淡々と生き、十年生き続けたことでやっと気付く。


(生きていることに意味を求めるから苦しくなる。俺は、ただ生き続けるだけだ)


 諦めとは少し違う。目の前のことをひとつずつこなし、歩みを進める。

 そう決めたとき、ようやく前が開けた気がし、今を生きられるようになった。



  *



 なのに――― 


「お前は、俺にこれを見せてどうしたいんだ?」


 隠れているだろう水妖馬へ、ライネルは冷たく突き刺すように問う。


 すると、水妖馬が闇の中から姿を現した。

 月の光をまとった純白の神像しんぞうのように、美しく神々しい馬。

 そして、その声は幼子をあやす母のようでもあり、慰めを請う恋人のようでもある。


 矛盾した声に、ライネルは吐き気を覚えた。


 同時に、ひどく甘く熟した匂いが漂う。

 花の匂い――だが、それがただの花ではないことをライネルは直感し、爪が食い込むほど手を握りしめる。


(これは、罌粟けしだ)


 痛みに泣く兵を静かに眠らせる、嗅ぎなれた“死の匂い”だった。



『もう休んでいいのですよ、ライネル。

 あなたは十分に苦しんだ。癒されるときが来たのです』


「……癒し? そんなもの、俺には必要ない」


 目の前の水妖馬は、薄衣うすごろも一枚のこの世のものとは思えぬ美しい女へと姿を変え、ライネルの頬を撫でる。


『あなたはこの十年、心の痛みに耐え続けました。

 失った痛み、無力感、寂しさ……すべてなかったことにしてあげましょう。

 私の夢の中なら、あなたは救われます』


 水妖馬は、弱った人間の心に寄り添い、甘い夢を見せる。

 そうして眠らせ、その心を喰らうのだ。


「この世に救いなんてどこにもない。

 それでも記憶に蓋をして、一日一日生きてくのが人間だ」


 ライネルは、人間の弱さに付け込む水妖馬という存在そのものに怒りを覚えた。

 ライネルの拒絶に水妖馬の姿は揺らぎ、今度は聖母神(せいぼしん)のような柔らかな肢体したいを持つ女へと変わる。


『どうして抗うのですか?

 あなたの心は壊れて穴が開いているのに……。

 私だけが、あなたを理解しているのに……』


「お前は知ったふりをしているだけで、人間の苦しみがわかるわけじゃない」



 故郷から、はるか離れた土地で果てた仲間。

 汚れた寝台で、呼んでも返事のない友。

 錆びた鉄や、すえた匂い。

 声がかれるほど泣き叫んでも、

 祈りが届かなかった長い夜。


(それを俺は知っている。

 残酷な夢だろうと、幸せな夢であろうと、夢は所詮夢だ)


