第25話:お酒は好きですか?
「ただいまー、って、なんか……いいな」
実家に『ただいま』と帰る。
そんな当たり前の『日常』が傷跡残る心に深々と沁みる。
一般常識……俺の一般常識って一体。
「ゆう——リョウマ、おかえり、なさい」
トタトタと玄関に向かってくる軽い足音。
「————っ!」
目の前にはその美貌に不釣り合いな質素なエプロンを身につけた、
「なんだ、天使か」
「え? 天使の気配は今しないけど」
「いや、なんでもない」
直前まで料理をしていたのかキッチンの方から鼻腔をくすぐる暖かい匂い。
いくら歳の離れた妹のような存在だとて、絶世の美貌持つ魔族の姫に庶民エプロンは、危険だ。
色々な意味で非常に危ないと心得ておく。
直前までの憂いなど一撃で消し飛んだ俺は出迎えてくれたソフィアに笑顔で持って返し。
「あ! 忘れてた! え、と……リョウマ、お風呂にする? ご飯にする? そ、それと、も?」
「——っグフ」
誰だ!?
親友たる魔王の一人娘にこんな古典的な悪ふざけを仕込んだのはっ!
し、心臓に悪い!
即死系の闇魔法すら無効化する俺の耐性がまったく仕事をしていない!
「リョウマ? 大丈夫?」
「あ、ああ、思わず【神聖蘇生魔法】を重ね掛けしそうになっただけだ」
「え! それほどの強者がいた? 〈神聖力〉の多用は勇者の力でも負担が大きい!」
エプロン姿が強敵すぎて倒せるビジョンが浮かばない。
いや、倒さないけども。
「大丈夫だ、それより母さんは? どうせ色々と仕込んだのあの人だろ」
「え? お母様は今買い忘れがあったって近くのコンビニ? へ買い物に、さっきの台詞は、そのお父様が、リョウマが喜ぶからって」
「ぉおい父っ! なんて破壊力の武器をソフィアに仕込んだ!?」
「! リョウマ? お父様にそんな口調で怒鳴ったらダメ、父は敬うものって本に書いてた」
リビング近くの扉から父親の勝ち誇ったすまし顔が覗く。
あとで絶対に報復するからな。
騒がしくも暖かい時間に少し張り詰めていた心の糸が緩んでいくのを感じながら、料理においても遺憾無くその才能を発揮する魔王の娘の手腕にひたすら脱帽させられるのだった。
ソフィアなら一般常識の試験、一発合格しそうだな……いや、絶対するだろうな。
やはり少しだけ、切ない気持ちは残り続けた。
***
母も揃って四人で囲んだ夕食後。
舞衣はまだ帰宅していない。
なんでも『ダンジョン遠征』とやらで長い場合は数週間家を空けることもあるのだとか。
「まあ、アルバからは何の反応もないし、問題はないか」
今は自室に戻り、明日からどう過ごすべきかと考えを夜空に向かい耽らせている所へ、
「リョウマ? 入ってもいい?」
控えめにノックされるドア。
俺は返事よりも先に、ドアを開けてソフィアを招き入れる。
学生時代の懐かしくも恥ずかしいアレやコレは昨日のうちに撤去済み。
今はテーブルに椅子、ベッドがあるだけの質素な部屋に成り代わっている。
「ここ座ってもいい?」
「ん? あ、ああ別に構わないが」
ソフィアは何やらトレーに載せたグラスや飲み物をテーブルに置くと俺が座っていたベッドの隣を指差す。
微妙に動揺してしまった俺の反応など置き去りに、機嫌良くテーブルをベッドの前まで引っ張ってきたソフィアは、俺と隣り合う形で座り、何やら準備を始めた。
「お父様とお母様が、私に『探索者の専門学校』に通ったらどうかって、戦闘技術とかよりも、歳の近い友達?とか、この世界の知識や常識を学べるんじゃないかって……どう、思う?」
トレーで運んできた大量のお菓子を広げたり飲み物らしきを準備しながら問いかけるソフィア。
学校か——確かに、ソフィアがこの世界に馴染んで生きていくには同年代の友人や俺たち家族以外の関係性を構築していく必要がある。
学校という機関はなんであれ打って付けだろう。
「いいんじゃないか? ソフィアがこの世界で生きていくのに俺や両親だけというの繋がりも狭すぎる。戦闘技術に関しては退屈かもしれないが、教養や一般常識なんかも——」
本日もっとも深い傷跡に自ら触れ、悶える。
「勇者? どうかした?」
「あ、ああ、いや、まさにその一般常識の試験で……落ちてな。
〈探索者〉のライセンス取得出来なかった。現地人であるはずの俺が試験に落ちておいてソフィアに『一般常識』を語るなんて」
どよん、と目に見えてわかりやすい負のオーラーを思わず纏ってしまった。
「——、よしよし」
「——っ!」
ふわりと髪に触れる柔らかな手の感触。
焦って隣を見れば慈愛に満ちた微笑みで俺の頭を撫でる少女の姿。
「あ、えっと、なんか、すまん。そこまで気を遣わせるつもりは」
慣れない感触と、込み上げる気恥ずかしさに思わず頭を後方に引いてしまう。
ソフィアはどこか残念そうに撫でていた手のひらを見つめ、
「試験はまだ受けられる?」
「ん? あ、ああ、高いけどな。手数料さえ払えば何度でも受けられる」
ソフィアは納得したように頷くと、自分のグラスに透き通る緑色のシュワシュワした液体を注ぎ、その上にクルリと丸く形どられたバニラのアイスを乗せる。
「ふふ、クリームソーダはこの世界の至高。勇者は、こっち」
満足そうに自作のクリームソーダをうっとりと眺めた後で、渡されたグラス。
注がれるのはキンキンに冷えた黄金色と白くクリーミーな泡が実に欲求を唆る麦酒。
俺は並々と注がれた『ビール』を凝視。
視線を上げて真剣な表情でソフィアを見る。
「ソフィア、俺は酒を——」
「知ってる。お酒で騙されてからは一切口にしていない。ひと時の例外を除いて」
カランとソフィアの手にしているクリームソーダが音を立て、ビールの泡が少しずつ目減りしていく。
「ああ、そうだな。ベリアルは、俺のそんな悩みを一蹴して『魔王を倒した勇者が酒如きに敗れ怯えるとは傑作だ——』って笑われたっけな」
懐かしくも自嘲するよう呟き溢した言葉を凛とした声が拾う。
「『ならばその脆弱な心に我は『酒』という【魔法】で持って勝利するとしよう。飲め勇者よ、この魔王が我らの勝負に水などささせぬ。貴様が酔い潰れて敗北した暁には、その生涯をかけて我に酒を献上し続ける枷を与えてくれる』——お父様はそう言って、【結界】を張ったの。こんな風に」
ソフィアはパチンと軽やかに指を鳴らす。
瞬間、実家全体を覆う半球状の【結界魔法】が発動。
「——、これは……ベリアルの」
魔法に愛されし種族の王たる魔王が編み出した、対物理、魔法、害意、悪意、あらゆる干渉を無効化するとんでも無い【結界】。
その強度は言わずもがな。
例え戦術級の魔法を持ってしても小揺るぎもしないだろう。
「私を誰だと思ってる? 魔王の娘よ?」
誇らしく、凛々しく。
毅然と言い放ったソフィアには確かに『王』としての風格が継承されていた。
叶わないな。親子揃って、魔王の系図には。