実験室へようこそ。
「あ……切れちゃった」
折角電話がつながったというのに、ほんの数回言葉を交わす事しか出来なかった。
けど、こちらの場所は伝わったみたいなので一安心だった。
「あすかちゃん、あそこに行ってお兄ちゃん達を待ってようか?」
「あくあ、りうむ?」
「水族館の事だよ」
「あすか、おさかなだいすき! おすしも!」
子供らしい反応に、つい笑みが浮かんでしまう。
先程からおかしな事が立て続けに起こっているのに、恐怖よりも幸福感の方が強く感じるのは彼女の存在が強いのだと感じた。
「まぐろ、サーモン、イカ、いくら、たまご!」
あすかちゃんは楽しそうに、ぴょんぴょん跳ねて歌う。
「たまごは、お魚じゃないよ」
「あ、そっか!」
そんな彼女と手を繋ぎながら小さな歩調に合わせて目的の場所に向かう。
彼女と私の手はしっかりと繋がれている。ミラーハウスでの事があってから、何故か無意識に繋いでいた。
この手を離したら、なにか嫌な事が起こる気がして……。
「おや?」
アクアリウムの前に見覚えのある人影があった。
「敷谷さん!」
彼は眼鏡を直すと、
「探しましたよ」
と、微笑む。
「すみません、娘さんを連れまわしてしまって」
あすかちゃんはまだに私と手を繋いだままで、彼の元に行こうとはしなかった。
「いえ、大丈夫ですよ」
私は辺りを見回す。
「あれ? 涼太と礼二は一緒じゃないんですか?」
途中で切れてしまった電話では、敷谷さんについて二人が何か言ってはいなかったはずだ。
「ええ。けど、もうしばらくしたらここに来ると言っていたので、少しだけ中を見ていきませんか?」
たしかに電話でここに集合と言っていたが、入ってすれ違いにならないだろうか?
「さあ、ぜひ」
と、敷谷さんは私の背に手を当てグイグイと押す。
「ちょ、ちょっと待って下さい!?」
「大丈夫ですから」
と、なかば無理矢理にアクアリウムの中に入れられた。
「あの!」
そう言って振り返ると、大きく厚い扉はバタンと音を立てて閉じられた。
慌ててドンドンと扉を叩く。
「すみません! 開けて下さい!」
何度も叩くが、扉が開く事もないし扉の先から声がする事もなかった。
「なんで、こんな事……」
私の手を握る小さな手が強く握り返してきた。
「だい、じょうぶ?」
あすかちゃんは私の変化を感じ取ったのか、不安そうに私の事を見つめている。
(そうだ、ここには私だけじゃなくてこの子もいるんだ。しっかりしないと……)
「うん、ごめんね。もう、大丈夫だよ」
さてと。じゃあ、これからどうしようか?
二人がここに来るまで待って外から開けてもらう? それとも、先に進んで他の出口があるか確認してみる?
少し考えたけど、待つのがいいと思った。もし二人が来ても、音さえ聞こえれば中にいる事も分かる。
何よりも、この子を連れたままで何が居るのか分からない先に進むのは、心の奥底から湧き上がる不安で出来そうにはなかった。
「ねぇ、あすかちゃん。ここでお姉ちゃんと、お兄ちゃん達を待ってようね」
「うん」
私は彼女が飽きないようにしりとりを始めた。
けど、頭の中ではある事ばかりが浮かんでいる。
(敷谷さんは、なんでここに入らせたんだろう? それも力づくで。いくらなんでもおかしいよね?)
――ゴポゴポ。
周囲を取り囲むように設置された、水しか入っていない水槽の中に気泡が混じり、一瞬白くなる。
――ゴポゴポ。
もう一度、気泡が浮かぶ。
――ゴポゴポ、ゴポゴポ。
今度は二回、これはおかしい!
私は立ち上がり、次の答えに悩んでいたあすかちゃんの手を握る。
――ゴポゴポゴポゴポ!
こういう水族館の水槽というのはガラスが厚いはずなのに、どうして音が聞こえているんだろうか?
――ゴポゴポゴポゴポ!!
それにこの気泡、なにも入っていない水槽から出てくる量とは思えなかった!
