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銃の歴史4・ドライゼ銃の登場と後装式銃の発展

 フリントロック式銃登場は軍用銃として当時のスペックは高性能でした。騎士の甲冑を撃ちぬくことができ、機動力、集弾陣形による弾幕射撃を可能としました。しかし、装填速度という問題は火縄銃時代から変わっていないのは銃口から装填を行う前装式特有の弱点でした。


 その影響を少なくするため、1300年頃、銃が生まれた頃から紙製薬莢が使われていました。いわゆる早合より早く使われていた物で、銃口への装填しやすさを上げるために潤滑剤を塗り込められました。

 この紙製薬莢は装填しやすいようにするだけでなく、銃口内部に残る火薬の汚れを減らし、銃身の寿命延長に貢献しました。が、基本、前装単発式のマスケット銃なので、どうしても連射性能が遅い上、伏せ撃ちで再装填できない。やるとなれば遮蔽物に隠れての射撃となる。


 そこで、プロイセン王国のヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼが考えだしたのが現在のボルトアクション式ライフルの基礎をすべて組み込んだ画期的な後装式銃、ドライゼ撃針銃です。


 このドライゼ銃はパッカーション式、雷管式と呼ばれる方式を採用したものです。


 パッカーション式は日本でも市販されている発火式モデルガンや陸上競技のスターターとしても使われている概念で現在、世界中で広がっている銃の薬莢と同じです。ただ違うのは雷管を薬莢後部につけているか?紙薬莢内部に仕込んでいるか?というぐらいの違いです。


 初期型のパッカーション式銃は今までのフリントロック式銃に改造を加えた物で装填方法は銃口から火薬と弾を込めて、雷管を火打ち石の代わりに仕掛け、引き金を引くことで雷管を爆発、その火炎で銃身内部に仕込まれた火薬にぶつけ、連鎖させた爆発で弾を打ち出すという方法です。


 雷管式になったものは爆発力が高いため、フリントロック式にもあった不発が起きにくいというものでした。しかし、雷管は強力な爆発を起こすため、射手に雷管の破片が飛び、顔面、特に目に負傷を追わせる危険性がありました。


 また、従来型のフリントロック式銃はデザイン的問題として撃発システムが銃身の真横にあるという重心に関する問題があり、それを解消したのがドライゼ銃です。


 とはいえ、ドライゼ銃も弱点がありました。


 1つはボルトアクション式の元祖であるが故に、今まで使われていた前装式銃より少ない火薬を使わないと可動部分が壊れるということ。

 2つ目はその火薬が少ないがために従来型の銃より射程距離が短いことでした。プロイセン王国の最大のライバル、フランスが開発したシャスポー銃の半分ほどでした。

 3つ目は黒色火薬と雷酸水銀の燃焼ガスは腐食性が高いがために、メンテナンスは欠かせない。メンテナンスを怠るとガスが漏れ出し、ボルト部分から吹き出したガスによる負傷が起きたりした。

 ほかにも撃針が折れやすいとか、連射した場合、ボルトや銃身がススにまみれ、清掃が必要だったりします。


 とはいえ、このドライゼ銃の登場により、当時の戦術だった隊列を組んで一斉に銃を撃ち合い、陣形が乱れたら敵に銃剣を突き刺して突撃していく戦列歩兵方式では不可能だった伏せ撃ちが可能となりました。

 伏せ撃ちができることにより戦列歩兵方式にはできない匍匐前進とかの行動で防御力、攻撃力強化へと結果的につながりました。


 しかし、ドライゼ銃は開発された当初、連射速度より威力と射程距離が重視されていたため、プロイセン以外の国はイギリスだけが評価、他の欧州は研究はするも威力と射程が問題と従来型の戦列歩兵方式とマスケット銃を運用していました。


 その転機となったのが普墺戦争。プロイセンとオーストリアの間で起きた戦争でオーストリア兵が1発撃つ間にプロイセン兵が伏せた状態で5発、熟練したものであればそれ以上の弾数を打ち込んでくることから、ニードルガンは王者であるとされ、フランスでは風刺画に描かれるほどの評価を受けました。


 このように高性能な銃であるドライゼ銃もフランスとの軍拡競争を繰り広げ、ドライゼ銃の改良を繰り返しましたが、1870年のプロイセンとフランスの間に起きた普仏戦争により、双方が紙薬莢式のボルトアクション銃を使うことになりましたが、プロイセンは電信や鉄道などの新技術、参謀本部体制や諜報部などの効率的運用によりフランスに勝利しました。


 この結果、プロイセンはドイツ帝国へとなり、ドライゼ銃も徐々に広まり始めた金属薬莢式銃への転換を余儀なくされ、1871年に現在のボルトアクション方式へと進化したモーゼル1871ライフルへと交換されると、約30年の短い間でしたが、世界初の実用式紙製薬莢を使ったドライゼ銃はプロイセンの発展の礎として、その役目を終えたのです。


 

 ちなみに余談ながら、幕末期の日本でもドライゼ銃は最新式後装銃として紹介されており、紀州徳川が廃藩置県前に独自の徴兵制度と共にプロイセン式軍事制度を採用し、その中で軍事顧問招聘とドライゼ銃を購入すること、独自に生産できる工廠設置を目論んでいたことが記録に残っています。


 そのドライゼ銃はプロイセンの普から普式ツンナール銃と呼ばれ、西南戦争で使われたり、村田式小銃配備後は通信部隊、砲兵部隊などの自衛武装、射撃訓練、銃剣戦闘訓練用に使用されていた他、旧型になったソレは択捉などの屯田兵たちの自衛武装として明治30年頃まで使われたとされます。


 

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