ep2の続き
ロージー・“スノウ”・グレイス博士のEV車椅子に寄り添って、私がまだ名前も知らない女の子は、しずしずと都心の公園内を練り歩く。その振る舞いと仕草のなんと優雅なことだろう。昨日私とパントマイムで競い合い、軽口を叩き合った小さな女の子とは思えない。それほど一挙に大人びて見えたのだ。
公園内には円形の花壇が点在していた。かつては色とりどりの花々で溢れ返り、街並みを飾った花壇だった。いまでは人の手が及ばず、雑多な植物が伸び放題の草むらと化している。
あるべきところで咲いているはずの花が、ない。それだけで風景はなんとも言いようがなく、侘しい眺めになった。けれどもロージー博士と女の子は苦にする風もなく、草むらと低木が絡み合って鬱蒼と茂る花壇のひとつに近づいた。ロージー博士の震える指が差した方角に向かって、女の子が動く。精一杯手を伸ばし、藪の中からなにかを摘まみ取る。
木の実を摘んでいるらしいと思ったとき、女の子は私に気づいて懐っこく微笑みかけ、手を振ってくれた。その一瞬だけは昨日と同じ、『ロージー・“スノウ”・グレイス博士の小さな女の子』の笑顔に戻った。しかしその後は私を見向きもせずに、EV車椅子から放たれる指示に従い、わき目も振らずに木の実を摘んでいる。いかにも忠実な従者のように。
公園内には他にも数人ほど、そぞろ歩くホームの居住者たちがいた。EV車椅子に乗っている者、杖を支えに自力で歩く者、連れの子どもの肩を借りている者。思い思いのやり方で、軽い運動と日光浴を楽しんでいる。平穏で、のどかなひとときの風景だった。
しかし私はふいに、気づいた。実はそれが、異様な眺めであることに。
高齢のホーム居住者たちを支え、忠実に付き従っている介護者たちは皆が皆、ひとりの例外もなく子どもだった。それもことごとく、十歳前後に見える小さな子どもだ。なんとも言いようのない衝撃だった。私は言葉を失い、しばし絶句した。
官舎と前線の間を往復するだけの単調な日々を送って来た兵士の私は、子どもというものに最も疎い部類の大人だった。直に接する機会はまずないが、それでも私なりに、子ども時代の自分を思い出すことは出来た。分別などカケラも知らず、大人たちの手を焼かせるばかりのストリートボーイ。それが子ども時代の私だった。
杖をついた老人のもう一方の手を曳いて、そろりそろりと歩く小さな男の子が私の目を引いた。二人の歩みはのろく、なかなか前へ進まない。老人の脚が、思うように動かせないからだった。
それでも真剣な面持ちの男の子は、辛抱強く老人を支え、歩行を助けようとしている。苛立ったのは老人の方だ。いきなり思いがけない激しさで、老人の杖が男の子のふくらはぎを打った。男の子は前かがみの姿勢でつんのめり、地面に投げ出された。
駆け寄ろうとした私の上着の裾を、ロージー博士の女の子が掴んだ。思いがけない素早さと力強さで、私の腕にしがみつく。そのまま持ち上げることもできたが、そうはせずに言い聞かせることにした。
「あの子は怪我したかも知れない。確かめなくては。手を離しなさい」
しかし女の子は激しく首を振り、私の腕に全体重をかけて引き留めようとする。
「いいの。大丈夫だから。あっちに行かないで。こっちへ来て」
見れば男の子は、案外身軽にひょいと立ち上がった。土に汚れて擦り傷も負ったらしい両手の平で、ふたつの膝小僧をパンパンと軽く払った。まるで何事もなかったかのように、老人の手を元通りに握った。擦り傷を負ったはずの子どもの手に、老人の半身が寄りかかった。なんら躊躇いもなく、当然の対価を受け取るような態度だ。
呆然とする私を、ロージー・“スノウ”・グレイス博士が手招きした。EV車椅子の中で、関節炎によって枯れ枝になった指がかすかに蠢いた。それを見て取った女の子は、ロージー博士と私に背を向け、花壇の向こう側へ移動した。まるで、召し使いが自発的に下がるような従順さだが、話し声がまったく聴こえないほどの離れ方ではなかった。
「あなたは国防軍の現役大佐なのね?」
ロージー博士は私の軍服の階級章を読んで、さらりと言ってのけた。もはや、誤魔化しと言い逃れが通用する段階ではないと思った。私は腹をくくり、敬礼して名乗った。
「国防軍情報部所属、マシュウ・ブレイク大佐であります」
「わたくしはロージー・“スノウ”・グレイス博士です。やっとお目に掛かれましたね、マシュウ・ブレイク大佐。テルミーからあなたのことを聞きましたが、どう考えてもこのホームに軍服の警備員など必要ありません。あなたをここへ寄越したのは、だれですか?」
