2.朝の雑音は耳に残る
扉を開け放ち外界へと、つまりはマンションの廊下へと足を踏み出した。外の空気に触れるとのとほぼ同時に、視界に飛び込んでくる大きな桜の木。
このマンションの中庭に植えられた大きな桜の木だ。
その木は4月も1週間が経っていたこともあるが、町にある桜の木は軒並み花びらを散らし禿げ上がっていた。でも、この木だけはまだピンク色に自身を飾っている。
どこか季節外れな感があるこの桜は、マンションの住民、引いては地域の人々からはご利益があるといわれたりしているらしい。そんな話にどこかの誰かが‟神の宿る木”と揶揄したことからご神木として崇められている。目も歯も無いただの噂の域を出ないが。
そんな桜を横目にコツコツと音を立てて廊下を進んだ。
普段なら迷わずエレベーターに乗るところだが、なんだか自分の足で降りたいと思った。なんとなく、ただ気分だけど。
4階から地上へはそこそこの距離になるがそんなことはお構いなしだ。
軽やかな足取りで一段一段を降りる。駆け足に近いくらいの速さで一気に駆け下りた。
最後の五段くらいは大きく飛び越えてストンと着地した。
足の裏がヒリヒリしたがそんなことはこの爽快感に比べたら些細なことだった。
そのあとは長くない廊下を進んで先の太い木の幹の横を通り過ぎてオートロック付きのエントランスに向かった。自動ドアが俺に反応して開き再び歩き出す。
「あ、太陽おはよ!」
「え?どなたですか?」
「むぅ、またそういうこと言うんだから...わたし泣いちゃうよないちゃうよ?」
長い黒髪に整った容姿の彼女は瞳をウルウルとさせている。
「悪い悪い、冗談だから泣くなよ」
「だってぇ...」
今にも泣きそうな彼女を仕方がないので小さな頭を撫でてやる。案外チョロい彼女はいつもこれで機嫌を取り戻すと長い付き合いの中で学んできた。
10センチくらい身長の低い彼女の頭はちょうど撫でやすい位置なので大助かりだ。
目元にたまった涙を拭きとり、彼女はニコッと歯を見せた。
「なでなでしてくれたから許してげる!でも、次はダメだからね!」
「小動物みたいな思考回路でたすかるよ...」
「ん?」
「なんでもないよ」
一通りのやり取りを終えて彼女、幼馴染の紅葉と最寄り駅へと歩き出した。
「なぁ紅葉」
「なに?」
「俺たちっていつから一緒だったけ?」
「えーと、いつだろう?」
紅葉とは物心がついたときから一緒の居た。遊ぶときはいつも同じことをしたし、同じ釜の飯を食べたりした。中学ではお互いに別々の学校になってしまったが、高校でまた再開することになった。もともとは親戚の付き合いで出会ったと聞いたが、ここまで仲が深まるとはだれも思わなかっただろう。
かわいい幼馴染がいると周りからは羨ましがられたりするが、正直、そんなにいいものでもないと思うけどな。長く付き合えば付き合うほど、異性というよりかは家族という感じがするようになってくるもんだ。
朋友は六親に叶うというやつだ。
「まぁ、高校最初にあったときに気が付いてくれなかったのは寂しかったな」
「まだそれ言うの?もう時効だよぉ~」
こうしてからかえるのは実に楽しい。性格が悪い?いやいや、そんなことは断じてない。
最寄り駅の小田急相模原駅までの間はそんなたわいもない話をするのが日課になっていた。それが始業式である今日も当然変わらない。
サウザンロードという繁華街?を通り過ぎるこの時間が何よりも大切な時間だ。
紅葉の笑顔にドキッとさせられてしまうこともあるんが不覚だが。
「ん?どうしたの?」
「いや、何でもないよ。なんだかいろいろ考えてただけ」
「それはなんでもなくないよ!?」
そうこうしているうちに駅に着くのがいつものお決まり。
最近は高い高層マンションが建つようになり、通勤通学時間はそれなりに混むようになった最寄り駅。飲食店や本屋、ドラッグストアなどが駅ビルに入って使い勝手は悪くない。近隣の駅に相模大野や町田があるせいで急行が止まらないのだけが惜しい。
俺と紅葉は北口のエスカレーターを使って改札へと向かう。
その途中にいつもの通り奴は待っていた。
「おはっす~!くれはちゃん!」
「うん、おはよう...」
この朝っぱらからこってりしたテンションのバカは高島。学校一のバカだと名高く、紅葉にストーカ...恋心を抱いているらしい。と、困り顔の紅葉から何度か相談を受けたことがある。
中身は抜けているところのある紅葉も見てくれだけは完璧だからこういうことは珍しくないらしいのだが、この高島は格別に抜けているらしい。
ボンボンの家庭らしく、金にものを言わせたプレゼントをいくつも無理やり送られ、無下に扱うのは悪いと紅葉は思っている。こんな奴、けりでも入れてやればいいのに。
「あ、太陽君もいたのですか」
くっ、俺は完全におまけかよ。とことんむかつく野郎だな。
「さ、くれはちゃん!僕とともに登校いたしましょう!」
完全に迫力に押され、俺の背中に紅葉は隠れてしまった。盾にしないでくれ。俺もこいつとはかかわりたくはないから。
「どうして隠れるんだい?まさか、その男に脅されて...そうかそうか、怯えているんだね?僕が助けてあげよう!そう、高島凛太朗がお助けしましょう!」
はぁ、なんだかめんどくさいことになってきた。
「なぁ、あいつは無視しよう」
「え、大丈夫ですか?」
背後にぴったりと隠れている紅葉にそう促し、退散することを告げた。余談だが、こいつは結構遠くからここに通っているらしい。うわ、キモ...
ま、とにかくここを切り抜けることだけに思考を向けた。
「すごいねぇ~高島君は。もっとお話し聞かせてよ」
「ふぅん、僕の高貴な出自を聞きたいのかね。いいでしょういいでしょう!僕の家は祖先の...」
読み通りつらつらとつまらないことをまくしたてる高島。もちろん聞く耳なんて持たない。横を堂々と通り抜け改札を通過した。