青のインクが消えたなら
——その女は懇願する。お願いだから、と。
僕の袖を掴むというより、力なく摘まみながら。
女は何も身に纏ってはいない。
気まずそうな、申し訳なさそうな、泣きそうな笑みを僕に向けて懇願する。
——お願いだから。お願いだから、抱いてくれ、と。
少女と初めて出会ったのは、僕が大学を卒業した年の夏だった。僕は個人営業の古本屋の店員で学生の頃からそこでアルバイトをしていたこともあってか、大学を卒業するとそのままそこの店員になった。
営んでいるのは、初老の男性でとても活動的な人だった。毎週、いろんな公的な場を借りて古本市を開いていた。そのせいで店には週一で顔を出すかどうかで、店の業務はほぼ僕に任されていた。
店に来る客はほとんどが立ち読み客か、本を売りに来る客で本を買う客は一日に数人しかいなかった。ただ、置いてある本はほとんどが価値のあるものばかりで、けっこうな値段のするものばかりだった。
当然、若い子が好むような本は置いてはなく、客層は中年の男性が多かった。
だから、中学生くらいの少女が入店してきた時には少し、驚いた。八月上旬だったから、夏休みに入ったばかりだったんだろう。少女は軽く日焼けしており、ショートカットに負けん気な表情が妙に合っており印象的だった。
こんな娘がこんな古本屋に何の用だろう? 僕は純粋に疑問に思いながらも、その少女に興味を持った。でもあからさまに少女を見つめていてはただの変態だろう。僕は時折、店内の中心に位置するカウンターから顔を上げ、少女の様子を伺った。その時、店内には少女と 僕以外に立ち見常連の中年客の三人だけだった。
少女は真剣な面持ちで本棚の中の本たちを吟味しているようだった。へえ、こんな本を読む若い子なんているんだ、僕はそう一人勝手に感心していた。
少女はやがてカウンターからは見えない本棚へと移ってゆく。残念ながらこの古本屋には監視カメラと言うものが存在しない。カウンターから出て見て回ろうとすれば、一分足らずですべての本棚を見回ることが出来るほど狭い店内だからだ。
ただ、僕はそこまで執拗に追いかけようとは思わなかった。何か、買うのならカウンターにやって来るだろうと思ったからだ。でも、少女はカウンターにはやってこなかった。入店して十分足らずで少女は入って来た入り口から出ようとしていたからだ。僕はなーんだ、まあ、そうだよなあ、と何かしら残念めいた気持ちでその少女の背中を見送ろうとした。
しかし、その退店は「待てっ! お前」という怒号によって阻止されることになる。少女はビグッと身体を震わせたと思ったら、入り口の前で立ちすくんでしまった。ちなみに僕もその怒号は予期せぬものだったので同じようにしばらくは動けなかった。
怒号を上げた主は立ち読み常連の中年客で、立ちすくんでしまった少女の前までゆくと、「鞄の中、見せろ」と言った。少女は黙って、その中年客に肩から掛けていたピンクのショルダーバッグを渡す。中年客は躊躇なく、バッグの中に手を突っ込むと、一冊の本を取り出した。
——ああ、なるほど。万引きか……。僕はよっこらせとカウンターから立ち上がる。
「おい、お前。こりゃ、なんだ?」 中年客は怒った形相で少女に詰め寄る。少女は恐怖からか、反抗からか、ずっと黙ったままだ。
「失礼」 店員である僕が出て行かないわけにも行かず、僕は中年客からバッグから出てきた本を受け取る。
「おお、これは、これは。高いの盗ろうとしたね、お嬢ちゃん」 少女がバッグに入れていた本は谷崎潤一郎著、『刺青』の初版本だった。おまけに谷崎自身のサインが入っている滅多にない代物だった。値段は税込み九万。
バッグに雑に入れたせいか、僕がつけたグラシン紙のカバーが少し破れている。それ以外は大丈夫そうで、本自体には傷はついていない。
「おい、お兄ちゃん。早いとこ警察呼べや」 中年客が僕にそう言ってくる。
「えっ?」 少女がその時、初めて顔を上げる。不安そうな顔で中年客と僕の方を交互に見る。
