第五十二話 勝利宣言
息が切れても走った。通りには警察が張っているだろう。俺は路地という路地を抜けて、走り続けた。何処に逃げれば良い? 何処を目的にすれば良い? そんな事は分からない。せめて、事務所ビルの近くから早く去らなければならない。出来れば東京から出たい。そうすれば、多少の時間は稼げるだろう。
この世界の警察が優秀なのでは無い。日本の警察が特別に優秀なのでも無い。警察の手から絶対に逃れられないのは、他所から来た奴らが授けたテクノロジーのせいだ。
支出は全て個人のデータとして、国に一括管理されている。買い物一つ取っても、何処で何を買ったかが記録されるから、直ぐに居場所が特定される。だから、盗みや強盗などの犯罪をしても、直ぐに捕まってしまう。
それこそ、タクシーを使って逃げるなんて悪手だ。タクシー代を払った瞬間に居場所が特定される。車を盗んで逃げても同じ事だ。資産が管理されているんだから、車を盗んだ時点で居場所がバレる。仮に上手く行っても、空路は管理されているから走っている場所が丸わかりだ。
それは収入も同じだ。全て管理されていて、税金は勝手に計算されて口座から引き落とされる。誰がどの位の資産を持っているかもデータ化されているから、仮に口座に資金が無くても強制的に徴収は行われる。無論、脱税なんかは不可能だ。
彼らが持ち込んだのは、完全なるデータの管理。ルールさえ守れば、安心に暮らせる社会。それは、安心を与えるのと同時に、完璧な支配構造を生み出した。上級国民と呼ばれる裕福な人間でさえも、国に支配されている。
本当の自由なんて、この世界には無い。
それを本来の形に戻す為に抗っていたはずだ。それなのに何故、こんな事になっている。逃げるなんて真似をしなければならない。上手くやっていたはずだ。
全てデジタルだからこそ、アナログのやり方が有効だった。データを改竄し資金を集めた。何故、それを寄付なんて形でばら撒かなければならない。何故、それを是としなければならない。
冗談じゃない。私だけでも抗ってみせる。そうでなくては、上に報告のしようが無い。失敗の烙印を二度も押され、役立たず扱いされる。そんな事になって良いはずが無い。
同胞は捕まったはずだ。そこから集めた資金が全て徴収されるはずだ。本来ならば使い様が無い現金であってもだ。俺が事務所から逃げた事は、とっくにばれているだろう。
下手な事をすれば、警察に居場所を知らせる事になる。誰かに連絡する事は出来ない。助けを呼ぶ事も出来ない。出来損ないの肉体を使って走るしかない。
諦めてしまおうか。そんな考えが頭を過る。駄目だ、俺はこの肉体に引っ張られている。運が良いのは、上級国民たちの多くが他人に関心を示さない事だ。勿論、そうでない上級国民も存在するんだろう。しかし、こうやって滝の様な汗をかきながら走っていても、振り返ったり凝視したりするのは、ほんのごく一部でしかない。
だから、逃げられる。まだ、終わってない。そう自分に言い聞かせた。
警察の手が届かない所は知っている。それは地上だ。搾り取られるだけ搾り取って、後は管理すらされない無法地帯。そこに行くことが出来れば、逃げ伸びる可能性は高まる。
しかし、それも問題が有る。
それはゲートの存在だ。あそこを通らない限りは、地上に下りる事が出来ない。上空側も地上側も、最も警戒が厳重な場所だ。そこを無事に通り過ぎる方法なんて存在しない。今の俺は、指名手配になっていてもおかしくはないのだから。
息が続かない。でも、立ち止まる事は出来ない。そんな中で一筋の光明が見えた気がした。通りの先で手招きをしている人間が居る。もしかすると、助けてくれるのかも知れない。
こんな事を考えるのは、我ながらどうかしていると思う。しかし、それに一縷の望みを託して走り続けた。
手招きしているのは少女だった。見た事が有る気がする少女、何処で見たのかは思い出せない。
「良く来たな。ここまで来れば安心だ?」
こんな少女に頼らなければならないとは、俺も落ちぶれたものだ。しかし、こんな状況だ。藁にも縋る思いで、俺は頭を下げる。
「詳しい事は聞くな。俺をここから逃がしてくれ」
頭を下げたまま、縋りつく様に懇願する。少女は黙ったまま。そして、俺は少し頭を上げて少女を見る。少女はニヤリと笑っていた。その笑顔を見た瞬間に、身体へ戦慄が走ったのが分かる。
「良いだろう。逃がしてやる。但し、お前を矯正してからだ」
「な、何を言っている?」
聞き間違いじゃ無ければ矯正と言ったか? この少女は俺に何をする気だ? スマホを手にして無い所を見ると、警察に通報するつもりは無いらしい。
「どうやら、薬の効きが悪かった様だな」
薬? 本当に何を言っている? そもそもこの少女は何者だ? 俺は本当にこんな少女を頼ってしまって良かったのか?
いや、駄目だ。今なら間に合う。結局は、自分自身で何とかするしかないんだ。それ以外に状況を打破する方法は無いんだ。
この少女を振り払って走りだそう。そう考えた瞬間だった。背後に誰かが近寄った気がした。そう思った時には遅かった。押し倒されて後ろ手に拘束される。身動きが取れない。俺にこんな事をしたのは、どこのどいつだ? 警察ではあるまい?
「理事さん、僕を覚えてます?」
覚えてるも何も、声しか分からない。ただ、最近聞いた気がする声だ。
「さっき会ったばっかですしね」
「ま、まさか! 道明寺海か?」
「そうですよ。さっきは、馬鹿だとか何だとか散々な事を言ってくれましたね?」
道明寺海がどうしてここに? どうして俺を拘束している? 何故だ? 理解が出来ない。誰か教えてくれ。
「状況が分かってない様ですから教えてあげますよ」
「な、何を?」
「僕たちは、あなたを待ち伏せしてたんですよ。こっちに逃げて来るって情報が有ったんでね」
「待ち伏せ? 情報?」
「まだ分かってないようですね。あなたが洗脳した職員さんやボランティアさんは、全員洗脳を解除してますよ」
「はぁ?」
「勿論、あの時の僕も洗脳に掛かってません」
「な、なんだと!」
「それで、ここから僕たちのターンって訳です」
「ま、待て! 待ってくれ!」
「待たんよ。矯正すると言ったろ?」
少女の声が聞こえた瞬間だった。何かを噴射する音が僅かに聞こえた。それから直ぐに、俺の頭には妙な声が聞こえて来た。「資産を手放せ」、「全てを投げ出せ」、頭の中でそう語りかけて来る。その声に抗おうとしても、抗う事が出来ない。
これなのか。同胞がおかしくなった原因は――。
そう感じた時、もう引き返せない所まで来たのを理解した。俺は憑依を解いた。精神体に戻ると良く分かる。少女と道明寺海が笑っているのを。同時に思い出した。この少女の事を。
確か、アルファに見せられた資料に顔写真が載っていた。あれが道明寺翠嵐か。確か二十歳を超えていたはずだが、見た目は少女そのものではないか。騙された。いや、違うな。分かって無かっただけだ。道明寺翠嵐の恐ろしさを。
「これで完全勝利だね。姉さん?」
「あぁ、これで終わりだ」
今は笑っているが良い。いつか、この借りは返す。絶対にだ。




