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三 思い出

 ぼくは再び陽岸町を訪れた。今度は時間に余裕をもとうと午前中に。駅前で笹音さんと待ち合わせた。


 待ち合わせ場所にはぼくの方が早く着き、笹音さんは数分ほどして後ろから声を掛けてきた。そのとき一瞬「彼女」に話し掛けられたような錯覚に陥ったが、すぐにここが稲無田ではないことを思い出して我に返った。


 ぼくの顔を見ると笹音さんは「また会えた」と言って笑った。その日の笹音さんはTシャツにジーンズという簡素な服装で、前回会ったときよりも若干幼く見えた。


 笹音さんはどこへ行くとも言わずに歩き出した。ぼくは黙ってそれについていった。


「日本だと海岸線のすぐそばまで山や丘陵が迫っているなんてことも多いよね」


 突然話し出すものだから、ぼくには一瞬笹音さんの言葉の意味が分からなかった。


「稲無田は口折川の河岸段丘上にあるから、平坦な土地があって、たまに急な坂があって、また平坦な土地があって、って感じだったね。このあたりに大きな川はないから、風景もだいぶ違うよ。平らなところは少ない。どこを歩いても坂」


 このあたりの地形の説明。この前はこんな話題、一言も口に出さなかった。


「そういう話、好きなんですか」

「別に。ただ、旅人にはこの土地を紹介しなきゃと思って」

「旅人……」


 稲無田から二百キロ離れた祖父の家。そこから自転車で一時間の陽岸町。確かにぼくは今、旅人といえるのかもしれない。


「そういえばあの子はこういう話が好きだった。あたしも影響を受けているのかもね」


 あの子。それを聞いてぼくは即座に反応した。


「『彼女』のことですか」

「そうだね。きみが色々と探りたがっている『彼女』」


 笹音さんはぼくの顔を見上げると何か企みごとでもしているかのような表情を浮かべた。


「そうがっつかないでいいよ。今日はちゃんと話してあげるから」


 あまり信用ならない言葉だった。


 せっかく駅前に集合したのに、前回の待ち合わせ場所だった公園を通り過ぎて、海の方まで来てしまった。ぼくらは海沿いの歩道を歩き、左手には車道が、その奥に防波堤、更に向こうには小さな砂浜があった。車通りがないときは静かで、本当に波の音が聞こえるんだとぼくは少し感心した。


「陽岸の何がいいって、やっぱり海だね。まあ、海なんて全国どこにでもありますが。稲無田はさ、南の方の市境が口折川でしょ。橋を渡れば向こうにはまた陸がある。それが何だか閉塞感あるなあって。一方この街は海に開けている」

「言われてみればそうかも。でも、ぼくは好きですけどね。閉塞感」

「変な子だ」


 笹音さんはこんな感じで稲無田と陽岸を比べるようなことばかり喋った。何の狙いがあってそんなことを言うのかは分からなかったけれど、今日も「彼女」のことを話してくれないんじゃないかと、ぼくは早速不安になった。


「あの、どこに向かっているんですか」

「適当にぶらぶらしていただけだよ。散歩。きみも好きでしょ」


 確かに好きだけれど。


「強いて言うなら、あたしの家かな」


 またしてもぼくは不意を突かれた。


 笹音さんの家は海の近く、駅からは三十分ほど歩いたところにあった。二階建ての一軒家で、独り暮らしというわけではなさそうだ。


 扉を開けると中は薄暗かった。誰もいないようだ。スリッパを出されて、ぼくは素足のままそれを履いた。家に上がることになるって知っていたらサンダルでなんか来なかったのに。


 リビングのテーブルに着いたぼくは、笹音さんが飲み物の準備をしている間に部屋を眺め回した。正面には南向きの掃き出し窓があり、陽が差し込んでいる。外は小さな庭になっていて、ブロック塀の上には青空が覗く。置かれている家具に変わったところはなかったが、部屋一面に青色の壁紙が貼られているのが印象的だった。静かで、笹音さんが食器を取りだす音だけが響く。室内照明は点いておらず、昼前の薄暗さがぼくらを包んでいる。何だか、遠い地の小さな礼拝堂にでもいるような気分だ。もっとも、ぼくはこの国から出たことなんてないのだけれど。


