我が家の家出(短編5)
通勤にひどく疲れる。
郊外でバスが走っていないので自転車だ。帰宅したときは汗ダクダク、体はヘトヘトである。
朝は下り坂だからいいとしても、帰りはそのぶん上り坂となる。もよりの駅から我が家まで一時間ちかくもかかるのだ。
この通勤の惨状。
なにも好きこのんで、こんな小高い不便な場所に移り住んだのではない。だれのせいでもない。我が家の家出から始まったことだ。
家の家出?
奇妙に思われようが、実際に起きたことなのだからしょうがない。
隣家のサトウ氏も同様だった。彼もマイホームに家出され、その後なんやかんやあって、今はしかたなく自転車通勤をしている。
「健康のためにはこれでよかったのですよ」
サトウ氏が苦笑まじりに言う。
「ですな」
オレも笑って答える。
なにはともあれ大切な我が家は手ばなせない。
なんたって三千万円、しかも三十年返済のローンを組んで、やっとこさ手に入れたのだから……。
コトの発端は半年ほど前のことである。
むろん当時の我が家は、このような山の中腹ではなく、交通事情のよい街中にあった。いや、いたと表現した方が適切か……。ともかく今ある現在の位置ではなかった。
その日。
我が家がなんの前ぶれもなく言う。
『好きな子ができたんだ。もちろん、ボクと同じで家なんだけど……彼女と結婚して、いっしょに暮したいんだ』
結婚相手が彼女というからには、我が家はどうやら男であるらしい。
「暮らすって、どこで?」
アホらしいとは思ったが、オレはとりあえず聞いてみた。
『どこでもいいけど、できたら二人でいられる広いところがいいな』
「じゃあ、ここを出ていくということか?」
『うん』
「とんでもない。ここに住み始めて、まだ一年もたってないんだぞ」
オレはつい声を荒げていた。
「そうよ! そんなの、ぜったい反対よ」
妻も口をとがらせた。
『もう彼女と約束したんだ、結婚するって』
我が家は一歩も引き下がらない。
「で、相手はどこのどいつだ?」
『すぐそこ。ほら、かわいい子がいるでしょ。アレが彼女なんだ』
我が家が目を輝かせて話す。
「ふむ」
オレには思いあたる家があった。
五区画ほど離れた土地に近ごろ建ったモダンな家である。丸っぽい形をしており、外壁はピンク色のパネル。屋根もシャレた造りをしていた。
「サトウさんのところだわ」
妻もピンときたようだ。
「その家か?」
『うん、とってもかわいいでしょ』
我が家がしゃあしゃあとほざく。
サトウ氏の家が建って、まだほんのひと月そこらである。なのにコイツらときたらもう恋仲に。いや、結婚する仲にまで……。
なんとも油断のならないヤツらだ。
「ぜったい許さんからな」
オレはピシャリと釘を刺した。
「きっと、サトウさんだって反対するわよ」
妻も追って言う。
両親、つまりオレと妻の両方に反対され、我が家は大きくうなだれた。そのひどい落ちこみようといったら、今にもくずれてしまうのではないか……と、心配になったほどである。
数日後。
我が家はとつぜん家出をした。
正確に言えば、サトウ氏の家とカケオチをした。双方の家族の留守を見はからい、家財道具ごと行方をくらましたのだ。
とんでもないヤツらだ。
サトウ氏の区画を前に――もちろん、すっかり空き地となっていたのだが……。
「こまりましたねえ」
サトウ氏は途方にくれている。
「じきに見つかりますよ。アイツら、ズウタイがでかいから」
オレはなぐさめるように言った。
「ですね、そんなに遠くへは」
「ただヤケになって、バカなことを考えなければいいんだが」
「わたしもそれが心配でして」
あれこれ話しているところへ……車が止まり、背広姿の男が歩み寄ってきた。
「こちら、サトウさんのお宅でしょうか?」
「はい、そうですが」
サトウ氏も知らない男のようだ。
「で、あなた様はコミヤさんでは?」
男がオレにも顔を向ける。
「ええ、コミヤですけど」
「やっぱり」
がら空きになった土地を見て、持ち主が見つかってよかったです、と男は言った。
「もしかして、わたしらの家のことでしょうか?」
サトウ氏が身を乗り出す。
「はい、表札の名前と住所をたよりに来てみたんですよ。申しおくれましたが、わたしはこういう会社の者でして」
男は財布から名刺を取り出し、慇懃に一礼してからサトウ氏とオレに渡した。
見るに、名の知れた建設会社が記されてある。
「わたし、販売の方を担当しております」
自己紹介をしてから、男は話を続けた。
「あそこは造成中でして、土地の分譲はまだやってないんですよ。ですので……」
「あそこって?」
サトウ氏が名刺から顔を上げる。
男は聞きなれない団地名を告げた。
ここから車で二十分ほどの距離にある、現在はまだ開発途中の造成地らしい。
そんな遠くまで、アイツらはどうやって移動したのだろうか。まさか手に手をとって……いや、そんなことはどうでもいい。とにかくアイツらが邪魔になっているのだろう。
「で、どうすれば?」
オレは聞いてみた。
ヤツラはなんたって家である。かかえて帰るというわけにはいかないのだ。
「このままでは不法占拠ということで、会社としてもこまってるんですよ」
男がやんわりとした口調で続ける。
「いえ、いずれ近いうちに分譲を始めることになってるんですよ。ですから土地を購入さえしていただければ、会社としてはいっこうにかまわないんです。むしろ、ありがたいことでして」
「待ってください。買うといったって、先だつものがなければ。そんな大金、うちにはありませんよ」
