悪役令嬢とルームメイトになった平民のお話
私が王立魔法学園に入学したのはひとえに人脈を広げるためだった。
いずれは私が両親から継ぐことになるだろうアリシエ商会を盛り立てていくためにも高位の貴族との繋がりは必須となる。だからこそ王立魔法学園を選んだわけであって、そうじゃなかったら王国でも屈指の名門校……という肩書きが貴族どもの裏口やら賄賂やらでずぶずぶに腐った、学舎としての機能なんて劣化しまくりの学園なんて選ぶわけないんだから。
社交界の縮図とも揶揄される王立魔法学園。
ここで私はアリシエ商会を盛り立てていくために必要な人脈を確保しなければならない。
だから。
だから、よ。
「あら、見ない顔ですわね。貴女、名前は?」
寮のルームメイト。
学園での三年間を共にする相手が豪勢な金の縦ロールに碧眼の、見るからに成金貴族みたいに着飾った女であるのは好都合だった。
「シルエと申します」
「おほほっ、平民がわたくしと寝食を共にするというのですか。その奇跡、精々光栄に思うことですわっ」
よくもまあそこまでムカつくくらい立派な胸を張れるものだと感心するわよ。とはいえ、こんな奴に媚を売って足場を固めないとアリシエ商会の国外進出に不安が残るのも事実。
「そう、このわたくし──ゼルミア=アーティファストと同じ部屋の空気を吸えることに感謝感涙全身で喜びを示すべきなのですわ!!」
ゼルミア=アーティファスト公爵令嬢。
王国でも最上位に位置する公爵家の令嬢との繋がりを構築できる機会に恵まれるなんて、本当王立魔法学園様々よね。
ーーー☆ーーー
ゼルミア=アーティファスト公爵令嬢は高慢を体現したような令嬢だった。
私のことを小間使いのように扱うことに何の疑問も抱くことはなく、それはもうアレコレと命令してくるものだった。
彼女が『シルエ、お茶』と言えば、紅茶やら茶菓子を用意して──最初の頃は散々な言われようだった。
やれ紅茶の淹れ方がなっていないと癇癪を起こせば、ゼルミア様手ずから紅茶の淹れ方のレクチャーが始まり。
やれ茶菓子の選択がなってないと癇癪を起こしたかと思えば、ゼルミア様を伴って買い物に出向くことになり、旬やら流行やら紅茶の種類に合わせた茶菓子の組み合わせなどのレクチャーが始まり。
その他にもお茶会の場所から何から私に丸投げするくせに後になって色々言ってきて、それはもう根掘り葉掘り注文をつけられて、できるようになるまで特訓だと言われるものだった。
……まあ、その甲斐あって『貴族のお茶会』ってのがどんなものかわかったんだけど。その他にも様々な『貴族社会の常識』を取得できたとは間違いなく今後の役に立つっちゃ立つんだけど、あの人がそこまで考えるわけないよね。
誰かに命じるよりも自分でやったほうが完璧にこなせるとしても、それはそれとして自分は下の者を使うのが当然と考えているような女というだけなんだから。
そんなこんなとゼルミア=アーティファスト公爵令嬢は私のことを小間使いのように扱う。その度に散々っぱら癇癪を起こして、指導が入り、また新たな命令がきてと、その繰り返しだった。
学園の寮には従者は連れてくることはできない。だから同室で平民の私が少しでもまともに使えるよう手を加えているってだけなんだろう。
『シルエ』
小間使いのように働かさせられることに思うところがなかったわけじゃない。人脈のためだと自分に言い聞かせないとやってられないってのも本音よ。
だけど。
高慢も高慢、平民は自分に尽くすのが当然だと言わんばかりに次から次に命令してくるゼルミア様は最後に必ずこう言うのよ。
『ありがとうございます』
たったそれだけ。
当然といえば当然なその一言に、まあ、感じるところがないこともないのよね。
ーーー☆ーーー
一年の間は何事もなく、ゼルミア=アーティファスト公爵令嬢の命令に付き合う形で学園生活を送っていた。その甲斐あってそれなりの繋がりを得ることはできていたと思う。
彼女の周囲には貴族間の派閥に属する令嬢が常に取り巻きを形成しているんだけど、そんな高位貴族の集まりの端っこに私が加わることができるくらいには、よ。
