第27話:氷室舞衣の日常
「おはよう! エミちゃん、今日も良いお尻っ」
「ひゃっ! もう! 舞衣先輩! 朝からセクハラやめてくださいっ——って、ワンちゃん?」
「ワフ」
時は涼真が『探索者試験』を受けに行く日の早朝に遡る。
「そうなの! アルバくんって言って、あたしの使い魔系〈探索者〉デビューの初パートナーです」
早朝のオフィス街。
多くの人々が行き交う往来で舞衣は同じ職場であり後輩でもある『エミ』と並びたってアルバを紹介しながら同じ目的地へと歩き始めた。
「え! 先輩、【従魔隷属魔法】の〈マギチップ〉手に入れたんですかっ!? めちゃくちゃ希少で相当高額なはずっ! あ〜!成る程〜、流石〈ブルーサーペント〉の副マスターは違うってことですねぇ、いいなぁ〜ウチも玉の輿ねらいた〜い」
「え? ああ〜、いやコレはね? そう! 兄が、遠方に行っていた兄が帰ってきたのよ! アルバと、その……〈マギチップ〉は兄から貰ったもので」
後輩の邪推に一瞬息を詰まらせた舞衣。
咄嗟に浮かんだ兄の顔を思い出し、なんとか絞り出すように応える。
実際全部が嘘というわけではないので堂々としていれば良いのだが、この後輩『エミ』にこの手の話をすれば返ってくるのは、
「えっ!? 先輩お兄さんいたんですか! おいくつです? そんな高価な〈マギチップ〉と【従魔】まで譲ってくれるなんて相当な……、ワンちゃんアリ? 先輩、先輩! もしよければ今度お兄様とセッティング〜」
優良物件探しに余念がない年下の後輩は例え相手が先輩である舞衣の兄であろう全く意に返さないらしかった。
「あ〜、兄はちょっと歳が離れていて。エミちゃんには年上過ぎるかも?」
「わたし、三十八までなら許容範囲です!」
ばっちり守備範囲だった。
「そ、そうなんだー。一応聞いておくね? 三十五歳だけど、本当に大丈夫?」
「むしろ丁度良いじゃないですかっ! 社会人としても男性としても落ち着き始める年代、余裕のある結婚生活を目指すなら自ら狙っていくぐらいあります」
後輩のがっつり現実見ているアクティブな婚活思想に、未だ『恋愛結婚』に夢みがちなこだわりのせいで『婚約者』と進展のない自身の状況に静かなダメージを受ける舞衣。
「進展は……一応あったのか」
ふと昨日の自宅前で起こった出来事が舞衣の脳裏に蘇る。
兄である涼真が二十年ぶりに『異世界』というとんでもない場所から帰還した、そんな荒唐無稽とも思える出来事に一時頭から吹っ飛んでいたが、車で送ってくれた彼から『された事』が思い返され、途端に気恥ずかしさが込み上げてきた。
「お、先輩! 早速熱いお出迎えですよっ!」
後輩に促されて視線を向ければ、目的地である〈ブルーサーペント〉のクラン本部前で誰かを待つように立っている男性が目に留まる。
キリッとした顔立ちに洒脱な装い。
メガネがよく似合う長身な彼の名前は地神剛。
四大クランに続く二強の一角、大型クラン〈ブルーサーペント〉の副マスターという肩書きを持つ氷室舞衣の婚約者。
「彼は、そういうタイプじゃないわよ」
その人間性は一言で表現するならば合理主義。
徹頭徹尾、無駄を省き、無駄を嫌い、まさに巨大クランの運営を担う人間らしい人格と言える。
「ん〜、まあ、言われてみればそうですねぇ〜。副マスが先輩の出社を待ってる状況って想像できないかも?」
後輩の忌憚のない意見に舞衣はグリグリと眉間を押して複雑になりかけていた気持ちを沈静化。
「とにかく、今日からは大事な新人プログラムも兼ねての遠征。エミちゃんも頼りにしてるからね」
「はい! 新人くんの中に将来有望なイケメンはいないかなぁ〜」
有望株なら年齢問わず誰でもいいらしい肉食系ないつもの後輩スタンスにため息を一つ。
「行こう、アルバ」
「ワフ」
忠実に舞衣のサイドをキープする黒と茶色の毛色をした『地狼』アルバに和かな微笑みを向けオフィスへと向かう。
「おはようございます」
「おはようございま〜す」
話題に上がっていた婚約者の横を事務的な挨拶を持って通り過ぎる。
「おはよう——氷室君、その犬? は、なんだ」