さて、どうしたものか。確かに、警察を呼んでもいいくらいのものだ、少女はそれだけのことをしたのだ。でも、こうして商品自体は無事だし、何より警察から事情聴取されるのが僕は面倒くさかった。だから、
「とりあえず、裏の事務室まで来てもらえるかな。話はそこでじっくりと聞かせてもらう」 僕は少女の目を見て、出来るだけ怖い声色を心がけた。
「そういうわけです。とにかく、気づいてくれてありがとうございました」 次に僕は中年客の方を見てそうはっきりと伝える。
「お、おう。気をつけろよ、高い物おいてあるんだから。ショーウインドーに入れておくとかな」
「はい。店長の方にも掛け合ってみます」 中年客はこの店に店員が僕しかいないというのは知っている。邪魔になると思ったのか、その後すぐに店からは出て行った。
どうせ、店長に言っても買ってくれないだろうなあ、ショーウインドーは。僕はそんなことを思いながら店の表に出て、看板をひっくり返し、OPENからCLOSEへと替える。
その後、店内へと戻り、立ちすくんでいる少女に声を掛け、事務室に案内する。事務室は昼食を摂るための大きな机が一つと、丸椅子が三つ。あとはPCの置かれた事務机が一つと少し立派な背もたれの椅子があるだけだった。
僕は少女を丸椅子に座らせ、僕は向かいの丸椅子に座った。僕は少女に尋ねる。
「なんで、こんなことしたの?」
「——お金が欲しかったから……」 少女はボソッと呟くようにそう言った。
「つまり、どっかの別の古本屋にでも売るつもりだったってことかい?」 僕の問いかけに少女はコクりと頷く。
「そのお金で何か欲しい物でもあったの?」 再び少女は頷く。
「何? 鞄かなにか。それとも化粧品とか?」 少女は首を横に振る。僕はじゃあ、何が欲しかったの、と聞く。少女は少しためらった後に重そうに口を開く。
「——タトゥーを入れたかったの……」 予想の斜めをゆく回答に僕は、「はあ、へえ、そうなのか」と変な感想を漏らした……。
それからは言うまでもない。少女は僕のあげたお金を使ってタトゥーを彫って見せに来た。最初は、高級な古書を盗んでまでも彫ろうとしたタトゥー。それは少女が当時、付き合っていた青年の名前らしい。
彫られた箇所は彼女の右肩だった。ちょうど、服を着れば見えなくなるくらいの位置だ。それから、僕は狂ったように少女にお金を貸し始める。
——今付き合っている彼氏が、蝶々がすきなの。
——実は私は、刺青に憧れていた。だから、女郎蜘蛛のタトゥーが欲しい。
——彼氏が、アソコに名前入れろって……。
僕は少女に、いや、今では一人の女になってしまった、元少女の為にお金を渡し続けた。それが、何になるのかって? 答えは何にもならない。ただ、何となく僕はその行為に一種の快感を覚えていただけさ。
しまいに、女は僕が好きだと言い始めた。僕は笑ったね、僕の一体何がいいのかって。
だけど、女は笑わなかった。真剣な表情で僕を見つめ続けるんだ。その表情を見ているうちに僕は意地悪がしたくなった。今まではタトゥーを入れることでその彼たちに服従か、愛かを、誓って来たあの、元少女に対し。
だから、僕は言った。
「全部の刺青を消してくれよ」、と……。
「そしたら、君を愛そう」、と……。
その言葉を聞いた女は頷くと、店を出て行った。ああ、ちなみに数年が経った今も僕はこの古本屋で働いている。活動的だった初老の店主は、今じゃ、病院で寝たきりだ。僕は週に数回、会いに行っている。
女は僕の例の言葉を聞いて、店を出て行った後、もう、この店に来ることは無かった……。いや、それは間違いかもしれない。
だって、女は年に一度、僕に綺麗になった姿を見せに店の裏の事務所に必ずやって来る。あの、タトゥーの青を消し去った、レーザー治療の傷跡を生々しく残して。
——お願いだから、抱いてくれ、と。
彼女の身体の青のインクが消えた先は、死しかなかったらしい。でも彼女は、毎年僕に会いにくる。あの、夏の真っ盛りのお盆の頃に。
僕はそれを拒むことは出来ない。決して、出来ない。さすがに、抱くことは出来ないが、僕は傷だらけの、触れるか、どうかも怪しい、彼女の身体を抱きしめて言う。
「綺麗だよ。もう、大丈夫だよ」と……。