「お答えできません」
「そうでしょうとも。ペラペラお喋りするような人物じゃ、大佐にもスパイにもふさわしくないわ。たとえ、こんなポンコツな政府でも」
直球の皮肉を食らってたじろいだが、その意見には共感できた。
「ところで。先ほどの老人の振る舞いをご覧になりましたか?」
「見ましたよ。けれど、どうとも思いません。あなたもそうしたほうがいいわ。あの老人に見覚えなかった?前の前の、国防大臣ですよ」
言われてみれば、確かに見覚えのある顔だった。猛禽類のような、下向きに尖った長い鉤鼻。酷薄そうな薄いグレーの瞳。肉づきの薄い骨格に張りついた皺だらけの皮膚。幾度か戦争責任の有無を問われ、売国奴と罵られた人物だったが、結局はこうして安全且つ快適な老人ホームに落ち着き、余生を過ごしている。そうして、年齢を重ねてもなお一向に枯れない横暴さを子ども相手に発揮しているのだ。
「大佐、動いて。車椅子に手を添えて、歩きましょう、テルミーも」
ロージー博士の警告に従い、私はゆっくりと車椅子を押すふりをした。脇の小道をホームのスタッフらしき一団が、足音高く小走りで通り過ぎた。急いでいるが決して慌ててはいないと、喧伝するような小走りだ。
テルミーと呼ばれた女の子が、摘んだ木の実で膨らんだ布袋をロージー博士に見せた。得意満面の笑顔だ。私はロージー博士に尋ねた。
「それは、なんの実ですか?」
「ベリーをいくつか交配して、新種を作ったの。まだ実験段階ですけど」
「ロージー博士が作ったから、ロージーベリー。美味しいのよ」
私は驚きを押し隠し、さり気なく女の子に訊いた。
「実験段階なのに、食べちゃったのかい?お腹痛くならなかった?」
「平気。だってロージー博士が食べていいって、言ったんだもん」
私は車椅子の中に、チラと非難の目を向けた。そこの住人は悪びれたふうもなく、あっさりと認めた。
「その通りですよ。残念なことに、わたくしの身体はこの有り様ですからね。実際に交配の作業をして新種をつくったのは、テルミーですもの。食べてみたいなら一番にそうする権利が、この子にはありますのよ」
全面的には同感出来ない言い分だった。ハッキリ言えば屁理屈だと思ったが、ここで自らの意見を主張することは私の職分じゃないと、呑み込んだ。
ロージー博士は車椅子の日除けを下ろして閉じこもり、微睡んでいる。と、見せかけてその脳内はフル回転で、創造と考察と検証が実行されているのかも知れない。稼働中のスーパーコンピューターのように。
私のような身体を動かして初めて頭も回転を始めるタイプの人間には、見当もつかない感覚だ。せめてその繊細な意識の流動を妨げまいと、私は車椅子のハンドルを掴んだ手を緩め、我が身を風下に移した。
テルミーと呼ばれた女の子は、それでいいわと言うように肯き、真摯なまなざしで私を見上げた。陽射しを受けた茶色の瞳がゴールドに輝いた。思わず息を呑むほどの美しさだ。この子は美しいと初めて気づき、密かにうろたえた。
私を見上げた真摯なまなざしが、もの問いたげに揺らいだ。言いにくいけれど、ぜひ聞いてほしいことがある。まなざしの揺らぎが打ち明ける。言ってごらん。私は頷きで促す。女の子は声をひそめた。
「あのね。ロージー博士はあたしのことをテルミーって呼んだでしょ。もうじき国民局に出す届けの用紙にも書いて、正式にあたしの名前をテルミーにしてくれるのよ」
それを聞いて大まかな事情がわかった。おそらく女の子は、出自不明の被災孤児だ。自分の名前や年齢や両親について、なにひとつ申告できない状態なのだろう。苛酷な体験をくぐり抜けてきたはずだが、なにはともあれ、こうして生き延びた。確率的には、かなり幸運な子どもだと言える。
ロージー・“スノウ”・グレイス博士の保護児童となって生活を共にし、まもなく一年の預かり期間が満了するのだろう。ロージー・“スノウ”・グレイス博士はこの子をテルミーと名付けて自分の姓を与え、家族になったことを国民局に届け出るつもりでいるのだ。
それにしても、女の子は浮かない顔つきだった。少しもうれしそうな様子が見られない。ふと、思い浮かんだことが口をついて出た。
「ひょっとしたらキミは、テルミーという名前が好きじゃないのかい?」
「だってね。それって、ロージー博士がよくひとりごとで言ってる口癖なんだもの。テルミーナンチャララ。アタマの中にいる考えゴトの神様に、お願いするみたいな感じで。テルミーもっとイケてる答えを、って」