――ゴポ。
すっかり白くなってしまった水槽の中に目を凝らす、私は咄嗟にあすかちゃんを腕の中に抱えていた。
ゴポ。
徐々に白い泡が引き始めた、中でさっきまで居なかったはずのナニカが蠢いている影が見えた。
――ゴポ……。
水槽の中のモノと目があった、それは異形の形をしていた。
人のようなのだが、その腕は上腕から切り取られ、代わりにスキューバダイビングに使うような足ひれがついている。両足も縫い付けられ、その足にかぶせるように透明なビニール袋がホッチキスで腰のあたりに留められていた。
よく見ると顔もおかしい。口は丸形に開いたまま固定され、目は半分ほど飛び出し、皮膚は銀色に光っている、なにか銀色の破片を埋め込まれているみたいだった。
まるで魚のようだった、それも何人も泳いでいる。
歪な泳ぎ方で、体を上下に捩るように動かしてその場に浮かんでいる。
「ゴポ、ゴポポ」
その得体のしれない誰かは、固定された口を強引に動かしている、そのせいで口の周りから赤い液体が漏れだし、水の中に赤が加わってしまう。
「いや……!」
あすかちゃんは、私の服の袖を強く掴む。
ゴン。
中のひとりが頭をガラスにぶつけ始めた。
ゴン。ゴン。
更にひとり。
ゴン。ゴン。ゴン、ゴン。ゴン。
その数と勢いは、際限なく加速しだした!
ゴン! ゴ、ゴン! ゴゴゴン! ゴン! ゴン!
水槽の厚いガラスに激しく衝突し、その一部に白い線が現れ始めた。
(このままじゃ、ガラスが割れる!?)
恐怖と腕の中のあすかちゃんを守りたいという思いが、私をアクアリウムの奥へと走らせた。
ゴン! ゴン! ゴン! ゴン!
走り抜ける通路一面の水槽の全てを塞ぐようにして、同じような顔が頭突きを繰り返す。次第に、水槽からの光は消え、通路の明かりだけが私達を招く明かりのように一本の道を作る。
私の足は、ただそちらにだけ進む!
ゴン! ゴン! ゴン! ピシッ!
水槽内の白い線の太さが変わる。最初はそうめん程度だったが、今では二回り程大きくなり、はっきりとヒビだと分かるサイズになってしまっている。
ゴン! ピシッ! ゴン! ピシッ!
目の前に扉見えてきた、その上には非常口を示すマークがある。
ゴン! ピシッ! ピシッ! ピシッ!
もう水槽は持ちそうになかった。
私はあすかちゃんを抱え込むようにして、扉に体ごと当たるようにして入り込む!
バン!
大きく開かれた扉を急いで閉める。
ピシッ! ピシッ! ピシシシッ!
閉じられていく扉の向こう側から、そんな音が聞こえてきた。
間一髪、なのだろうか?
もし、この向こうで全ての水槽が割れてしまっていたら、この扉すらも壊してしまうほど大量の水が溢れて来てしまうかもしれない、そう考えると扉を押さえたまま動けなかった。
「おや?」
体が跳ねる、誰も居ないと思っていた部屋の中で声をかけられたからだ。
ゆっくりと声の方に振り向く。
「敷谷、さん?」
「ええ」
私をこのアクアリウムに閉じ込めたはずの人が、どうしてその奥の部屋にいるの?
「なんで、あんなことを!?」
「あんな? ああ、すみません。どうしても、その子をここに連れて来たかったので」
そう言いながら、倉庫のような室内にある机の上の白い布を掴んだ。
それは白衣、彼はそれを身につけた。
「あすかちゃんの事ですか?」
「ええ」
「どうしてですか? 自分の娘なら、普通に連れてくればいいんじゃないですか?」
「その子が……怖がってしまうんですよ」
腕の痛みで気づいた、あすかちゃんが私の腕を思いっきりつかんだまま震えている。
「あすかちゃん、どうしたの!?」
「あのひと、イヤー!」
「でも、お父さんなんでしょ?」
「ちがうもん! あんなおじさん、しらない!」
「え!?」
カチャリと、敷谷さんはかけていた眼鏡を外した。
その目は今までのどんな目とも違う、父の怒ったものとも、母の恨みの目とも。
ただ、恍惚としていて楽しくてたまらない。
狂気とは、こういう物なのだと悟った。
「さあ、実験しようね?」
机の上にあるペン立ての中から銀色の柄をした細いナイフのようなものを取り出した。
「君は何にしようか? 魚はいっぱいあるし、メリーゴーランドに埋めるも飽きた。姫の一部にするにも僕の好みじゃないし、ジェットコースターから落とすのも、鏡に塗りつけるのも芸がないしね。あ、そうだ。ふたりを混ぜようか?」
心臓の鼓動が早い、このまま潰れてしまいそうだった。
「いやー!!」
あすかちゃんの声が、私の記憶を引きずり出してくる。
小さい頃に、自分で隠してしまった記憶が。