いかにアリシエ商会という後ろ盾があろうとも、普通に縁づくりに勤しんでいたら不可能だっただろう。これも学園という閉鎖的な環境と、寮で同室になれた幸運、後は高慢極まるゼルミア様の命令に従ってきたメイドたちの代わりを務めて相応の立ち位置を構築した結果よね。
このまま順当に進めていけばゼルミア様はもちろん、その取り巻きとの繋がりも手にできるんじゃないか、などと考えていた時に『彼女』は現れた。
クルミ=シフォンレーン。
男爵令嬢ながらに希少属性の魔法を宿すことを考慮され、王立魔法学園の特待生として編入してきた少女によって順当な流れは断ち切られることになった。
薄い赤の髪の、同性である私でさえも守ってあげたくなるような愛らしい彼女は良くも悪くも純粋だった。
学びの場である学園において身分の差は関係ない。ずぶずぶに汚染される前の、学園設立当初からの名残りでしかない慣習を真面目に受け取り、『社交界のルール』を無視して高位の令息に近づく彼女を好ましく思わない者は多い。
それは貴族の極みみたいなゼルミア様も例外ではなかった。
まあ、大半の令嬢のように影でコソコソ悪態をつくのではなく、真正面から件の男爵令嬢に苦言を呈するのがゼルミア様なんだけど。
「クルミさん。貴女の振る舞いは少々目に余ります。身分というものを自覚するべきですわ」
「はうう。学園において身分の差は関係ないはずだよぅ〜」
……しっかし、件の男爵令嬢もよくもまあゼルミア様に真っ向から反論できるものだよね。怖いもの知らずなわけ?
大体学びの場である学園では身分の差は関係ないっていう形骸化した建前自体、私はくだらないものだと思うんだけどね。
だって、学園ではどうであれ、私たちはいずれ社会に飛び込むことになる。そこでは身分の差が当たり前に存在していて、それ相応の振る舞いってのが求められる。
学ぶっていうなら、身分の差を基本とした一般社会での立ち振る舞いを学ぶのも大事だと思うんだけど。
まあ、私の持論は置いておいて、どれだけクルミ=シフォンレーン男爵令嬢がとやかく言おうとも公爵令嬢という冠を持ち、遥かに格上なゼルミア様に敵うわけない……はずだった。
「ゼルミアよ、貴様何をやっている?」
第一王子やら宰相の息子やら果てはアーティファスト公爵家の次男(ゼルミア様の弟)やら、つまりは男爵令嬢に骨抜きにされた連中が顔を出さなければ。
はうはう鳴きながら身を縮こませて震える男爵令嬢を庇う彼らの目は燃えていた。それこそお姫様を守る騎士でも気取っているように。
しかも、そう。
先頭に立つ第一王子は確かゼルミア様の婚約者だったはずなんだけど……。
「身の程をわからせているだけですが、それが何か?」
まあゼルミア様もゼルミア様っていうか、何でそう馬鹿真面目に真っ向から言い放つのやら。相手は王族さえも含めた高位貴族の群れ。適当にかわしたっていいだろうに。
「ふん。これだから貴族らしい令嬢というのが嫌なのだ。身の程をわからせている? 身分の違い程度で他者を弾圧できると思っているその性根が昔から気に食わなかったんだ!! そもそも学園において身分の差は関係ないのだ。ゆえに間違っているのは貴様だとなぜわからん!?」
いや。
いやいや! それをよりにもよって第一王子が言う? なにこの、こう、うまく言えないけど、とにかく気持ち悪い。
『持っている』奴がそんなこと言ったって響かないっての。大体、貴族制度でもって国を回そうっていうならある程度の威厳だの立ち回りだのは必要よ。
好むと好まざるとに関わらず、一線がないと舐められる。その侮りはいずれ現存の支配体制を崩すことにだって発展するだろう。
貴族とは偉く、逆らってはいけないものという立ち位置があるからこそ支配体制は維持できているわけであって、実は貴族よりも平民の数が圧倒的に多いんだから『適切に』反乱起こせば普通に貴族どもを皆殺しにできる事実に気づかれたら困るのはそっちだろうに(大多数に犠牲を許容できるだけの感情の昂りがないと実行はされないだろうけど)。
「おほほ」
ゼルミア=アーティファスト公爵令嬢は笑う。
笑って、とやかく騒ぐ第一王子たちの非難を真っ向から受け止めていた。
そうしてそれ以上何事か返すことはなかったのよ。
ーーー☆ーーー
それからのゼルミア様の立場は悪化の一途を辿っていったのよ。