オレはあわてて男を制した。
「そういうことでありましたら、当社は分割払いのご相談も受けたまわっておりして。購入資金のことでしたら、そうした銀行のご紹介もいたしますが」
男が営業の顔になって説明をする。
「どうしますか?」
サトウ氏がオレの目をのぞき見た。
「うーん、よわりましたな」
新たに借金をする余裕なんてない。我が家のローンの大半がまだ残っているのだ。
「ホント、よわりましたね。お金はないし……かといって、このままでは迷惑をかけますし」
サトウ氏もこまりはてている。
借金に関してはうちと同じ状況なのだろう。
「おそらくうちの家が、おたくの家を……。すみません、まきぞえにしてしまって」
オレはサトウ氏にわびた。
今回のカケオチの件は、我が家がそそのかしたにちがいない。サトウ氏の娘、いや家を強引に連れ去っていったのだ。
「いえ、わたしの家だって。こういうのは共同責任ですよ」
「とにかく行ってみますか?」
「はい。説得すれば帰ってくるかも」
サトウ氏がうなずく。
「では、さっそく現地にご案内をいたします」
男はオレたちを車に乗せたのだった。
向かう車中。
男が行先について説明してくれた。
駅から車で十分ほど。山の中腹に百区画ほどを造成中。ほぼ完成間近で、道路が整備される三カ月後には土地の分譲が始まるという。
車が現地に着いた。
我が家とサトウ氏の家は、造成地の入り口近くに寄りそって並んでいた。
なんとも幸せそうである。
男が二軒の家の前で車を止めた。
「とんでもないことをしでかしやがって。みんなに迷惑をかけてるのがわからんのか。すぐに帰るんだ」
オレは車を飛び降りるとすぐさま、はげしい口調で我が家をなじった。
「なあ、すぐに帰っておくれよ。オマエが出ていったんで、住むところがなくてこまってるんだ」
サトウ氏は泣き落としで説得する。
『イヤ、帰らない。ここに住むって、もう決めたんだもん』
サトウ氏の家は口をとがらせた。
「そんなこと言わないで。なあ、帰っておくれよ」
サトウ氏はあくまでも低姿勢である。娘のあつかい方はおもいのほか気をつかうようだ。
「みろ、サトウさんもこまってるじゃないか。クレーンで吊り下げてでも連れもどすからな」
『こわれてやるから』
我が家がいじけてひねくれる。
「なんだ、そのコケオドシは? そんなにこわれたいんなら、オレがぶっこわしてやろうか」
「まあ、落ちついてください」
サトウ氏が背後からオレの腕をつかむ。
『ねえ、コミヤのおじさん。カケオチは、あたしが言い出したことなの。だからこのヒトのこと、そんなに責めないでほしいの』
サトウ氏の家が我が家を見やってかばう。
これは予想外だった。なんと、我が家の方がそそのかされていたのだ。
「ふむ」
コイツ、なんてだらしねえんだ。コロッと女にそそのかされやがってから。
『ゴメンね』
サトウ氏の家が我が家を気づかう。
我が家はウジウジとしているばかりで、なんの主張もしようとしない。どうやら、すでに尻にしかれているらしい。
ホント、情けないヤツである。
サトウ氏がオレに向かって頭を下げる。
「すみません」
「とんでもない、これは共同責任ですよ」
オレはサトウ氏の言葉をそのまま返した。
「しかし、こまりましたねえ。で、コミヤさんの家はどう思ってるんでしょうね?」
「こらっ! オマエもなんとか言ったらどうだ」
オレは我が家に怒鳴ってやった。
『このまま彼女と……』
「じゃあオレらに、雨と風に打たれて寝ろ、そう言うんだな」
『そ、そんな……』
返事のできない我が家にかわって、サトウ氏の家が言葉を返してきた。
『おじさん! ううん、おとうさん。それはいけないわ。だって、病気になっちゃうもん』
オレのことを、おとうさんと呼びやがった。もう結婚した気でいる。
だが、ことのほか思いやりがあるではないか。感心していると、サトウ氏の家はさらに続けた。
『それでね。おじさんたちがここに引っ越してくるというのはいかが? ねっ、いっしょに住もうよ』
実にあっけらかんとした言い方である。
「そうもできなくてな。ここの土地を買うには、さらに借金をしなくちゃならんのだよ」
サトウ氏は、ダメだと首を大きく振ってみせた。
『借金って?』
「オマエのときの借金が、今もたくさんあってな。これ以上の借金なんて、とてもムリなんだよ」
『だったら、あたしたちが出た土地を売れば? ここより価値があるはずだわ』
サトウ氏の家が賢い提案をしてくる。ボンクラ我が家にくらべ、ずいぶん頭がいいようだ。
「そうか、たしかにそういう手があるな」
オレは妙に納得してしまった。
「いいんじゃないですか」
サトウ氏はずいぶん乗り気である。
そこへ、営業の男がにじり寄ってきた。
「いかがです? 同じ広さなら、ここはあちらの半分の価格。ここの方が少し広いとしても、資金は十分たりると思いますよ」
したり顔で土地の購入をすすめてくる。
「しかたないか」
「しょうがありませんね」
ヤツらの要求を受け入れ、オレたちは土地購入の契約をすることにした。
『早く引っ越してきてねー』
サトウ氏の家の声に見送られ……。
オレとサトウ氏は、山の中腹にある造成地をあとにした。
こうしたことがあって、通勤にひどく疲れることになった。
ただ、悪いことばかりではなかった。
空気がうまい。
ながめもすばらしい。
今朝も早くに我が家を出て、駅まで自転車を走らせる。
これでよかったのではないか。
オレはそう思っている。