むしろ私には、テルミーの甘ったるい語感と、鋭角的なまなざしを持つ女の子の印象との間に、相反するものがあるように感じられた。これもまた、拭いきれない違和感のひとつだった。
ならば、この子に似つかわしい名前とはなんだろう。私は女の子と一緒になって考えた。『考えゴトの神様』から連想が働き、アジアの戦う女神の名が思い浮かんだ。当時の私は、骨の髄まで軍人だったのだ。
「カーリーというのはどうだい?戦争が得意で強い神様の名前だけど、キミに似合ってるんじゃないかな」
「カーリー。その神様って、ヒトゴロシが得意なの?」
「まあそうだな。戦争の神様だから。気になるかい?」
つい軽口が過ぎてしまったかと、不安がよぎった。なにしろ、カーリー神について深い知識はなく、うろ覚えだったのだ。
「カーリーって、あたしはわりと好きだけど。ロージー博士がいいと思ってくれるかどうか、わかんないわ」
私は乗り掛かった舟の勢いで、女の子を安心させたい一心だった。
「どっちかひとつに決めなくても、いいんじゃないかな。いっそのこと欲張って、両方つけてもらったらどうだい?テルミー・カーリー・“スノウ”・グレイス。少し長いけど、これならきっとOKだと思うよ」
ロージー・“スノウ”・グレイス博士の正式な家族になりたい。けれども、テルミーという名前は受け入れられない。そのことが、あの子にとってはいかに深い悩みだったかを、思い知らされたエピソードだ。
あの子はそれ以来、カーリー・スノウと名乗った。括り“”ナシのスノウだ。ロージー博士との間でどんな話し合いがなされたのか、私は知らない。ただ、私の提案したカーリーという名をあの子は気に入り、名乗ることにした。それによって図らずも、私は名付け親になったわけだが、当人にそんな意識はなかった。名付け親という概念さえ知らないようだった。私としては、むしろそれでよかった。
ロージー博士は委細構わず、あの子をテルミーと呼び続けた。まるで、二人だけの間に通じる符牒のように。他人が聞いていようといまいと、お構いなしだった。反面、カーリーという名を提案した私に対しても、一切の苦言を呈しなかった。説明も感想もなかった。ロージー博士のその態度を、私は許容と解釈した。
カーリーが話してくれたのは、括り“”つきスノウの由来だった。
ロージー博士は研究生だった時代から、“飛来物”に深い関心があった。たとえば、偏西風に乗って大陸から吹き寄せる黄砂や微生物。それよりもっと、高い天空から降り注ぐ塵芥と放射線。あるいは、打ち捨てられた都市の瓦礫から湧き出して漂う化学物質。それらは縦横無尽に混じり合い、上昇して雲を形成し、やがては雨や雪に姿を変えて地表に降り注ぐ。いや、もうすでに降り積もり、地中に浸透しているのだ、等々。
ロージー博士の仮説の提唱ぶりは熱意に溢れ過ぎている。それよりなにより、内容が突飛に過ぎるので受け入れがたい。まったくもって困りものだ。同世代の研究者仲間はひそかに嘲笑い、ささやき合った。
環境学の権威でもある環境省長官は、メディアの耳目を引き寄せた上で、未熟な一生物学者のトンデモ仮説を笑い飛ばし、一蹴した。曰く、どうやらグレイス博士の周りだけ、尋常でない“スノウ”が年中降っているらしい。けれども私の研究チームが得た結論はもちろん、そんなことが起こっている事実はない、その一語に尽きるのです、云々。
かくも容赦なく揶揄されたグレイス博士はどうしたか。
それ以来、自分のサインにミドルネームとして、括り“”つきのスノウを加えるようになった。ロージー・“スノウ”・グレイス博士と、少々長たらしい名前をいちいち名乗り、それによって忘れっぽいメディアと同業者たちに、自分が例のミス・“飛来物”研究者であることをアピールし、思い出させたのだった。
『だってね』
カーリーは背伸びをして私の耳もとにささやいた。
『“スノウ”を探したり集めたりしたのはあたしだもの、ロージー博士の代わりに』
カーリーはこっそりと、私だけに打ち明けた。
『それだけじゃなくて、標本を分析機器にかけたり、結果のデータをAIに読み込ませてまとめたりしたよ。そうやって出来上がった論文にロージー博士のサインを書いたの、筆ペンで。だけどこのことは、内緒にしなくちゃいけないって、ロージー博士は言うの。でもね、大佐はカーリーって名前をくれた人だから、トクベツ。ヒミツ守ってくれるよね?』
私は思わず周囲を見まわした。散策する高齢者と介護スタッフのペアが何組か、そぞろ歩いているほかに人影はなかった。公園を囲む雑木林と下草がやや鬱蒼として、茂り過ぎの感がなくもない。けれどもそれ以外は、ひどくのどかな風景だった。