 目が覚めれば消える幻に救いなどない。

 幾度となく、もう二度と会えない人たちの夢を見た。

 そして、同じ数だけ現実に戻され、絶望を深くした。


『ライネル、救われたくはないのですか? 手を伸ばせばすぐに安らげる場所があるというのに……』


 聖母神の姿をした水妖馬は、その豊満な胸をさらけだし両手を広げる。

 いつでもライネルを迎え入れられると、微笑みを浮かべて。


「黙れ、あやかし風情が」


 ライネルは、剣を抜き放ち水妖馬を斬った。



 水妖馬の鋭いいななきがあたりに響く。

 だが、手ごたえはなかった。


 水妖馬本体ではなく、その幻を斬ったに過ぎない。

 その直後、慟哭どうこくにも似た女の声が闇を裂くように重なり響く。




『『――なぜ、あなたは屈しないの!』』



 その声に、闇が震え、砕けるように崩れ落ちた。


 押し寄せていた暗黒が引き潮のように退き、ライネルの視界は一気に開ける。

 気付けば、あたりは元の神月の湖の景色に戻っていた。

 月光が水面を照らし、静寂が戻る。



 そして――

 目の前には、水妖馬にすがりつくように寄り添う聖女セラがいた。



 その姿は、まるで湖底から引き上げられたように濡れ、 青くくら双眸そうぼうだけが、ライネルをまっすぐに見つめていた。






◆第5話 救えなかった夜の痛み


 「ライネル様、どうしてあなたはこのお方の慈悲をこばむのですか?」


 聖女セラが“この方”と言っているのは、水妖馬のことだろう。

 ライネルは深く息を吐き、短く答えた。


「……どうしてだろうな。人間は現実でしか生きられない。

 夢の中じゃ、誰も救えなかったからだろう」


 特別な理由があるわけではない。

 ただ、夢に溺れても意味がないことを知っているだけだ。

 一時の甘い夢に身を委ねれば、命を失うことも。


「俺は、つらくとも今を生きたい」


 ライネルは、聖女の青い瞳をまっすぐに見つめて言った。

 その言葉に、聖女は驚いたように目を見開く。


 聖女は視線をそらし、水妖馬のたてがみに指を絡めながら、

 どこか遠くを見るように口を開いた。


「十年前、わたしは戦災と疫病で家族を失いました。

 祈っても届かず、神は助けには来なかった。

 十二のわたしはただ、見ていることしかできなかったのです」


 月光が青白く彼女の頬を照らす。


「癒しの力が目覚めたのは……すべてが終わった後でした。遅すぎた力でした。

 だからこそ、わたしは救えるはずの命を探し続けました」


 胸に手を当て、心臓の痛みに耐えるように拳を握る。


「でも……救えないのです。

 外の傷は癒せても、心までは治せない。

 心が折れた人には、どれだけ手を伸ばしても……届かない」


 その震える声に、ライネルもまた拳を握った。


「……まだ聖女として駆け出しの頃、戦争帰りの騎士を癒したことがあります。深い傷を負っていましたが、わたしの力で歩けるほどに回復しました。

 でもその人は、治った身体を見て言ったのです。

『仲間は戻らない。生き残った俺だけが、どこへ帰れというんだ』と。わたしは……何も言い返せませんでした」



 月は雲に隠れ、影だけが濃くなっていく。

 空気はひやりと冷え、静けさがいっそう深まった。

 聖女は、絞り出すように言葉を続ける。



「流行り病にかかった親子を癒したことがあります。

 子はすでに息絶えていましたが、母親の命だけは助けることができました。

 高熱は下がり、呼吸も安定しました。

 けれど……その人は、わたしの手を振り払って言うのです。

『痛いのは心なのに、あなたは何もわかってはいない』と」



 聖女は静かに目を伏せた。

 長いまつ毛が影を落とし、震えている。


「その人たちは……自ら命を絶ちました。

 わたしは、また救えなかったのです」


 失われた者たちのことを思い出したのか、聖女は両手を組み祈りを捧げる。

 水妖馬が、その白い体を彼女の肩にすり寄せる。


「わたしは“聖女”と呼ばれています。

 けれど、力があっても救えない人のほうが多い。

 癒せない痛みのほうが多い。

 祈っても届かない夜ばかりなのです!」


 聖女が慟哭どうこくのように言い放つと、水妖馬は赤い目を光らせ、ささくようにそのほほへ口付けを落とす。



「この方は言ったのです。

『あなたは、少しも悪くない』

『あなたは、もう痛みをこらえなくていい』

『あなたは、もう苦しまなくていい』と」



 聖女は、乾いた微笑みを浮かべた。




「……わたしは、人を救いたかったのではないと気付きました。

 ただ――許されたかったのです。

 救えなかったあの日の自分を、誰かを救うことで。

 けれど……今も救えない多くの人がいる」


 月の光を宿した銀の涙が、頬を伝って落ちていく。


「――神よ。わたしはいつになったら許されるのですか?」



   *



(……わかる。救えなかった痛みは、十年経っても消えはしない。

 祈りが届かない夜は、今でも胸に影を落とす)


