一 笹音
ビー玉の夏。メロンソーダフロートの夏。クーラーの夏。涼しげなインテリアと、飲み物と、寒いくらいのエアコンの送風で、夏の喫茶店はむしろ冷たい。さらさら、あるいはきらきら。物音にはどこかしら透明で硬い響きがある。
ぼくの前に座っている女の人も、そんな夏の雰囲気を身にまとっていた。爽やかなブルー系の服装に、ほんのちょっと明るい髪色。肌は陽光のように白く、その眼は澄み切った泉のようにどこまでも深く見透せそうだ。
「冷たくて美味しい」
ウーロン茶に口もつけていないぼくをよそに、その人――笹音さんは六百円もするメロンソーダフロートを嬉しそうに食べた。
「で、何の話だっけ。献くん」
「はい。『彼女』について……」
「ああ、そうだ。女の子と歩いていると冷やかされるって話。今思うと中学時代って独特だったなあ」
本題に入ろうとしたぼくの声を遮って笹音さんは話し始めた。まだ会って一時間も経っていないが、相当にマイペースな人であることは分かった。
「表に出れば同級生に遇う……。そんな可能性を当たり前のものとして考えなきゃならなかったんだよね」
笹音さんは独りで喋っているが、ぼくには彼女が何を言っているのかよく分からなかった。
「キョトンとしてる。そうだね。当事者であるきみたちには分かりづらいことか」
「はあ」
「あたしは今大学生で、電車で三十分かけて大学に通っているんだ。住んでいる街と大学のある街を日常的に行き来しているわけ。でもきみらの学校はきみらの住む街と同じ稲無田にある。むしろ、街の外へ出るって方が珍しいんじゃない?」
「そうですね。特別な用事がなければ電車にも乗りません」
「本当に、あの街の中で日々を過ごしているんだよね。何だかとっても素敵だな」
笹音さんが懐かしそうに目を細める理由も、ぼくには全然分からなかった。
「あたしは稲無田で生まれたけど、中三のとき、こっちに引っ越してきた。あれから稲無田には帰っていない。今、どんな感じなのかな。あたしの故郷は」
少しこちら側に身を乗り出してくる。本当にそれを聞きたいといった様子で。
「笹音さんが中三の頃というと……、ぼくが十歳、小学四年生のときですよね」
ちょうどぼくが稲無田に引っ越してきた頃、すなわち、「彼女」と出逢った頃。
「あれから何か変わったかと考えても、どうも思いつきませんね。毎日あそこで過ごしているものだから。まあ、うちの中学の周りはだいぶ変わったかな。いつもどこか工事していて、新しい建物がどんどんできている。あの田園風景が失われていくのはちょっと勿体ない気もします。ああ、そうだ。駅舎が改装されて……」
そんな風に思いついた街の変化を挙げていくと、笹音さんは眼を輝かせた。そして、あそこは今どうなっている、あの辺りは今も昔のままか、なんて次々に尋ねてきた。
随分喋って喉が渇いてくると、笹音さんはお冷を何度もおかわりしながら、自分の大学生活のことを話した。日々の講義のこと、サークルのこと、バイトのこと、友人関係のこと……。ぼくは何だか話を元に戻そうとする気力も失せて、声の波の随に耳を揺らせていた。
笹音さんの話が一区切りついたところで、ふと窓越しに空を眺めると、その青色は寂しげに深まっていた。続いて壁掛け時計を見ると、午後六時過ぎ。いけない。
「すみません、そろそろ」
慌てて言うと笹音さんは楽しげに微笑んだ。
「時間? じゃあ、出ようか」
「いえ、その前に」
ただ雑談だけして帰ったのでは何のためにここまで来たのか分からない。訊かなくてはならないことがあるのだ。
「今日はもう遅いよ。急いでいるときにしたい話じゃない」
笹音さんは席を立ってレジカウンターへ向かった。
ああ、と思った。この人はぼくがここに来た目的を忘れてお喋りに夢中になっていたわけではなかったのだ。でも、どうして。もしかして、話す気なんて初めからなかったのだろうか。
笹音さんはぼくを駐輪場まで見送ってくれた。
「今日は献くんのしたい話、できなかったね」
傾いた日を背に、変わらない笑顔を浮かべる笹音さんは、変に謎めいて見えた。
「あなたが話させてくれなかった」
ぼくはそっぽを向いて言う。
「また来てほしかったから」
「えっ?」と、思わず、笹音さんの方に向き直ってしまった。
「あの子のことを知りたいと思っているのなら、また訪ねてきてほしい。そのとき話す気になるかは分からないけれど、あの子を想うのなら、何度でも会いにきてほしい。今度はアイスご馳走するから」
何故か心が安らぐような、優しい声だった。
「もちろん、また来ます」
ぼくは自転車を漕ぎ始めた。
また会いにいくなんて乗せられているみたいで癪だけど、笹音さんだけが唯一の糸口だ。話してくれるまで、何度でも訪ねよう。
それにしても不思議な人だ。無邪気に振舞うようでいて、何を考えているのか全く分からない。それが大人というものなのか。
馬鹿げた話だけど、違う出逢い方、例えば笹音さんとぼくが同い年で、クラスメートとして出逢っていたのなら、彼女に好意を抱いていたかもしれない。そんな変なことを思うのは、その容姿も声も、どこか「彼女」に似ているから。どうしてか時計の針を止めてしまっている「彼女」だけど、仮に成長したとすれば、多分あんな感じの大人の女性になるのだろう。
陽岸町は入江の住宅街だった。観光客の目を引くような派手さはないけれど、駅前はそれなりに賑わっていて、中規模のショッピングモールがあり、街の外れの方にもさっきの喫茶店のような上品な店がある。うるさくなく、それでいて寂しさも感じさせない。きっと住み良い街なのだ。
太陽は海岸線と平行に、ぼくが自転車を飛ばしている先へと沈んでいった。こう何十分も西の方を向いていると日没のスピードが体感できる。地平線に近い空は虹色がかっていたが、次第に青に飲み込まれていく。風は気のせいかだいぶ涼しい。太陽と追いかけっこをするような形で、ぼくは祖父の家へと帰っていった。