第五話 小さな戦士
ヒグマは咥えた佐々木の息子の亡骸を飽きたとばかりに、無造作に廊下の隅へと放り投げた。そしてこちらの反応を面白げに見ている。これは完全な挑発だ…
「!!」
「…ターゲット発見。小銃の発砲許可、願います。」
月島は、後ろを見やるとモニター室の背後の影は静かに頷いた。
“許可する”
その瞬間、田中と陸が熊に銃弾が浴びせられる。
「グルオオオオォォッ!!」
数発が命中!熊は怒りの咆哮を上げて一瞬動きを鈍らせるが、致命傷には程遠い。しかも痛みに理性を失ったのかこちらに猛突進してきた。
「全然きかねぇじゃん!」
「20式の5.56mm弾じゃ威力不足だ!分厚い脂肪と筋肉に阻まれて、急所に当てない限り動きを止められない!」
「…じゃあこれは何のためにぶら下げてたんだよ?国は俺たちに丸腰で死ねと?」
そう、自衛隊の銃はあくまで人間を行動不能にし防御するためのもの。熊の肉体相手では命を奪うどころか動きも止められない。
“わかったでしょ。だから命令に従ってすぐ撤退しなさい”
月島の無線が響く。
“もし今、二次被害が起きてあなたたちに何かあれば、この部隊が将来救うはずの何千人の命を犠牲にすることになるの”
田中は月島の言葉に一気にクールダウンする。いや、正確には恐怖で逃げ出したい気持ちを後押しされた…たしかにこの化け物と闘って勝ち目などない。
「神木…団長の言う事も一理ある。ここは一旦引こう…」
だが熊は目の前で、陸に見せつけるように勇と凜の遺体を弄んでいる。まるでその怒れる表情を楽しんでいるようだ…
陸の中で、20年前の光景がフラッシュバックする。両親の無残な死。引きずられていく母の骸。
それが今、目の前で弄ばれる少年と少女の亡骸と重なる。
彼の瞳孔がカッと開き、全身から殺気が立ち上る。
「……その子たちは置いてはいけない!!この場でコイツを殺処分する!!!」
「殺すったってどうやって?」
と、すぐさま陸はコンバットナイフとサンダーを腰から抜き出し両手に構える。
「は?小銃でも歯が立たないのにナイフとスタンガンでどうするつもり…」
「田中。お前、たしか狙撃徽章、付けてたよな?」
「あ?あぁ…」
自衛隊では特定の訓練を受けた人間は、それを証明する徽章なるワッペンのようなものを制服につける。中でも銃での狙撃訓練を修了した人間だけが持つのが狙撃徽章。
「援護射撃を頼む。致命傷は与えられなくてもヤツの注意を引きつけ、一瞬でも動きを止めてくれればいい!」
「無茶言うな…」
「…」
だが無言でそこに慄然と立つ神木陸の背中には、廊下から漏れる光が射し神々しく見えた。この男ならやれるかもしれない…佐々木の子どもたちを奪ったこの化け物に死の制裁を…
田中は恐怖で震えていた手や足の感覚が蘇ってくるのを感じた。
あぁ、これが”希望”ってやつか。神木の過去に何があったか分からない…実際、中身もめちゃくちゃ歪んでやがる…だけど、一つの大正解がココにある。とにかくコイツはめちゃくちゃ強い!!
「ここまできたら…やるしかねぇか!!」
と言うやいなやで、ヒグマは床を蹴って突進してくる。廊下という狭い空間では、その突進力は脅威だ。
陸は迫りくる死の塊に向かって、自らも迎え撃つように走り出した。常人ならば自殺行為だ。だが陸の目には恐怖はない。ただ、燃えるような怒りだけがあった。
「俺が外したらお前も蜂の巣だぞ」
田中は意を決し、神木陸ごしの黒い巨体に冷静に照準を合わせる。
「かまわん!」
「特戦ってのはとことん頭がおかしすぎる!!」
ダンッ!ダンッ!田中はヒグマの脚部や側面を狙い撃ち、その突進をわずかに逸らそうと試みる。数発が掠め、ヒグマの注意を引く。
「グルオオオオォォッ!!」
その一瞬、陸は突進の勢いを殺さず、熊の懐に滑り込むように潜り込み、アゴの下から心臓めがけてナイフを深く突き立てた!確かな手応え。だが…浅い!
「グオッ!」
ヒグマは苦悶の声を上げたものの、止まらない。逆に、その巨大な腕と爪が陸の体を薙ぎ払った。
「がはっ…!」
対獣戦闘服の高強度アラミド繊維の上からでもその爪が食い込み、体は壁に叩きつけられた。肺から空気が押し出される感覚と共に、肋骨が数本、軋む音を立てた。
「神木!まだだ!」
田中が叫ぶ。彼はなおも銃を連射し、ヒグマの顔面付近に弾を集中させ、わずかな時間だが熊の注意を逸らす。
「ダメだ!そいつはとんでもない脂肪と筋肉の鎧をかぶってるんだ!そんな小刀じゃ倒せない!!」田中の悲鳴のような声が響く。
ヒグマは、突き刺さったナイフをものともせず、とどめを刺そうと陸に迫る。
「もう終わりか…」田中は最期を覚悟する。
だが陸は朦朧とする意識の中、最後の力を振り絞る。吹き飛ばされる寸前に手にしていた高電圧スタンデバイス「サンダー」その電源ボタンにかかったままの指。
「フルチャージをお見舞いしてやる…」
サンダーは誤作動による致命的な事故を防ぐため、瞬発で撃てる簡易モードの他に、10秒でフルチャージして放つ必殺モードも備えている。
まさに頭蓋骨ごと噛みつかれそうになったその瞬間…
ピッ!フルチャージ完了を知らせる電子音と共に、陸は田中が作った一瞬の隙を突いて、アゴ下に突き刺さったままのナイフの柄にその渾身のサンダーを押し当てた。
グギャアアアアアアアアアアッ!!
金属のナイフを通じて、高圧電流が直接ヒグマの体内に流れ込む。それは、先ほどのように体表からではなく、内部からの破壊。獣の絶叫とも断末魔ともつかない、耳をつんざくような咆哮が響き渡り、凄まじい痙攣と共に、巨体は床に崩れ落ちた。焦げ臭い匂いが立ち込める。
「とどめだ…」
すぐさま陸は腰のホルスターから9mm拳銃を引き抜き、痙攣するヒグマの眉間に躊躇なく弾丸を撃ち込んだ。ヒグマは二度と動かなかった。
「やった…」田中はその場に崩れ落ちた。
陸は冷静に無線で知らせる「熊を駆除。オールクリア…」
司令部では拍手が巻き起こった。
「月島くん、初陣での勝利おめでとう!」
「87名中、死者3名。部隊には被害なし。上々の結果だな」
「すぐにマスコミ各社に速報打たせます」
そういうと幹部たちはバラバラと姿を消していった。
「…」月島はその姿をどこか空しく見送った。
一方の陸は傷ついた身体を引きずりながら、投げ捨てられた勇と凛の亡骸に近づく。すると服を脱いでかけ、自らと田中の肩から部隊章を外して二人の胸元に置いた。
「その勇気のおかげで多くの命が救われた。感謝と敬意を表して…礼!」