 ライネルは、自分の胸にそっと手を当てる。

 そこに傷跡はなくとも、痛みだけは残り続ける。


(しかし……甘い夢に身を預けても、現実は何も変わらない。あの日の俺がそうだったように)


 ライネルは戦場に立った時すでに大人だった。

 だが、聖女セラは十二歳の少女だった。

 やわらかい心に刻まれた傷の深さは、計り知れない。

 その痛みを思うと、ライネルは胸が締めつけられた。



 ――― 放ってはおけない。



 もとより彼女を探しに来たのだが、今はただ、体だけでなく心も“今”へ連れ戻したいと思った。


 ライネルは慎重に問う。


「水妖馬に陶酔とうすいしているだけで……君は本当に救われるのか」


 聖女をさらに傷つけるかもしれない。

 それでも、聞かずにはいられなかった。


「ええ、わたしは救われました。救われたんです!」


 そう言いながら、聖女は泣いていた。

 笑いながら、泣いていた。


 水妖馬はその涙を吸い、赤い目を細め――

 まるで、満足げに微笑んだように見えた。



   *



(……救われた、だと? そんなゆがんだ笑顔で、泣き叫ぶような声で、言うものじゃないだろう!)


 ライネルは、怒りにまかせて水妖馬をにらんだ。

 

 水妖馬は、ライネルの怒りに反応するように姿を変えた。

 その変化は、彼をあざけっているようにも見える。

  

 白布はくふ一枚の雄々《おお》しい男神だんしんの姿があらわれた。

 水妖馬は、その姿で聖女の細い腰に手を回し、まるで恋人のように抱き寄せる。

 そして、彼女の悲哀を含む涙を舌でからめとりながら、赤い目でライネルを見た。

 その瞳には、どこか優越めいた色が宿っているように感じる。


(胸くそが悪い……)


 怒りではない。

 嫉妬でもない。

 もっと深い、

 もっと静かな不愉快さがライネルの胸中で膨らむ。


(救われてなんかいないじゃないか。

 こんなのは、ただ喰われているだけだ)

 

 ライネルは、怒りを抑えるために大きく深呼吸をした。

 怒りで我を忘れては、聖女まで届かない。

 しかし、聖女になんと声をかけていいのか、彼にもわからなかった。

 水妖馬の幻惑は救いでない、そのことだけはライネルには十分すぎるほどわかっていた。


「セラ……この世界に、救いなどない」


 ライネルは、恍惚こうこつと水妖馬の胸にすがる聖女セラに語り掛ける。

 今も生きている自分の気持ちを、少しでも彼女に伝えるために。

 静かに真摯しんしに、不器用に、声の手を伸ばす。


「生きてるなら、生きればいい。

 立ってるだけで、もう十分だ……」


 聖女セラの肩がかすかに揺れる。


「立つのがつらいなら……支えてやることくらいは、俺にもできる。

 でも、俺だけで足りないなら、街のやつらだってきっと力になる」


 ライネルは、水妖馬に取り込まれている聖女を責めるでもなく、ただ静かに”セラ”に向かい言葉を続ける。


「お前は、人を助けることばかり考えてきた。

 でもな……お前も誰かに助けられていいんだ」

 

 その言葉に、聖女の玻璃はりの笑顔は崩れた。

 代わりに、熱を帯びた涙があふれ出す。


「……神に見捨てられたわたしが、助けられても……いいのですか……?」


 水妖馬は聖女の聖力を吸い力を増していたのか、聖女がよろとその身を離すと、表情が歪み像が乱れた。


 気が付けば、男神の姿はにじみ消え、そこには元の白い馬があらわれた。 






◆第6話 湖の夜明けと、歩き出す二人<終>


 聖女は崩れ落ち、ライネルの前で膝をつく。


「……わたしは、誰も救えなくても、無力でも……生きていていいのでしょうか」


 その問いは、ライネルに向けたものではなく、自分自身へ問いかけているかのようだったが、その言葉の重さをライネルは知っている。

 セラの震える声を聞きながら、ライネルの心にもあの疫病の夜の影がかすかにうずいた。

 親が冷えていった感触が、今も指先に残っている。


 

