表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

第一話 咆哮

東北の山々は、初夏の緑に萌えていた。空気は澄み渡り、木漏れ日が地面に柔らかな模様を描く。リンリン…熊鈴の音を鳴らし、七歳の神木陸は、父と母に導かれ、ぜんまいやワラビを探していた。


「あら、陸。見つけるのうまくなったね。」


「へへ、だろ?」


籠の中には、山の恵みが少しずつ溜まっていく。父の朴訥な笑顔、母の優しい声。


陸にとって、それは世界のすべてだった。


「さぁ、そろそろ行こうか。日も傾いてきたし熊が出るといけねぇ」


不意に風向きが変わった。どこからともなく生臭い獣の匂いを運んでくる。ザワリ、と笹の葉が揺れる音。空気が一瞬で張り詰めた。


「…静かに。」


父が低い声で呟き、陸と母を背後にかばいながら身をかがめた。


暗い茂みの奥から、黒い塊がぬぅっと姿を現した。まだ幼い子熊だ。好奇心に満ちた丸い瞳が、陸たちをジッと見ている。


「落ち着いて、刺激しないように。」


父は冷静だった。腰に下げた熊避けの爆竹に手を伸ばし、火をつける。パンッ!パンッ!と乾いた破裂音が山に響く。子熊は驚いたように身をすくめ、慌てて森の奥へと駆け戻っていった。


「よし、今のうちに車へ!」


父が叫ぶと、陸は手を引かれる。母も必死で後を追う。安堵しかけた、その瞬間だった。


車の陰、完全な死角から、巨大な黒い影が躍り出た。子熊の数倍はあろうかという母熊だ。怒りに燃える赤い目が、母を捉えていた。


「うわぁっ!」


母の短い悲鳴。次の瞬間、母熊の巨大な前足が一閃し、母の体は紙屑のように吹き飛んだ。分厚い爪が肉を裂き、鮮血が緑の葉を赤黒く染める。


「貴様ッ!」


父は鉈を手に母熊に飛びかかろうとした。だが、父の抵抗はあまりにも無力だった。その獣はまるで悪魔のような凶暴性を剥き出しにして二度、三度と爪を振るうと、父の体を原型も留めないほどに破壊した。


静寂が訪れる。血の匂いと、母熊の荒い息遣いだけが支配する空間。母熊は、ゆっくりと陸の方を向いた。その口元は赤く濡れている。陸は、足がすくんで動けなかった。恐怖が全身を凍らせ、声も出ない。死んだ両親の無残な姿が目に焼き付く。


その距離わずか5m…ただ、熊と睨み合う。その真っ黒な眼球の奥に映るのは…生きる意思のない人形のような顔をした自分。まるで亡霊だ。絶望的な時間が流れる。


喰われる!そう思った瞬間、母熊はふいと顔を背け、森の奥から戻ってきた子熊を促すと、母親の咥えて遺体をひきずりながら藪の中へと消えていった。なぜ、見逃されたのか…


「うわああああああああああ!」


後に残されたのは、あまりに過酷な現実。


「母さんを!母さんを返せ!!!」


広い山に、陸の慟哭だけが響き渡った。返り血を浴びた小さな体は震え続けていた。


どうせなら、俺も殺してくれればよかったのに…




20年の歳月が流れた。


テレビの液晶画面には、険しい表情でマイクを突きつけられる猟友会の支部長の姿が映し出されている。


『…ですから、現状の補償額では、我々もご協力できません。だって出動して8000円ですよ?日給8000円で命張れますか?それなのに自治体は、ただ駆除しろの一点張りで…』


『警察に頼まれて熊を仕留めたら、公安委員会から狩猟免許取りあげですって…そりゃ無茶苦茶でしょ?』


高齢化と後継者不足に喘ぐ猟友会。危険な熊の駆除を、半ばボランティアのように押し付けられ、その構造的な歪みは限界に達していた。財政難に喘ぐ自治体は住民からの突き上げに右往左往するばかりで、有効な対策を打ち出せずにいる。スタジオではコメンテーターが神妙な顔で語る。


『特に北海道の状況は深刻です。道東や道北だけでなく、今年は札幌近郊にまで、これまでにない規模と頻度でヒグマが出没しています。専門家によれば、その個体群は異常な繁殖力と、人間を恐れない、あるいは学習して罠を避けるような高い知性を持っている可能性が指摘されており…』


かつて陸が遭遇した本州のツキノワグマとは比較にならない、遥かに巨大で獰猛なヒグマ。その脅威が日本の北の大地を覆い尽くそうとしていた。OSO18と呼称された前代未聞の被害をもたらした特殊なヒグマの事例はまだ記憶に新しいが、現在の状況はそれを遥かに凌駕する危機だ。


ニュースキャスターがモニターを前に伝える。


『…こうした状況を受け、政府は本日、陸上自衛隊に特殊部隊を新設し、この異常事態に超法規的に対処することを決定しました。部隊の名称は…』




陸は、真新しい迷彩服に身を包み、整列していた。集団の中でも華奢な体格ながら鍛え上げられた体。背筋をシャンと伸ばし一点を見つめるその瞳には、20年前の恐怖と憎しみが静かに燃えている。ここは、陸上自衛隊東千歳駐屯地の一角。新たに発足した部隊の隊舎前だ。肩の部隊章には、牙を剥く熊のシルエットと、それと交差するライフルがデザインされている。


部隊の名は「陸上自衛隊 北部方面隊隷下 野生動物危険対策班」


通称WART - Wild Animal Response Team


その列の後方に立つ田中健太三等陸曹が、隣に立つ佐々木を肘で突っつく。


「おい、佐々木。聞いたか?やっぱりこれ、総理の支持率アップ狙いのパフォーマンスだって話だぜ。」


「まぁ、肝いりの経済対策が振るわずじまいだからな。」


「にしても国防が本業の俺たちが、なんで熊退治なんだよ。災害派遣だけでも手一杯だってのに。」


「…人間と熊相手じゃ武器も戦い方も全然違うんだがな。」


「そうなんだよ~これだから素人は…自衛隊を銃と重機を持った便利屋だと思ってやがる」


工科学校からの同期である田中は軽口を叩くが、その顔には緊張の色も浮かんでいる。


「それにしても、不思議なのが…」


佐々木は、最前列で自衛隊らしからぬスーツ姿に身を包み真剣な表情で立つ若き女性職員、月島七海に目を移す。


「あの女団長、なんでも情報本部のエースらしい。」


情報本部とは、国内外のテロ組織やスパイ、敵対国の情報を収集する自衛隊内の諜報組織だ。


「なんで熊退治に情報本部が?」


「さぁ…?」


防衛大臣が入ると、一同は一斉に起立する。


陸は、発足式の代表者として挨拶する月島七海の姿を見つめる。


「国家のために誠心誠意、迫る新たな国難に立ち向かいます…」


情報本部か…そんな人物が単なる「熊退治」の長に就くとは考えにくい。月島の美しくも鋭い視線が、整列する隊員一人一人を射抜くように見据える。その目は、ただの獣ではなく明確な「敵」を捉えているようだった。


もしかすると田中の言う政府のパフォーマンス以上の何かがこの部隊創設の裏には隠されているのかもしれない。




そして、その報せは、発足式の興奮も冷めやらぬうちに飛び込んできた。


『緊急連絡!千歳市藤野地区の市立藤野南小学校に、複数のヒグマが侵入!校舎内に生徒・教職員多数!』

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