第三十六話 凍てつく海峡
厳冬。
津軽海峡は鉛色の空の下、凍てつく風が海面を叩き、白い飛沫を上げていた。北海道と本州を結ぶ大動脈、青函トンネル。その北海道側の入り口は、降りしきる雪によって視界は白くぼんやりと輪郭を溶かし、重苦しい静寂をたたえていた。だが、その静けさは破られることになる…
けたたましいアラームと共に鉄道会社の管理部からその一報が入った。
「司令部より各局、緊急連絡!青函トンネル内で貨物列車が運行停止!運転士と連絡不能!」
陸上自衛隊東千歳駐屯地、WART(対野生生物脅威対処部隊)司令部。月島七海団長の鋭い声が、緊迫した空気を切り裂いた。
すぐさまミーティングルームに集められたメンバーの前に映るモニターには、トンネル内の監視カメラが捉えた最後の映像が映し出されている。暗闇の中、貨物列車のヘッドライトが巨大な影を照らし出した瞬間、映像はノイズと共に途絶えた。
「影の大きさ、移動速度から推定…ベータ級、あるいはそれ以上の特定個体の可能性が高い!」
報告する隊員の声が震える。
ベータ個体――特定演習区域での激闘の末、取り逃がしたあの悪夢のような存在。いや、それ以上だと?
冬眠もせず、このマイナス20度を下回る厳冬期に山間部を動き回る個体がいるだけでも奇怪なのに、まるで意思を持っているかのようにそれが西進して、ついには日本の大動脈である青函トンネルを狙いうちにしたのだ…
「これって。まさか…本州へ渡るつもりか…?」
誰かが呟いた言葉が、司令部全体に重くのしかかる。
「バカな。熊にそんな意思があるはずがない…そもそもどうして本州の存在を知ってるんだ?」
「意思も知識もなくても、誰かが操っていたら?」
「…」
それはWART、いや、日本全体にとって最悪のシナリオだった。
「今はもしもの話しをしている場合じゃないわ。…総員、第一種戦闘配置!目標は青函トンネル内に侵入した特定個体!コードネーム『ガンマ』と呼称する!絶対に本州へ渡らせるな!」
月島の命令が飛ぶ。彼女の表情には、かつてないほどの覚悟が滲んでいた。
郷田副大臣からのヒステリックな電話は、すぐにかかってきた。
「月島団長!一体どうなっている!なぜ一国の防衛組織がたかが熊ごときにここまで掻き回されてるんだ?」
「申し訳ありません」
「とにかく!いいか、絶対に情報は漏らすな!マスコミにも悟られるな!勘づかれる前に速やかに、静かに処理したまえ!これは命令だ!」
画面越しの郷田は、国民への説明責任よりも、自身の保身と事態の隠蔽しか頭にないようだった。その姿に、月島の胸の中で、ある決意が固まった。
「…了解しました。全力で対処します」
月島は努めて冷静に答えたが、その瞳の奥には、組織の論理に抗う強い光が宿っていた。彼女は傍らに控える水野亜紀研究員に目配せする。水野は静かに頷き、極秘裏に進めていたガンマに関するデータの解析結果と、ある仮説を月島に耳打ちした。熊の異常な進化、そして背後に蠢く何者の意思の可能性…。
「水野さん、例のデータ、いつでも送れるように。そして…彼に連絡を」
「…団長、本気ですか?懲戒では済みませんよ」
「ええ。もう、私たちだけで抱え込める問題ではないわ。国民に真実を知らせ、この狂った状況に政府全体で対処しないと…本当に間に合わなくなる」
月島の声は静かだったが、揺るぎない決意が込められていた。
【青函トンネル】
雪と風が吹きすさぶ青函トンネル北海道側入り口。
重装備に身を固めたWART隊員たちが、重々しい緊張感の中、突入準備を進めていた。先頭に立つのは、神木陸と田中健太。そして、ドローン操縦士、風間豪三等陸曹だ。
「ったく、学校に工場に森と雪山と来て…今度は海の底かよ。マリオもびっくりだぜ」
田中が吐き捨てるように言った。彼の顔にはいつもの軽口とは裏腹に、隠しきれない緊張が浮かんでいる。
「冗談を言ってる場合か。相手はベータ以上かもしれん」
陸は冷静に装備を最終チェックしながら応じた。彼の瞳は、トンネルの暗い深淵を真っ直ぐに見据えている。トラウマが蘇らないといえば嘘になる。だが、今はそれを乗り越え、使命を果たすしかない。
でなければ…脅威は本州に及ぶ。
「まあまあ。どんな場所でも、やることは同じですよ。それにこいつらがいれば、暗闇だろうが、狭い通路だろうが、敵の姿を捉えられます。陸さんと田中さんの負担を少しでも減らせるように、全力を尽くしますよ」
隣で、風間が穏やかな笑みを浮かべて言った。厳しい闘いの中で度胸がついたのだろうか、田中よりも落ち着いて見えるが、その手元で精密に調整されている最新鋭の偵察・攻撃ドローンを触る手元は小刻みに震えている。
「突入5分前!」
号令がかかる。陸、田中、風間の3名を先頭とする突入チームは、暗視ゴーグルを被り、坑口前に整列した。背後では、トンネルが完全に封鎖され、外部からの侵入・脱出は不可能となっている。まさに、鉄の檻。
「よし、行くぞ」
陸の短い号令と共に、隊員たちは重い金属製の扉を開け、青函トンネルの暗闇へと足を踏み入れた。ひんやりとした湿った空気、壁に反響する自分たちの足音、そして深淵へと続くレールの鈍い光。
全長53.85キロメートル、海面下240メートルに穿たれた鋼鉄の迷宮での、未知の敵との死闘が始まろうとしていた。