 今のセラに必要なのは、言葉よりもぬくもりだとライネルは思う。

 彼は、セラの濡れたか細い肩にそっとマントをかける。

 なんの変哲もない、くたびれたマントだ。

 

「立てないなら、支えよう。

 それくらいなら、俺にもできる」


 ライネルは、セラに立ち上がるようにうながした。

 差し出される大きな手に、セラはためらいがちに手を伸ばす。

 かすかに指先が触れた瞬間、ぬくもりが伝わった。


 その温かさが、ここが夢ではないと告げていた。

 体に絡まっていた何かがほどけていく。

  生きている者だけが与えられる温かさに、セラの心はそっと息を取り戻す。


 月は黎明れいめいけ、あたりには湖の清涼な水の匂いが満ちていた。

 下草を渡る風のさざめき、森の木々が鳴らす葉擦はずれ、

 そして小鳥の朝を告げる声が、あたりに響く。


 聖女は涙をぬぐい、彼の手をぎゅっと力強く握ると立ち上がった。

 ライネルはセラを見て、小さくうなずく。


「さあ、帰ろう」

 

 夜明けの光が湖面に差し込み、

 二人の影がゆっくりと伸びていく。



   *



 水妖馬は揺らめく子馬の姿で、立ち上がる二人に迫る。

 新たな像を作るほどの力は、もう残っていないようだ。

 ただ、純粋な幼子のような小さな声で誘ってくる。


『……また夜に、ひとりで泣くの……?』

『……ねぇ……ほんとはこわいんでしょ……』

『……だいじょうぶ……?

 生きていても……つらいだけだよ……』


 セラは、水妖馬の言葉に少しずつ言葉を紡ぐ。

 自分に言い聞かせるように、そっと噛み締めながら。


「……そうね。

 わたしは、また泣くかもしれない。

 けれど、夜にひとりで泣いても、昼に暖かさを教えてくれる人がいる。

 だから……泣きながらでも、歩いていくわ」


 歩いていくことは、生きている人間にだけできることだ。

 ライネルは、陽炎かげろうのように薄くなった水妖馬を見据みすええて言う。


水妖馬(ケルピー)。お前は、人間には必要ない。

 お前に必要だったのは……ただの“餌”だろう」


 ライネルは剣を抜き、水妖馬を斬った。

 迷いのない、鍛え抜かれた一太刀ひとたちだった。

 水妖馬は霧のように散り、日の光に溶けていく。


『……ぼくは……きみたちの影……

 ……ずっとずっと……そばにいるよ……』


 声は小さくなり、やがて湖の中へ消えていった。

 水妖馬は、実体のない魔物なのか――ライネルはふと思う。


「ライネル様、ありがとうございます」


 セラが深々と頭を下げる。


「……いいんだ。

 街の衛兵として、やるべきことをしただけだ」


 ライネルは、ほっとしたように口元を緩めた。


「さあ行こう。救援を呼ばないとな」


 長い夜が明けた。


 湖面には、まだかすかな影が揺れていた。

 けれど二人の足取りは、もう迷ってはいない。

 夜の名残をみしめながら、確かに前へ進んでいく。


 セラは暖かな日の光を見つめ、大きく息を吸った。

 朝の匂いが胸に満ち、体がゆっくりと目覚めていく。


「なあ、焼きたてのパンが食いたくないか?」


 ライネルの言葉に、セラは小さく笑ってうなずいた。


 光の差す方へ歩いていくことだけが、生きている者にできる唯一のことだ。

 難しいことは考えなくていい。



 生きているなら、生きればいい。

 生き物は、ただ立ち上がるだけで十分に強い。

 その強さは、誰の中にも最初から息づいている。



 ライネルは、セラの足下を見る。その足は、しっかりと地面を踏みしめて立っていた。


 そして、彼もまた確かに足裏に大地を感じながら、そっと彼女の隣へ歩みを寄せた。





◆ お わ り ◆


 






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