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第十八話 森の賢者

WARTの前線指揮所として支笏湖畔に設営された大型テント。

そこに一人の老人が招かれていた。月島七海の強い要請で特別アドバイザーとして参加することになった狩野五郎、道内猟友会でも伝説的な猟師だ。深い皺の刻まれた顔、細く鋭い眼光。最新鋭の装備が並ぶ指揮所の中で、使い込まれた猟銃と山刀だけを携えた彼は、異質な存在感を放っていた。


「…ふん、こんな鉄の塊で、森の声が聞こえるのかね」


狩野は、風間が調整している偵察ドローンを一瞥し、静かに呟いた。


「森の声…?」


その異様な圧に風間は首をすくめる。それに対して、佐々木が少しむっとして答える。


「我々の装備は、効率的かつ安全に任務を遂行するために最適化されています」


「効率ね。お前らにとっちゃ熊は駆除対象の『害獣』かもしれんが、この地域では代々、山の主として崇められてきたことを忘れちゃならん」


佐々木の熊への憎しみを見据えたように呟く。


「森には森の掟がある。それを忘れた人間が、どうなるか…」


田中は小声で陸に囁く。「団長もやりづれぇもうろくジジイ連れてきやがって」


ピピピ!!


その時、道警より緊急連絡が入る。特定演習区域の境界に近いポロピナイ地区の集落周辺で熊の襲撃があったという。現場の状況から、アルファたちのような組織的な襲撃ではなく、単独の個体による異常なまでの破壊力を持った犯行と推測された。


「アルファとは別種の特定個体?」報告を聞いた月島は戦慄する。


“WART出動”


隊員と老練な猟師の間に埋めがたい深い溝が残ったまま、熊の掃討作戦は開始された。


陸、田中、佐々木を含む第一小隊が車両で急行。狩野も、自らの古い四輪駆動車で同行を申し出た。その間も、月島からの無線が入る。


“行動パターンや体長などの特徴から、亜種や先日の特定個体アルファとは別種と考えられる。今後はこれを『ベータ』と仮称する”


目撃のあったエリアで車を降りると、陸は狩野の警護として山の中を捜索、その他の隊員は横一線となりローラー作戦で前線を押し上げていく。


だが支笏湖周辺の山の深部は、狩野の警告通り、WARTにとって悪夢の舞台となった。


「ちくしょう! どこにいるんだ、化け物め!」


「…これどっちに向かってるんだ…?」


樹齢数百年の巨木が空を覆い、昼なお暗い森は方向感覚を狂わせる。さらに降り続く冷たい雨と立ち込める霧が視界を奪い、それが隊員たちの“死への感覚”を増幅させた。


「はぁ…はぁ…はぁ…!!!」


コン!!


「はぁああ!!!」


振り向くとそこには何てことない。ただキツツキが幹を叩く音だった。


「変な声だすなよ、ビビりすぎだ!!」


「ビビってなんかねぇよ!」


パキン!


「うわぁ!」


「お前こそビビってんじゃねぇか」


どこからともなく聞こえる枝の折れる音、木々をすれる風切り音ですら熊の足音や低い唸り声に聞こえる。


内臓から湧きあがる恐怖心…

人を最もパニックに陥らせるのは“相手が見えない状態での恐怖”だ。暗い森…立ちはだかる藪…深い霧…その先に待つかも知れない死の匂い…見えないからこそ人は想像力を刺激され、その影を増幅させてしまう。


