六 旅人
空があった。海は空の仲間だった。ぼくらは防波堤の上で、浮かぶように立っていた。
「大学生って暇なんですか」
雲に向かって言った。
「そりゃ、社会人に比べたら暇でしょう。きみらと比べて、っていう話ならちょっと分からない」
笹音さんは日傘を差した。当然ぼくはその陰に入れてもらえなかった。
「分からないって?」
「多分、一日の中でやらなきゃいけないことは中学生より多いんだと思う。大学の授業は夕方を過ぎてもあるし、サークルの練習はその後夜遅くまでやる。加えて日付を跨いでのバイト、飲み会。ああ、忙しい」
その声が随分と芝居がかっていたものだから、ぼくは後に続く「でもね」という言葉を簡単に予想できた。
「でもね、あたしは今の方が余裕あると思う。それはきっと、自分の時間を自分で自由に使えるようになったから。受ける授業も、入るサークルも、優先すべき用事も、自分で決める。勝手に休み時間を作れる。そういう意味では、大学生は暇かな」
「ぼくが訊きたかったのは――」
「一日で全部話そうと思えばできたのに、何でわざわざ四回にも分けて会ったのか、ってことでしょ」
分かっていたのか。ぼくは思わず口をぽかんと開けてしまった。
「あたしにも郷愁の思いはあるんだよ。だから、きみが訪ねてくれるって知ったとき、ちょっとわくわくした。二度と稲無田には帰れないあたしだから、きみから色々聞いて当時の思い出に浸ろうと思ったんだ。ごめんね。楽しかったよ」
そのときぼくには全てが見えた気がした。ぼくらを包むこの空と海との全てが。そして無意識に呟いていた。
「行かないで」
珍しく、笹音さんが驚いた顔を浮かべていた。それに気付いてぼくは意識を再び自分へと振り向けた。びっくりした。ぼくは泣いていた。
どうしてだろう。羊子が死んだときにも、念夫が眼の前で殺されたときにも、涙なんて出なかったのに、こんな何でもないような場面で、どうして。
「何言ってるの。ここを去るのはきみの方でしょ」
笹音さんは笑顔を取り戻した。もう触れることは叶わない笑顔だった。額縁に入れてガラス越しに眺めたいと思った。
「旅人は帰らなきゃ」
笹音さんの声は波に反射して煌めいた。
陽岸は雲の上の街だった。あらゆる建物は透明で、よくカットされたエメラルドみたいに綺麗だった。夏は涼しかった。肌は乾いていた。砂はどこまでもさらさらと流れた……。