『なぜか』例の男爵令嬢の振る舞いに苦言を呈する令嬢がいれば、ゼルミア様が裏で指示してきたことになったり。
『なぜか』例の男爵令嬢のほうからゼルミア様にぶつかってきたくせに、派手に転んだ男爵令嬢が泣いているのを見た第一王子たちが騒いだり。
『なぜか』例の男爵令嬢の私物がなくなったのがゼルミア様のせいにされていたり。
その一つ一つが積み重なり、ゼルミア様の悪名として広まっていった。学園生活二年目、その大半はそうした悪意にゼルミア様は晒されることになったのよ。
そんなのは知らないと、関係ないとゼルミア様は主張するけど、第一王子をはじめとした連中は聞く耳を持たなかった。
ゼルミア様は何でもできる。偉そうな態度に比例して非の打ち所がないほどに優秀で──それこそ私に紅茶の淹れ方だの何だのを教えることができるように下の者の技術から上に立つ者に必要な知識まで網羅しているんだものね。第一王子の婚約者、つまりは未来の王妃としての素質は十分すぎる……だけに収まらず、第一王子のほうが霞んでいるくらいだった。
だからなのかもしれない。
第一王子のあの態度の裏にはどこか劣等感からくる嫉妬心が混ざっているような気がしてならない。
まあゼルミア様はいつも堂々としていて、良くも悪くも『貴族らしい』からね。それを気高いと感じるか、それとも傲慢と感じるかは人次第よね。
私は、どう思っているんだろう。
どこまでも偉そうで、人に尽くされるのが当然と考えて私を好きに使って、だけど私のような『下の者』ができるようになるまで付き合ってくれて、お礼を忘れることはない彼女のことを。
「シルエ」
「はい、何ですか?」
ゼルミア=アーティファスト公爵令嬢は常に堂々としていて、偉そうで、揺らぐことはなかった。
ゼルミア=アーティファスト公爵令嬢は婚約者である第一王子を前にしても間違っていることは間違っていると言えるような図太い令嬢だった。
ゼルミア=アーティファスト公爵令嬢は私が知る限り一番貴族らしくて、強くて、だからこそ同室になったチャンスを生かして繋がりを構築しようと思えた。
そんな彼女の声が、震えていた。
私に背を向けて、背を丸めて、二人きりの寮の部屋でこう呟いたのよ。
「わたくし、間違っていますか……?」
弱音だった。
ゼルミア=アーティファスト公爵令嬢とは無縁なはずの、どうしようもなく弱りきった感情の流出だった。
間違っているかどうかなら……間違っているのかもしれない。馬鹿正直にぶつからずに、もっとうまく立ち回るべきだったのだろう。
真実になんて何の価値もない。そんなのは、権力と財力と暴力でいくらでも歪められるんだから。
社交界の縮図、『力』蠢く魔境では勝った奴の主張が真実になるものよ。
だから。
だけど。
「間違っているとか正しいとか、そういうのは他の誰かじゃなくて自分で決めるものだと私は思います」
「…………、」
「ゼルミア様はどうしたいんですか? 男、それも高位の令息にばかり近づく魂胆見え見えな男爵令嬢と形だけでも和解すればこれ以上『攻撃』されることはありません。それが、まあ、拗れに拗れた現状を収める一番簡単な方法でしょうね。その代わり、第一王子どもの勝利で終わって、これから先見下される羽目になりますけど」
「…………、」
「それとも徹底的に戦います? 真実にどれだけ価値があるのか、そもそも今から真実を証明するだけの証拠が残っているのか、そして聞く耳持たない連中が真実程度で揺らぐのか、少し考えるだけで困難極めている道ですけど、勝ちさえすれば尊厳は守り抜けます」
「…………、」
「ゼルミア様」
これまで、お茶の用意だの何だのとどうしてゼルミア様は自分でできることを私に命令してきたのか。それもわざわざゼルミア様自らが私を教育する手間をかけてでも。
どうしてゼルミア様は真正面から例の男爵令嬢に苦言を呈したのか。男爵令嬢がいくら好き勝手やっていたって放っておけばいいのに。
つまりは、
「私はこう考えるってだけではありますけど、アーティファスト公爵令嬢だからとふさわしい振る舞いを意識せずともいいんじゃありませんか?」
公爵令嬢だから、他者を従え、使うべきで、自らの手を動かすなどあってはならない。
公爵令嬢だから、社交界の縮図を荒らし、貴族らしくない振る舞いを繰り返す例の男爵令嬢を見逃すことなどできなかった。