舞衣自身と言うよりも当然のように隣を歩くアルバに視線を固定して問いを発する地神の質問に舞衣は先ほどエミにした説明と同じものを話そうとして、
「やぁやぁ! おはよう我がクランの忠実なる〈探索者〉諸君!」
やや幼い声色。
何も知らない人物がその姿を見れば『少年』と評するであろう外見。
「「おはようございます、マスター」」
「おはようございます、蛇喰マスター」
真っ青な髪色に毒牙を思わせる紫色の前髪が一房。
外見が『少年』でなければあらゆる女性を虜にしたであろう美形。
ある一部の女性陣には熱狂的な……ある種狂気的なファンもいるが、実際その年齢は不明。
噂によれば十年前から変わらない外見だったなどという話もあるその『少年』こそが舞衣も所属する〈ブルーサーペント〉クランマスター蛇喰蒼真その人である。
「剛くんお迎えありがとね〜、今日の予定は」
「は、本日は四大クランからの指名依頼、ダンジョンの異変についての案件と先日、同ダンジョンで発生した『謎の洪水』についての調査依頼の精査……あとは各部門の予算会議などがあります」
やはり舞衣を待っていたわけではなかった事がはっきりとするも、わかっていた事だと割り切る。
これ以上は自分達のような身分の人間が長居するべきではないと判断した舞衣は後輩を促し、軽く会釈をしたのちその場を離れようとした。
「ちょっと待ってくんない? えっと、氷室さん! たしか剛くんの婚約者さん、だったよね?」
「え、は、はい。なんでしょうか?」
突然、予想外にも呼び止められた舞衣は困惑しながらもピシッとその場でマスターに向き直った。
いくら見た目が『少年』でも彼は誰もが知るクランのマスター。
つまりは代表であり最高責任者。
ここで礼儀を欠くような真似はできない。
「そんなに固くならないでって、君はウチに入った時から優秀だったからね! 剛くんにそろそろ身を固めなよっ、て君を推してみたのも実は僕だったりするんだよ?」
薄々舞衣が感じていた可能性が思わぬタイミングで露見した。
元々職位も生まれも格差のある相手、なぜそんな人物が自分のような平凡な人間を婚約者として選んだのか、という疑問は常にあった。
案の定、クランマスターの希望、将来有望とみなされた人物をクランの中心人物が婚姻関係を持って中枢に縛るのもよくある話。
「そうだったのですね! あたしのような平凡な人間を目に留めていただき光栄です」
にっこりと笑みを張り付けて頭を下げる。
ただ反面、急速に冷えていく自分の心を悟られないよう、婚約者には視線を向けなかった。
そんな感情を婚約者に向ける資格がないことも舞衣自身自覚している。
この巨大なクランに安定して就職でき、このオフィスの『食堂』でパート勤務をしている母の待遇改善や、兄を失って日々抜け殻のように生きてきた両親へ少しでも楽をして欲しい、あわよくば早めに隠居して心の傷を癒すために夫婦でゆっくり過ごして欲しいと願う舞衣の希望。
(想定外すぎる方向で解決しちゃったけど……)
地神剛という人間が持つその地位や権力に後輩と同様、打算があったのも事実。
(だから、悩んでた……けど、あたし達は結局同じ。お互いにとって都合の良い、程度の関係。それでも、相手がいるんだもん——今更『恋愛』に夢見るなんてバカな事よね)
モヤモヤとした気持ちに大人としてケジメをつけるように笑顔を崩さず、改めて地神に微笑みで返す。
眼鏡をクイっと持ち上げ静かに視線を逸らした地神は、
「マスター、そろそろ」
蛇喰に声をかけて促した。
「ん? ん〜、いやいや、やっぱり僕の目は間違っていなかったよ剛くん。氷室さん? その隣に控えている『狼くん』は君の【従魔】かい?」
眼光鋭くアルバを見据えたクランマスターは『犬』ではなく『狼』と断言してみせ、かがみ込むように目線を合わせた、瞬間。
『おどれぁ、ガキたれぇ。あんまカバチタレとったらタマ取るどゴラァ』
舞衣の脳裏が「なんか、聞こえた」、とどこからともなく頭の中に響いた声に肩を跳ねさせ周囲をキョロキョロと見回す。
ただ、自分以外に変わった様子を見せていない状況に混乱していたその時、舞衣の視界には同じく異変をきたしていた人物が一人。