 しばらくして笹音さんは、白い陶器と、銀のスプーンと、花柄が彫られたグラスを持ってきた。アイスクリームとアイスコーヒー。


「約束したからね。どうぞ」


 そういえば今度はアイスをご馳走する、なんて言っていたっけ。ぼくは「頂きます」とグラスに口をつけた。


「今日みたいに天気のいい夏の日には、あの子のことを思い出すよ」


 それを聞いてぼくは口に含んでいたコーヒーを慌てて飲み込んだ。笹音さんは思っていたよりずっと急に話し始めた。


「中学一年の夏休みだった。美術で写生の宿題が出てね。あたしは泣林の池の周りの風景を絵に描いていた。そんなとき、不思議な女の子に話し掛けられたんだ」


 ぼくは、ぼくが彼女に出逢った日の情景を笹音さんの語りに重ねた。


「あたしと同年代の、笑顔が可愛らしい、素敵な子だった。あたしたちはその場ですぐに打ち解けた。幼い子ども同士が友だちになるみたいにさ」


 笹音さんはこの前ぼくと稲無田の話をしたときと同じ表情で、どこか遠くを見つめていた。


「あたしはあの子が大好きで、いつも一緒にいた。名前も、あたしが笹音、あの子がササメで、まるで双子みたいだって」

「名前?」


 ぼくは思わず笹音さんの話を遮った。ササメ、聞いたことのない名だ。どういうことだろう。「彼女」は祟り神。名はカザカミ。それは「彼女」が認めたことだ。


「うん。あの子はあたしにそう名乗った。そして、知り合って数ヶ月が経ったある日、ササメはあたしに自分の正体を告白した。ササメは自分が不思議な力をもっていると言った。歳をとらず、姿を見せる相手を選ぶことができる。でもそれはあたしにとって重要じゃなかった。ササメが人間かどうかなんてどうでもいい。あたしはササメの正体が何であろうと友だちであり続ける。そう思っていた」


 それを聴いて、ぼくは少し安心した。


「でも、それはとんでもない思い上がりだった」


 笹音さんは自分のコーヒーを飲み干した。トン、とテーブルにグラスが置かれると、部屋に静寂が広がった。ぼくはどう振舞っていいか分からずに、アイスクリームにスプーンを入れてやり過ごした。


「これがあたしとササメの出逢い。きみは? 聴かせてほしいな。きみにとって、あの子は何だったのか」


 言われて、ぼくは「彼女」との間にあったことを一から語った。引っ越してきたばかりの頃に泣林で「彼女」と出逢ったこと。それから幾度となく「彼女」とともに稲無田の道を歩いてきたこと。羊子が殺されたこと。念夫が殺されたこと。それでもぼくが稲無田に留まったこと。


 ひと通り話し終えると、笹音さんは優しげに微笑んで言った。


「大好きなんだね、あの子のこと」


 どきっとした。ひと言もそんなこと喋らなかったのに。否定もできず、ただ俯くしかなかった。


「友だちが殺されたなんて話をしているのに、きみはずっとどこか楽しそうだった」

「そんなこと」


 ぼくは思わず声を大きくした。


「あの子のことが好きだから、稲無田に残ったんでしょ? すごいね。あたしにはできなかったよ」

「……ひょっとして」

「中三の春、あたしもあの子に同級生を殺された」


 「ひょっとして」なんて言ってみたものの、予想はしていたのだ。だからこそ、笹音さんはこうしてぼくと会って話をしてくれているのだろう。


「羊子さん、だっけ。きみにとってその子はどんな存在だった?」

「友だちでした。小学校から一緒で」

「念夫くんは?」

「友だちというほどの仲じゃなかったのかもしれない。でも絶対に死んでほしくはなかった」

「あたしは、あのとき殺された同級生は死んでもいいと思っていた。死んでほしいと思ったことすらある」


 いつの間にか笹音さんの顔から微笑みは消えていた。


「ろくでもない奴だった。ものを盗ったり、人を殴ったり、陰湿ないじめだっていつもやっていた。あたしは彼のことが大嫌いだった。だから死んだって聞いたときも、馬鹿な奴が馬鹿な死に方をした、それくらいにしか思っていなかった」