どこまでも真面目だから。
公爵令嬢らしくあらねばならないと意地を張っていたからこそ妥協を知らなかった。力を抜いて、嫌なことからは逃げたって良かっただろうに。
「わたくしは……アーティファスト公爵令嬢ですから……」
「そう、ですか」
まあ、うん。
こんなになるまで見ているだけで何もできなかった無力な私の言葉なんて響くわけないか。
所詮は平民。
王子だの何だの、そんな奴らに太刀打ちできる力がないからこそ代わりの力を、繋がりを求めて腐り切った学園に足を踏み入れたわけだし。
「シルエ」
「はい」
その時だった。
振り返ったゼルミア様が勢いよく私の胸に飛び込んできたのよ。
顔を胸に埋めて、隠して、それでも隠しきれない感情を漏らすように。
「しばらく、このままで……いいですか?」
「私で良ければ、いくらでも付き合いますよ」
ああ。
何で私には力がないんだろう。
ーーー☆ーーー
結局のところこの流れは誰が定めたものだったのか。
『なぜか』の連続。
真実の歪曲。
クソッタレな現実を前にどこまでいっても平民でしかない私には何もできなかった。
だから、学園生活も三年目となったその日、長期休暇前のパーティーにて第一王子がやらかすことになるのを事前に止めることだってできなかったのよ。
「ゼルミア=アーティファスト公爵令嬢! 貴様との婚約を破棄させてもらう!!」
婚約者であるゼルミア様を差し置いてはうはう鳴く例の男爵令嬢を伴ってパーティーに参加していた時点で嫌な予感はしていたけど、まさかここまでとはっ。
「なぜ婚約が破棄されたか。それは貴様自身がよく理解しているだろう? 未来の王妃となるべき立場の女が他者に対して嫌がらせをするなど笑止!! 貴様のような傲慢なだけの悪女と違い、クルミは他者を思いやり、身分で人を差別しない慈悲深さを持っているというのに、公爵令嬢である貴様がその様とはな」
「……、おほほ」
「っ!! 本当、生意気な女だっ!! この期に及んで、なお、笑えるとはな!!」
ゼルミア様は揺るがない。
だけど、本当に? アーティファスト公爵令嬢だからと我慢しているだけではなくて?
ゼルミア様は奥の奥、本音を隠してでも公爵令嬢らしくあろうとする。それがアーティファスト公爵家に生まれた女としての義務であると言わんばかりに。
正しいか正しくないか。いとも簡単に歪められる真実だの大多数の主観に基づいているだけで時代や状況で移ろう正義なんて知らない。
よってたかって一人の令嬢を非難してきた連中とゼルミア様、私はどちらの味方をしたい?
「殿下。我が姉の不遜なる態度も今に崩れるものですよ」
そこで、第一王子という影に隠れて好き勝手非難を繰り返してきたゼルミア様の弟が口を挟んできた。
優秀なゼルミア様や兄と比べられ、周囲から常に下に見られてきた彼は大仰なまでに両手を広げ、楽しげにこう言ったのよ。
「我が父は決めたのだよ、姉上! お前をアーティファスト公爵家から勘当することを!!」
果たしてこの流れは誰が定めたものなのか。
悪趣味で、真実なんて歪められまくっていて、それこそゼルミア様だけを標的にしたような悪意の連鎖は。
あるいは、もしかしたら、複数の思惑でも重なっているのかもしれないし、案外偶然の連続というどうしようもない結果なのかもしれない。
「ははははっ! ほら、いつものように堂々と、憎たらしく、言ってみてくださいよ。そうですかと、僕を見下すようにさあ!!」
例の男爵令嬢は玉の輿を狙って立ち回っていたのかもしれないし、ゼルミア様との婚約を破棄したい第一王子が手を回したのかもしれないし、目障りな姉を貶したい弟の告げ口を受けたアーティファスト公爵家側が第一王子に媚を売るためにゼルミア様を切り捨てたのかもしれないけど、そんなものはどうでもいいのよ。
わかっているのは、一つだけ。
「おほほ」
こんな時でも、ゼルミア様の背中は真っ直ぐだった。
寮の部屋で、震えて縮まっていたそれと違って、こんな時でも我慢していた。
こんなのは、もう、駄目だよね。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。
私は親不孝な娘だよ。
だけど。
それでも!!
