窮地
――ガリニ砦・正面
伝令兵の最後の言葉が、砦全体に重くのしかかった。
矢の音も、剣戟の響きも、遠くの嵐のようにかすんで聞こえる。
「ルナロイド……が……消えた……?」
「馬鹿な、そんなことが……!」
「嘘だ……王都には家族が……!」
兵士たちの足が止まる。盾を落とし、槍を握る手が震え、顔から血の気が引いていく。
まるで、戦場の真ん中で夢から覚めたかのように、全員の心が一斉に崩れ始めた。
その隙を見逃す敵ではなかった。
黒旗を掲げる軍勢が咆哮し、さらに狂気じみた突撃を加速させる。
「おい! 立て! まだ戦えるだろッ!」
レオンが喉を裂くように叫ぶが、その声はもはや兵たちの耳に届かない。
「俺たちの国は……もう……」
「守るべきものが、ない……」
兵士たちの瞳から光が消えていく。絶望は鎖より重く、風よりも早く心を縛る。
「チッ……!」
バルドが血を浴びた剣を振り抜き、前の敵兵を真っ二つにする。
だが、仲間の兵士が次々と武器を落とし、後退するのを見て、歯ぎしりする。
「ふざけんなッ! 戦えよ! まだ終わってねぇ!」
ユリクは弓を引き絞りながら叫ぶ。
「後ろを見ろよッ! 俺たちが下がったら、ここで全員終わりだぞ!」
矢は確実に敵兵の喉を射抜くが、それでも屍兵のように倒れては立ち上がり、立ち上がっては再び迫ってくる。
真時は血だらけの剣を握りしめ、全身に冷や汗を流していた。
(……ルナロイドが消えた……? じゃあ、この戦いは……俺たちは……何のために……?)
頭の奥で、言いようのない虚無感が渦を巻く。
だが、その虚無を切り裂くように、咆哮が轟いた。
「まだだァァッ!!」
黄金の鬣をなびかせたガロルドが、血煙の中で立ち上がる。
その眼光は、怯えた兵士たちを真正面から貫いた。
「国が消えた? 家を失った? だから何だ! 俺たちはまだ生きている!」
彼の咆哮は、震える兵士たちの耳を焼くように響き渡る。
「死んだ者はもう帰らねぇ! だが、生きてる限り戦える! ――ここを突破されれば、お前らも、仲間も、死ぬだけだッ!」
その金獅子の咆哮に、一瞬だけ兵士たちの瞳に光が戻った。
だが、正面から迫る狂気の軍勢は、そんな僅かな火をも飲み込もうとする。
そして――。
砦の外から、新たな角笛の音が響いた。
それは敵のものではない。
夜空を震わせるような、低く力強い音色。
「――まさか……援軍か!?」
崩れかけた砦の兵士たちが、一斉に振り返る。
だが、その姿を見た瞬間、誰もが息を呑んだ。
――闇を裂いて現れたのは、黒鉄の鎧に身を包んだ騎士団。
彼らの掲げる旗は、確かにルナロイドの紋章を描いていたはずなのに……その色は赤黒く滲み、ボロボロになり、今は異様な輝きを放っていた。
「な、なんだ……あれは……」
「味方じゃ……ない……?」
砦の前線に、新たな影が迫る。
角笛の音が響き渡った直後、闇を割って現れたのは敵軍の増援だった。
黒旗を掲げ、槍を突き立てながら進軍してくるその軍勢は、背後の光を背にしてなお、不気味な影を落としていた。
「……っ、後ろからだと……!?」
レオンが振り返り、血の気が引く。
前方三千に加え、後方からさらに数千。
完全なる挟撃。
「……これで終わり、か」
ガロルドは血に濡れた金の鬣を振り払い、鋭い眼光で戦場を見渡す。
その声は静かだったが、確かな重みを帯びていた。
「全軍――撤退だ」
「撤退……!?」
「でも、どこへ!? 王都は消えたんだぞ!」
兵士や冒険者が動揺する。
ガロルドはその場にいる全員を一瞥し、猛獣のような咆哮を放った。
「命のある限り、走り続けろッ! 道は戦いの先にしか残ってねぇ! 砦にしがみつくな、故郷に縋るな! 生き延びることが唯一の勝ちだッ!」
その言葉に、仲間たちが一斉に反応する。
「……行こう、真時!」
クレアが血に濡れた手で真時の腕を掴む。
「逃げ道を切り開くぞ!」
バルドが剣を構え直し、狂気の軍勢を斬り伏せる。
「背後は俺が射抜く、止まるな!」
ユリクが矢を次々と放ち、迫る槍兵を牽制する。
「走るぞ、中段チェリー!」
レオンが叫び、彼らは即座に方向を変えて砦の側面へと突き進んだ。
周囲の兵士や冒険者、傭兵たちも次々と後に続く。
砦を拠点とした防衛戦は、もはや意味を失った。
――夜空に、鬨の声と悲鳴が混じり合う。
だが、確かに一つだけ共通する叫びがあった。
「生き延びろ! 走れ! まだ死ぬなァァッ!!」
その合図と共に、砦を包んでいた最期の抵抗線は崩れ、
ガリニ砦は血と炎に呑み込まれていった。
――だが、命を抱え走り出した者たちにだけ、次の運命が待っていた。