そして自らが生み出した影に飲み込まれ、それを無意識に人から人へと伝播させ、ついには集団全体の判断力を奪っていく。


「ああああ!!!!」


「うるせぇよ!熊に聞こえんだろ!!」


「はぁ…はぁ…はぁ…おい!風間!ドローンは!?」


「周囲5キロに渡って調べていますが、それらしき影は見つかりません。」


「チッ、肝心な時に役に立たねぇな」


風間はドローンで必死に捜索するが深い木々や藪、さらに霧などが邪魔して光学カメラはおろかサーモ機能も機能しない。


「おい、集中力を切らすな」


半ばパニック状態の部隊においても、佐々木だけは妙に落ち着いていた。いや、正確に言うと彼に恐怖という感情が欠落していた

…なぜなら死を怖れていないからだ。子どもたちの苦しみを出来るだけたくさんの熊に味あわせる…そのために死ねるなら本望だ。


一方、本隊から少し遅れ、側面を進んでいた神木陸は、先を行く老猟師・狩野の奇妙な動きに気づいた。狩野は、隊員たちが気にも留めないような地面の窪みや、木の幹、湿った落ち葉などを、時折立ち止まっては、注意深く観察している。まるで、森が発する微かな声に耳を澄ませているかのようだ。


陸は、狩野に静かに近づいた。


「狩野さん、それは…何をしているんですか?」


すると老猟師は地面に残された泥濘の中のわずかな窪みを指差した。


「これか?これは熊の足跡だ。それもかなり新しい」


「足跡…ですか?」陸は目を凝らすが、雨で崩れかけた泥の中のそれは、彼にはただの窪みにしか見えない。


「よく見ろ」狩野はしゃがみ込み、指で跡の輪郭をなぞる。


「この大きさ、爪の跡の深さ…おそらく若い雄だな。だが、歩き方がおかしい。普通、移動する時の熊の歩幅はもっと一定だ。こいつは、何かを探しているか、あるいは…何かから逃げているのかもしれん」


狩野はさらに、近くの木の幹に残る生々しい爪痕を指し示した。


「これは縄張りの印だが、高さと角度が妙だ。普通のヒグマならもっと高い位置につけるはずだが…それにこの傷の深さ。まるで、苛立っているかのように、無駄に力を込めて引っ掻いている」


狩野は立ち上がり、風向きが変わった瞬間に鼻をひくつかせた。


「風下に、微かに血の匂いが混じっている。それも熊自身の血じゃない…鹿か? いや…もっと小さい動物かもしれん。そして、この湿った土の匂い…雨の匂いとは違う、熊特有の体臭がまだ強く残っている。半刻も経っていないだろう」


足跡、爪痕、糞の状態、風に乗る匂い、周囲の小動物や鳥の気配…。狩野は、五感を最大限に使い、森が発する膨大な情報を読み解いていく。その姿は、陸にとって衝撃的だった。


ハイテク装備に頼るWARTの戦術とは全く異なる、自然と一体化したような索敵術。それは、幼い頃に父から聞かされた、山と共に生きる者の知恵そのものだった。陸はいつしか父の姿を狩野に重ね合わせ、深い敬意を込めて貪欲に質問を重ね始めた。


「すごい…そんなことまで分かるんですね」


「当たり前だ。山で生きるってのは、こういうことだ。目だけじゃなく、耳で、鼻で、肌で、森の声を聞くんだ」


陸の真剣な眼差しと、知識への渇望を見て、狩野は口元に微かな笑みを浮かべた。


「…ほう、お前さんは見込みがあるな。その若さで、これほど『聞く』耳を持っている奴は珍しい」


狩野は、陸を傍らに呼び寄せ、さらに深く、実践的な山の知恵を教え始めた。風の流れを読み、遠くの鳥の声の変化から危険を察知する方法。植物の不自然な揺れや食痕から、獲物の種類や移動方向を推測する技術。夜間の星の位置や月の満ち欠けで方角を知る術…。それは、長年の経験と研ぎ澄まされた感覚によってのみ到達できる、まさに「生きた知恵」だった。


陸は、狩野の言葉を一言一句聞き漏らすまいと、全神経を集中させた。それは、彼が自衛隊で学んできたレンジャー戦術とは全く異質でありながら、より合理的で実践的なものにも感じられた。

一通り語り終えた狩野は、ふと表情を曇らせ、雨に煙る森の奥を鋭く見つめた。


「だがな、陸…気をつけろ」


「…?」


「この森は、もう俺たちが知っている森じゃないかもしれん。何かがおかしい…。森の呼吸が、以前とは変わっちまったようだ」


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