「学園において身分の差は関係ない」
一歩前へ。
ゼルミア様と並び、第一王子と向かい合う。
「シルエ……?」
いいや、更に前へ。
ゼルミア様を追い越し、第一王子の目の前に立つ。
「殿下はその思想に賛同していらっしゃいましたよね?」
「何だ、貴様は?」
「答えろよ」
頬をひくつかせる目の前の男は確かに言っていた。
『ふん。これだから貴族らしい令嬢というのが嫌なのだ。身の程をわからせている? 身分の違い程度で他者を弾圧できると思っているその性根が昔から気に食わなかったんだ!! そもそも学園において身分の差は関係ないのだ。ゆえに間違っているのは貴様だとなぜわからん!?』、と。
ゼルミア様が気に食わないから適当に理論武装していたのか、例の男爵令嬢を支持したいだけだったのか、そんなの知ったこっちゃない。
大事なのは、学園では身分の差は関係ないなんてものを正しいということにするかどうか、よ。
「答えろよ、だと? ……ごほん。ま、まあ、良い。もちろん学園において身分の差は関係ない。それがどうした?」
「だったらこれは単なる学生同士の喧嘩だよね?」
言質は取った。
だから私は目の前のクソ野郎の顔面に拳を叩き込んだのよ。
鈍い音が響く。殴った私の拳の方が痛むような有り様で、第一王子を吹っ飛ばすなんてこともなくよろめかす程度だったけど、確かにぶん殴ってやったのよ。
空気が、固まったのを自覚した。
周囲のパーティー参加者の誰もが信じられない馬鹿を見るような目で私を見ていた。
だけど、それでも。
もう我慢の限界だもの、仕方ないよね。
「しっシルエ!? 何をやっているのですか!?」
「さっきも言ったけど、単なる学生同士の喧嘩よ。若気のいたりってヤツ?」
「馬鹿ですか!? 学園において身分の差は関係ないわけがないでしょう!! 相手は王族、それも王位継承権第一位の男です。平民でしかない貴女が手を出せばどうなるか──」
「あっはっはあ! そんなこと言っちゃあ駄目だってえ」
私はわざと間延びした声音で言い放つ。
ゼルミア様に、ではない。鼻を押さえて、よろめきながらも私を睨み、今にもどこからともかく這い出てきたおそらくは第一王子の護衛にでも命令を下そうとしているクソ野郎を嘲笑うようによ。
「次期国王にして天下無敵の第一王子様は言ったのよ。学園において身分の差は関係ないと。その言葉は王族の見解、そうであれと定められた唯一絶対のルールなんだから。だからいくら第一王子様と殴り合いに発展したってそれは単なる学生同士の喧嘩にしかならない。まさか、いやいやまさか、自分の都合の悪い時だけ身分の差を持ち出して王族という身分だからこそ持ち合わせている護衛のような戦力を差し向けるなどというなっさけなあいことはしないだろうしねえ? 自分の言葉には責任を持つ。平民であっても当たり前の常識をまさかまさか王族の中でも燦然と輝く第一王子様が守れないわけもないしい???」
「……ッッッ!!!!」
正しいか正しくないかなんてどうでもいい。
王族を殴るなんて不敬罪だの何だのてんこ盛りになるのが普通なのかもだけど、それを決めるのは力ある者よ。
他ならぬ第一王子が自身の言葉を跳ね除けるだけの気力がなければ、さっきのふざけきった指摘だって通る。
王族として待ち合わせている権力や暴力をわざわざ第一王子自身が封じてくれる。
つまり。
ここで起きる全ては学生同士の喧嘩という範疇に抑えられる。そうしないと体面を保てない弱っちい奴だからこそ優秀なゼルミア様に嫉妬していたんだろうしね。
ちょっとでも心が強ければ、こんな風に公開処刑じみた婚約破棄などせず、波風立てずに事を収めることだってできたかもしれないのに。
「く、くっくっ。学生同士の喧嘩、か。うまく出し抜いたつもりだろうが、その建前が貴様を追い詰めると知れ!! 今ここに王族だの平民だのは関係ない。であれば、貴様も俺に反撃される覚悟はあるんだよなあ!?」
