二 祖父
夏休みには、祖父の家に家族で二週間ほど滞在するのが恒例になっている。ぼくは八月の頭に稲無田を発った。
「彼女」には何も言ってこなかった。黙って出るつもりだったわけではないのだが、あれから一度も会えなかったから。
今回の帰省に際して、ぼくにはひとつの目標があった。
偶然の成り行きだった。晴はある人物から「彼女」に関する情報を得たという。ぼくはその人の連絡先を教えてもらって自分で連絡を取った。名前は笹音さんといい、ぼくの中学の先輩だった。歳は五つくらい上だったろうか。笹音さんも中学時代、恐らくは「彼女」に会ったことがあるのだという。今は稲無田から引っ越して陽岸に住んでいる。陽岸という名前には聞き覚えがあった。祖父の家がある街の隣だ。そのことを告げると、笹音さんは会いに来ないかと言ってきた。電話で話してしまうことも可能だが、できるなら会って話したいと。ぼくとしても直接詳しい話が聞けるならそうしたかったし、帰省のついでに笹音さんに会いに行くことにした。
初日には何の情報も得られなかった。次に会う約束は三日後で、それまでぼくは祖父の家で受験勉強などをやっていた。
あるとき、祖父がぼくを散歩に誘った。ぼくらは山の方へ向かって歩いた。
祖父は昔からぼくをこんな風に連れて歩き、色んな話をしてくれた。ぼくは祖父と話すのが好きだった。中学生にはよくあることなのかもしれないが、両親には話したくないようなことでも祖父にだったら話せた。
祖父は退官した大学教授で、何の学問をやっていたのかよく知らないが、とにかく物知りだった。その割にいつもアロハシャツと短パンという軽装で、部屋にいることよりも外を歩くのを好んだ。
「おじいちゃんは海の方にあまり行かないよね」
ぼくらが歩いているのは山の中に造られた道路で、遠くにはかろうじて海が見えた。
「海はどうも怖い」
「海沿いに住んでいるのに?」
「海は見たいんだよ」
海が怖いという感じはよく分からなかった。
「一昨日どこへ行っていた?」
今更訊くのか、と思った。帰省中とはいえ、基本的に祖父も両親もぼくのすることは気に掛けないし、自由さとしては自宅にいるのとさして変わらない。
「陽岸」
「陽岸? 自転車じゃ遠かっただろう」
「まあ、一時間くらい」
祖父はそれ以上質問してこなかった。中学生が遠くまで自転車を飛ばすのに、たいした理由なんてないことが多い。
空を見るとよく晴れていた。昔を思い返してみても、帰省中に天気が悪かった記憶はあまりない。夏に雨の少ない気候なのだろうか。
「おじいちゃんは神さまって信じる?」
ふと、ぼくはそう尋ねた。
「神は信じないな」
「ぼくは神さまに会ったよ」
祖父はちょっと驚いたようだった。だけど、ぼくが予想していたほど不審がる様子はなかった。
「どうしてそいつを神だと思った?」
そう訊かれるのは少し意外だった。
「不思議な力をもっているから。ぼくと同い年くらいに見える女の子なんだけど、年をとらないし、ぼくにしか見えないんだ」
こんなこと、絶対に両親には言えないだろうな。
「人々の間で信仰されている?」
「うん。祠があって、お供え物をする人がいて、その神さまのお祭りもやってた」
「なら、神なのかもしれないな」
「おじいちゃんは神を信じないんでしょ?」
「神のあり方というのは特別なんだよ。つまり、神を信じている人と信じていない人とでは、神がいるってことの意味が変わってくるんだ。だから、私が神を信じない一方で献の見たのが神であるというのはあり得ることだ」
「神さまを信じる人にとって神さまは存在するし、信じない人にとっては存在しないってこと?」
「少し違う。神を信じる人と信じない人とでは、そもそも『神が存在する』ということの意味を共有できないんだ」
祖父の言うことはよく理解できなかった。ぼくは神さまの話をもうやめることにした。
「帰ったらスイカが食べたい」
「スイカなんてないぞ」
「じゃあアイスを買って帰る」
「それなら、麓のコンビニに行こう」
道は下り坂へと変わった。