 この人でもこんなに強い言葉を使うのか。ちょっと意外な気がした。


「だけど、ちょっと変わった世間話程度に彼の話をしたとき、ササメは言った。自分が殺したんだって。さっき電話したのはあたしだよ、とか言うみたいに、ごく自然な調子で」


 確かに、「彼女」は羊子殺しの犯人が自分だということもあっさりと認めた。そんなことを考えていると、ぼくは話を遮らずにはいられなくなった。


「『彼女』は何故人を殺すんでしょう」


 本当は念夫が殺されたときにでも訊いておきたかった。でも、あれから一度も会わずに帰省してしまった。


「献くんはどうして生きているの?」


 最初、笹音さんはぼくの質問を無視したのかと思った。


「どうしてって……」

「はっきりとは答えられないと思う。多分、それと同じ。あの子にとっての殺すことって、あたしたちにとっての生きることみたいなものなんじゃないかな」


 何だ、それ。ぼくらが当たり前に、理由を言えないほど当たり前に生きているのと同様に、「彼女」は当たり前に人を殺すっていうのか。全然納得ができなかった。しかし、ここで突っかかっても仕方がない。ぼくは黙って笹音さんの話の続きを待った。


「そう。だから、理由とか悪意なんてなかったんだと思う。あの子としては当たり前に、何も考えずに人を殺した。だからその点は良かった。殺されたのは死んでも全然構わない奴だったし、ササメが残忍な性格をしているって話でもない。それでもあたしがあの子を受け容れられなかったのは、自分も殺されるかもしれないと思ったから。殺される心当たりがあるかどうかじゃなくて、純粋に人殺しの力が怖かった」


 随分と正直に話すんだな、と思った。同級生の死はどうでもいいとか、自分の命だけが惜しかったとか、ぼくならたとえそれが本心でもなかなか堂々とは話せないだろう。


「そんなとき、タイミング良く父の転勤の話が出た。一家で陽岸という街に移ると。やった、と思ったよ。ササメは土地に縛られている。稲無田を離れさえすれば安全だ。引っ越しはその年の夏休み。それまで気付かれなければ。あたしはササメを騙すことにした」


 「彼女」を騙す。神を騙す。それは途方もないことのように思えた。


「きみと同じで、あたしとササメは道端でばったり遇う、っていうのを繰り返して関係を保っていた。でもそれからあたしは別れ際に約束をすることにした。また明日会おうって。ササメは喜んだよ。そうして時間の許す限り、毎日のようにあの子と会った」

「どうしてそんなことを」

「確かにあの子には恐ろしい力がある。でも、全知でもなければ全能でもない。街で起きていることを同時に全て知ることなんてできない。あたしとお喋りしている間は他のことに気を配れない。そうやってササメの気を逸らしたんだ。あたしたちが引っ越しの準備をしていると知られないように」


 「彼女」の好意を逆手に取るようなやり方だと思った。


「そして、ササメには数日間旅行に行くと伝えて、あたしは稲無田を去った。帰ってきたら旅先での話をたくさん聞かせて。そんなことを言われたっけ。あの子は最後まであたしの言うことを信じていたみたい。もちろん、あれからあの街には帰っていない」


 話が終わって、ぼくも笹音さんもしばらく黙っていた。何だかすごく疲れた。


「今の笹音さんにとって、『彼女』ってどういう存在ですか」


 自分でも、雑な訊き方をしているな、とは思った。あまり頭が回っていない。


「懐かしい友だち、かな」


 その答えの意味を考える元気もなかった。


「アイスクリーム、ごちそうさまでした」


 そう言うと、ぼくは勝手に玄関に向かった。碌な挨拶もせずに家を出る。笹音さんも「送るよ」とは言わなかった。


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