やさしいとんかつ
あの店を再び訪れてから、三ヶ月が過ぎた。仕事に戻った日常は相変わらず忙しく、都会の空気は以前と変わらず乾いていた。以前なら俺の心はすり減っていく所であったが、今の俺の心のどこかには、いつも“あの味”が確かに存在していた。
──優しいトンカツの味。
──老人の静かな笑顔。
──どこか寂しげだったあの声。
忙しい日々の中でも、ふと思い出すだけで呼吸が楽になる不思議な温度だった。だからこそ、また行こうと心に決めていた。
だが、仕事や生活に追われるうちに気づけば三ヶ月が経っていた。休みができたある朝、俺は「あの店に行こう」と思い立った。理由なんていらない。ただ、あの優しい味とそれを提供してくれる店主の老人に会いたかった。
俺は車を走らせた。
窓の外には、少しずつ色づき始めた山々が広がる。季節は夏から秋へ変わりつつあった。都会で暮らしていると季節の変わり目を感じる瞬間は、気温や服装、食べる物が多い。しかし、田舎には自然がある。次々と目に飛び込んでくる景色に俺は感動していた。
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町に入ると、懐かしい景色が広がった。
あの日と同じ、古いバス停、ゆっくり歩く地元の人たち。何一つ変わっていなかった。まるで時が止まっているように思えた。
そして──あの店が見えてきた。
「食事処 たそがれ」
看板は相変わらず古びている。
けれどその風景が胸を温めた。
店の前に車を停め、ドアの目の前に立った。俺は目の前に見えた物に時が止まったような衝撃を受けた。
【臨時休業】
この手書きの四文字だけの紙がドアの前に貼られていた。メニュー表の手書きの字とは少し違う気がした。
胸の奥で、小さな不安が膨らむ。
ただの風邪だろうか。
それとも買い出しか。
あるいは……。
嫌な予感を振り払うように首を振った。まさかそんな・・・・・・と最悪な事も考えてしまっていた。近づいていた筈のトンカツと老人が遠のいていくように思えた。
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俺は店の前でしばらく座っていた。まさかの出来事に時が止まったように俺はフリーズしていた。
「……大丈夫なのかな」
心の中で思っていた事が小さく吐き出すように出てしまった。だが、俺の独り言に答えてくれる人はいなかった。
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しばらく時間が経つと我に返った俺は、失意のまま帰宅する事にした。車のドアを開け重い腰で座席に座ろうとした時、誰かの声がしたのを俺は聞き逃さなかった。後ろを振り返ると、一人の女性が立っていた。年齢は俺と同じぐらいの三十歳前の風貌だった。
「あの・・・・・・もしかして、お店に用がありましたか?」
「あ、はい……ここのトンカツをもう一度食べたくて都会からここに来ました 」
「……そうだったんですね。来てくれたのは嬉しかったですが、もう閉店してしまって」
臨時休業ではなかった。俺は更なる追い打ちをくらったような気持ちだった。
「……な、なんで。それに、あなたは一体」
耳の奥で、自分の心臓の音だけが大きく響く。俺は既に最悪のケースを予想していた。
「……私は、ここの店主だった者の孫です。祖父は最近亡くなりました」
膝が少し震えた。
何かに殴られたような痛みが胸に走る。心拍数が上がり呼吸がしづらくなる。それと同時にあの時の老人の表情と言葉がフラッシュバックした。
「そんな……まさか……」
つい最近まで会えると思っていた。
またトンカツを食べられると思っていた。
また笑って話せると信じていた。
俺の目には涙が自然と浮かんでいた。
「今分かりました。祖父が最後にトンカツを振舞った人の事が。あなただったんですね 」
俺は彼女から、老人の最期を聞いた。あの日、俺に振る舞ったトンカツは最後の料理であった事、あの日以来、以前から患っていた持病が悪化して厨房に立つ事はなかった事、亡くなる数日前に彼女に語った最後の料理の事。
老人は俺の事を気に掛けてくれていた。彼女からその話を聞いた俺は涙が溢れて彼女の姿がボヤけていた。
俺の知らないところで、老人は静かに旅立っていた。
あの優しい背中は、あの日以来見る事は出来なかった。
⸻
数日後、俺は再び「たそがれ」の前に立っていた。
店は閉じたままだった。
看板も、あの日と変わらずそこにある。
しかしその下には、小さな花束が置かれていた。
ゆっくりと店の前にしゃがみ込む。
手を合わせながら、目を閉じた。
あの時のトンカツの味が蘇る。
──サクッという優しい音。
──口に広がる温かさ。
──「また来いよ」と言った笑顔。
それらすべてが、二度と戻らない。
胸に重く、深い空洞がうまれたようだった。
「……ありがとう」
静かにそう呟いた。
俺はあの日まで死んでいた。だが、あの時食べたやさしいトンカツのお陰で今は少しずつだが、蘇っている気がしている。
⸻
立ち上がり、店の戸に触れた。
冷たい木の感触が、胸の奥に沁みる。
老人は知らなかっただろう。
たった一皿のトンカツが、ひとりの人間の心を救っていたことを。
そして俺も知らなかった。
あの日が老人の人生の終わりに近づいていたことを。
⸻
しばらく店の前に立っていた。
やがて、俺は小さな決意を胸に抱いた。
──あの味を、忘れない。
──あの優しさを、自分の中に残し続ける。
──そして、誰かに返していく。
それが老人への“返事”になる気がした。
車に戻る前、俺は看板を見上げて最後に呟いた。
「……ごちそうさまでした。ほんとうに」
風が鳴り、店の風鈴がかすかに揺れた。
まるで、老人が「ありがとう」と返してくれたようだった。
──優しいトンカツの味は、これからもずっと俺の中で生き続ける。
そう確信しながら、俺は静かに車のドアを閉めた。
俺は帰宅した後、インターネットや動画を見ながら、慣れない手つきでトンカツを作った。あの老人には足元に及ばない味だが、自分で初めて作ったトンカツはやさしかった。
老人はこの世にはいないが、そのやさしさはきっと受け継がれていく。俺はそう確信していた。
あの日老人から貰ったやさしさを胸に抱いて、俺は今日も生きていく。やさしさは受け継がれていく。
完。