護衛をわざわざ自分の手で制して、第一王子は薄暗い笑みを浮かべて私を見据えていた。そうやってうまく転がってくれたクソ野郎に私は一つ頷いてやる。
「もちろん、喧嘩だからね」
「シルエっ。もういいですからっ」
顔を歪めた第一王子が手を頭上に掲げて詠唱を開始していた。優秀ではないとはいっても王族としての教育を受けている第一王子の魔法の実力は学園でも上位に位置するだけあって巨大な炎の塊が剣の形に凝縮されていく。
だけど、私はそんなもの無視して背後のゼルミア様へと視線を向ける。
「もういいじゃないって。ねえゼルミア。クソッタレな王子から婚約を破棄されて、公爵家からも勘当されて、これ以上我慢する必要なんて絶対にないんだよ!!」
「な、にを……」
「後先なんてどうでもいい。他人なんて知ったこっちゃない。ゼルミア自身が、今、婚約破棄だ勘当だ騒ぐクソッタレどもに対してどう思っているのか。全部、曝け出していいんだよ。だって、だってさ、もうゼルミアには公爵令嬢としての責務なんてないんだから!!」
それが幸せなことなのかはわからない。
だけど、失ったものに想いを馳せていたって何も始まらないのも事実。
だったら、突き進むしかないんだよ。
失ったものに想いを馳せるんじゃなくて、今あるものを胸に抱えて前に進むしかない。
だから。
だから。
だから。
「ムカつくに、決まっています……。ここまでされて、何も感じないわけないでしょう!! 本当は、本当は! 全員ぶっ飛ばしたいに決まっているではないですかあ!!!!」
本音は聞けた。
なら、後は突き進むだけよね。
「何がムカつくだ。全ては貴様が悪いんだろうが! 不遜にして高慢、第一王子よりも優秀などと持ち上げられる婚約者など次期国王である俺に相応しくなどあるものか!! だから切り捨てた俺が悪いはずないっ。そうだ、俺が正しいんだ! 正義なのだ!! だから死ね、正義の裁きを素直に受け入れるがいいィィいいいいいいいいいい!!!!」
学園でも上位、王族としての教育を受けてきた男が醜悪に叫びながら巨大な炎の剣を振り下ろす。人間一人、簡単に焼き殺せるだけの力ある一撃ではあったけど──私が魔力を込めた腕を横に振るうだけで霧散した。
「は、ぁ!?」
何やら第一王子が唖然としていたけど、私としてはそう不思議な結果でもなかった。
第一王子のような身分の高さありき、男爵令嬢のような希少な魔法ありきで学園に入学できたわけでないのならば、残る項目は一つしかない。
魔法の実力。
その高さでもって私は平民ながらに学園への入学を勝ち取ったのよ。ロクに授業も受けずに男爵令嬢とイチャイチャしていた第一王子が知らないのも無理はないけどね。
……まあ本物の強者、それこそ王族の護衛のような怪物相手だと手も足も出ないけど、学生の喧嘩の範疇であれば(一人の例外を除いて)負ける要素はない。
ゴッッッ!!!! と。
凄まじい烈風が炸裂した。
それは余波。あくまで魔法を具現化した際に溢れたものでしかないというのに、周囲の人間がよろめき倒れるほどだった。
私、じゃない。
非の打ち所がないほどに優秀なゼルミアのものよ。
先程第一王子が具現化した炎の剣が霞むほどの鮮やかな魔法が数十と展開されていた。あんなの私でも一つだって具現化できそうにない。
わざわざ自分から王族の護衛という勝機を捨てるだなんて頭に血が上りすぎよ、クソ野郎。
それともこれまでアンタの人生が都合よく進んでいたのは王族として生まれながらに『持っている』もので庇護されてきたお陰だってことにすら気づいていないわけ?
王族という防壁がなくなった剥き出しのクソ野郎が非の打ち所がないほどに優秀なゼルミアに敵うわけないじゃない!!
