優しさと温もり
衣がカリッと音を立てた。
箸で持ち上げたトンカツから湯気が立ち上り、香ばしい香りが鼻をくすぐる。食欲を刺激させる匂いが胃へと届くようだ。その瞬間、俺の心はふっと緩んだ。冷たく閉ざされていた物が少し溶けるような気がした。
トンカツを口に運ぶ。サクッという音とともに、肉のやわらかさが舌に広がった。脂が甘く上品な感じで衣は軽く、しつこさがない。トンカツといえば脂っこくて重く胃袋に強いブローをかますイメージがあったが、ここのトンカツはそんな事を一切感じさせない。
思わず目を閉じてしまうほど、穏やかで優しい味だった。このトンカツを作った人の温かさを感じ取れるようだった。
「うまい……」
意図せず飛び出してきたその言葉に懐かしさをかんじた。食事で溢れ出たように"うまい"と言葉を発したのが覚えていないぐらい前で慣れないぐらいだ。
そして、思わず漏れた声に、厨房の奥から老人の笑い声が返ってきた。
「口に合いましたか」
「はい、すごく美味しいです」
言葉にした瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
誰かに心から「美味しい」と伝えるのは、いったい何年ぶりだっただろう。食事を取り感動を得た事も感謝を述べた事も記憶の中では遥か遠くの昔だった。社会の荒波に飲まれる中で、食への好奇心であったり、感動を忘れていた。
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トンカツが盛られている皿の隣に置かれている味噌汁が入った器に手を取り、ゆっくりと味噌汁をすすった。俺はいつもより食べるペースが遅い事に気づいた。
都会では時間に追われるように早食いしていた。食事は休憩というより、次の仕事までの「隙間」だった。そこに何の感情もなく作業のようだった。
だが今は違う。一口ごとに、体の奥に染み渡っていき、食の本来の楽しみ方を思い出させてくれている気がした。
静かに食事を続ける俺を見て、老人はカウンターの向こうで湯呑みにお茶を注ぎ近づいてきた。
「良かったら、これもどうぞ。サービスのお茶です」
「ありがとうございます」
湯呑みを受け取ると、ほのかに香ばしい香りが立ち上る。麦茶だろうか。
湯気の向こうに見える老人の笑顔が、なぜか懐かしく思えた。久しぶりに温かい人を見た気がした。老人を見て俺は何か話をしたいという衝動に駆られていた。
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「この店、長くやってるんですか?」
この言葉に老人は少し目を細めた。
「もう五十年になるか。若いころは嫁さんと二人で切り盛りしてたんだが・・・・今は一人じゃ」
「奥さんは……?」
「三年前に先に逝ってしもうてな。それからは、ゆるゆると続けとる。もう体も思うように動かんが、ここを閉めるのも寂しくてなぁ」
老人は笑いながら言ったが、その声の奥に、淡い寂しさが混じっていた。
「そうなんですね……」
俺は老人から視線を外した。プライベートな事を聞きすぎてしまったと思い申し訳なさを感じたからだ。
「あんた・・・・旅の途中か?」
「ええ。特に目的はなくて。都会にいたら、少し息苦しくなってしまって、逃げたくなったっていう感じで 」
老人は「ほう」と小さく頷いた。
「わしも若いころは、都会で働いとったよ。厨房で修行してな。毎日怒鳴られて、夜中まで皿洗い。厳しい世界じゃった」
「そうだったんですか」
老人も都会暮らしの経験があったのだ。ほんの小さな共通点だが、何故か無性に嬉しい。俺はこの話を聞いて少し親密度が上がった気がした。
「でもな、ある日、師匠に言われたんじゃ。料理は人の腹を満たさせるだけではなく心も満たせってな」
老人はゆっくりと湯呑みを置いた。そして目はどこか違う所を見ていた。
「その言葉、ずっと胸に残っとる。それ以来、今までずっと、食べた人の心を満たす為に料理を作り続けたんじゃ。うちは味を守るより、気持ちを込めることを大切にしてな・・・・」
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俺は箸を止めた。
その言葉が胸の奥に静かに沈んでいく。
都会で過ごす日々。
人に優しくする余裕もなく、仕事の成果と数字ばかりを追っていた。誰かに笑いかけることさえ、面倒に感じていた自分。
だが今、目の前のトンカツは確かに優しかった。
それは味の話ではなく、人の心が作る「温度」のようなものだった。俺の冷たく凍ってしまった心がゆっくりと溶けていくような気がした。
「……俺、最近、人が怖かったんです」
俺の言葉に老人の視線は俺の方を向いていた。
「世間の人達はみんな冷たくて、誰も信用できなくて。でも、今日ここに来て、少し救われた気がします」
老人は静かに笑った。
「人はな、冷たくもなるし、優しくもなる。けど、どっちも人の中にあるもんじゃ。あんたが優しさを感じたのは、あんたの中にもまだそれがあるからじゃよ。人は冷たいだけでは生きられないし、温かいだけでも生きてはいけない。両方抱えて生きていくしかないんじゃ。難しいがなぁ」
その言葉に、俺は少しだけ視界がにじんだ。何かをずっと我慢していた俺の心に、老人が作ってくれたトンカツが隙間を作ってくれた。その隙間から俺の我慢していた物が少しずつ流れていくようだった。
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気づけば皿は空になっていた。
「ごちそうさまでした」
深く頭を下げると、老人は「ありがとう」と穏やかに返した。
会計を済ませ、靴を履く。
引き戸を開けると、午後の陽射しが店内に差し込んだ。
あっという間の時間だった。老人ともっと話がしたいがこれ以上居ることは出来ない。俺は最後に一言放った。
「また、来ます・・・・・・その時は、もう一度優しいトンカツ食べたいです 」
彼がそう言うと、老人は微笑んだ。
「その言葉だけで、もう十分じゃ。……けど、また食べに来てくれや」
老人は少し寂しそうな表情をしてそう言った。俺はいその表情が頭の中にこびりついた。
鈴の音が鳴り、戸が閉まる。
車に戻る前、俺はもう一度店の看板を見上げた。
白いペンキが剥がれかけた文字――「食事処 たそがれ」。
その古びた看板が、なぜか心の奥で温かく輝いて見えた。
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車を走らせる。
窓の外には、黄金色の田んぼが夕日に染まっていた。
その風景を見ながら、老人とのやり取りを思い出して口角が上がるのを気付いた。
「良いお店だったなぁ」
その言葉は誰に向けたわけでもなかった。
ただ、久しぶりに心の底からそう思えた。
都会に戻っても、今日の出来事はずっと忘れないだろう。あの店の味と老人の言葉はきっといつまでも消えないだろう。
──そして半年後、俺はある事を知ることになるが、その時は予想など出来なかった。