「き、さま。貴様ごときが第一王子たる俺に手を出していいと思っているのか!?」
「姉上っ。仮にもアーティファスト公爵家の血をひいているというのに、これ以上恥を晒す気ですか!?」
メッキが剥がれた第一王子やその取り巻きであるゼルミアの弟などが何事か騒いでいたが、ゼルミアは一言でもって切り捨てた。
つまりは、
「わたくしはもう誰かさんの婚約者でもアーティファスト公爵令嬢でもありませんので、好きにさせていただきますわ」
直後に魔法の嵐がクソッタレどもを薙ぎ払ったのよ。
ーーー☆ーーー
「シルエのせいで随分とやらかしてしまったではないですか」
「その割にはノリノリだった気がするけど?」
「おほほ。否定はしませんわ」
あれだけやらかしてはパーティーどころではなかった。それでいて私たちの身柄が拘束されることがなかったのは判断に迷ってのことだろう。下手に触れて火傷してはたまらないと。
「これからどうする?」
「そうですね……。もうアーティファスト公爵令嬢といった立場に縛られるのはごめんですからね。気ままに生きられればと思います。もちろん、そううまくはいかないのでしょうけど」
何せ第一王子相手に大立ち回りしちゃったものね。いやまあ私が焚き付けちゃったんだけどさ。
だから、ってわけじゃないけど、うん。
「ねえゼルミア。アリシエ商会は国外進出を目論んでいて、そのために必要な人材を探しているんだよね」
足場を固めた上での、事業拡大。
その足場を固めるために私は学園で貴族の令息令嬢と繋がりを持つつもりだったんだけど、それは大失敗に終わった。ここまでやらかした私に近づきたい奴なんているわけないし。
そもそも第一王子を敵に回した状態で国内にとどまるとか何をされるかわかったものじゃない。
それに……ううん、そんな建前なしに私が望んでいるのは──
「ゼルミアさえ良ければ私と一緒にアリシエ商会で働いてみない? 国外進出となれば第一王子の手が届かない所までいけるし、生活費は稼げるし、メチャクチャ良いこと尽くしなんだよっ。それに、その、あれだよ、これでお別れってのは寂しいからさ」
「おかしな人ですね」
「うえ?」
「わたくしにあれだけこき使われておいてまだ一緒にいたいとは……実は上から目線で命令されることに快感を覚える変態さんだったりするのですか?」
「うええええ!? ちがっ、違うって! そんなんじゃなくて、上から目線なら誰でもいいんじゃなくてゼルミアだからよくて、じゃないっ。だから、その、だからあ!!」
「ふふっ、ははははは!! 慌てすぎですよ、シルエ。それではまるで図星だと言っているようではありませんか」
「だからあ!!」
「分かっていますよ。冗談ですからそうムキにならないでくださいな」
柔らかく、意地を張ることのない笑顔だった。
公爵令嬢としての顔を脱ぎ捨てたゼルミアは冗談だって言うし、人目も憚らずに笑っていた。
その姿を見ただけで王族を敵に回したって良かったと思っているんだから、私も大概よね。
その後、男爵令嬢を新たな婚約者と発表した第一王子が政治闘争の果てに第二王子に蹴落とされ、再起を図るための企みを実行する前に婚約者共々『行方不明』になったり、ゼルミアの弟が第一王子についたのはあくまで弟だけでありアーティファスト公爵家の総意ではないとして切り捨てられたりと色々あったみたいだけど、学園をやめて国外で活動していた私たちには関係ない話だった。
「シルエ、お茶」
「……別に自分で用意すればよくない? もう公爵令嬢でも何でもないんだし、ゼルミアの方が上手なんだし」
「シルエが淹れてくれたお茶が飲みたいのですよ。貴女の手で淹れられたお茶よりも美味しいものに心当たりはありませんので」
「へ、へえ。まーあー? そこまで言うなら用意してやらんでもないけどー???」
「チョロいですわね」
「おいこら何て言いやがった?」
「ふふ、冗談ですわ」
「まったくもう」
そう、お偉方のアレソレなんて平民でしかない私にも、アーティファスト公爵令嬢でも何でもないゼルミアにも関係ない話なのよ。
こうして質素ながらも暖かな家で貴女と一緒に生きていけるなら、それだけで幸せなんだから。