銃の歴史3・日本式火縄銃の流れ
鉄砲伝来が始まりという説が有力なのでその説を取り入れて考えて見ました。
日本式の火縄銃、西洋式マッチロック銃、この違いは肩当ての有無が大きいです。
日本の火縄銃はいわゆるソードオフショットガンの用に銃のグリップの部分を頬に押し当てる。どちらかと言えば弓矢の構え方にそっくりと言えるでしょう。
というのも、日本に伝来した物はどちらかと言えば西洋側では旧型、古いタイプの中古品だったという説が濃厚です。
しかし日本ではヨーロッパで流行っていたシアロック式ではなく、スナッピング式を取り入れました。
スナッピング式は瞬発式とも言え、引き金を引いただけで確実に作動する、そんな方式でした。
狙撃向けの作りでしたが、その分、使い手の技量が試される武器ともなったのです。
鉄砲伝来以降(他にも様々な説があります。が、ここはあえて鉄砲伝来説を踏襲します)、種子島に影響された各地の武将は可能であれば自分の領地の兵士に持たせるという考えが広まりました。
そこで各地の刀鍛冶に研究を始めた結果、国友、堺、薩摩、備前、仙台などの刀鍛冶の技法が鉄砲鍛冶へと進化しました。
そして信長が長篠の戦いで火縄銃を有効に使ったのが有名ですが、現在では3000丁を集めて使ったという三段撃ちという仕方はしていないのではないか?そもそも3000丁は揃えていないのではないか?と又々、歴史の研究課題が出てきています。長篠の戦いが行われた古戦場とされる場所からは鉛球がそんなに出ていない。三段撃ちはなく、馬防柵と銃眼付き土塁での防御銃撃ではなかったか?参考資料が捏造されている部分があるんじゃないかとかの比較です。ともかく、最低でも1000丁は揃えた信長は武田勝頼を打倒、数年後の関が原の戦いへと変わります。
さて、関ヶ原の戦いでは西軍の薩摩、島津が鉄砲による有効な戦術を生み出します。
1つは三段撃ちを併用した繰り出しという戦術です。三段陣形を組み、一段目が撃ち、再装填している間に次の段の者が前進、また撃って、交代して前進、一歩づつ着実に、銃列を前進させ、弾幕を張って動きを阻害して前進するという方法です。これで中央突破に成功した記録があります。
もう一つは捨てがまり、関ヶ原の戦いに敗北した西軍は各々の所領に向かって転進しましたが、薩摩は流石に遠い。しかも撤退戦は相手にとって追撃戦、追撃戦こそ手柄を立てるチャンスというのはよく言われます。
そこで鉄砲使いを少数、置いて殿を任せ、追撃してきた敵戦力に銃撃を加え続けるという作戦です。
絶対死守、死ぬまで戦えという非道な作戦です。武将としては不適切な戦い方ですが、そもそも、繰り出し戦術により徳川方の敵前中央突破に成功したわけですが、残存戦力は300ほど。その状態で撤退戦をマトモにやると全滅の憂き目すらあったわけです。
薩摩に戻れば何とかなるが、全滅するよりマシ、致し方なしという戦術です。
優秀な銃撃手、薩摩筒と呼ばれる品質の良い火縄銃が組み合わさったからこそ出来た戦術です。
ちなみに雑学になりますが、三段撃ちの代わりに銃撃手1人、装填手数人、数丁の銃の組み合わせで発砲した銃を渡し、装填されている銃を受け取るという複数の銃を交換する戦い方は鉄砲傭兵集団として名を馳せていた雑賀衆、根来衆に使われ、本願寺を攻めた信長を苦しめたとあります。この戦いかたを上杉流軍学では烏渡りの法と称したとされ、紀州徳川では薬込役という称号で後の御庭番衆の前身の名前として知らされています。
そして時代が進んで徳川幕府成立、江戸時代になると徳川綱吉による火縄銃の制限、鉄砲改めと百姓への火縄銃原則所持禁止という政策、鎖国による海外情報の流入制限により、火縄銃の進化は進まなかったとされています。
江戸の関所で言われるのは入り鉄砲に出女と言われるもので江戸のお上への銃撃を阻止するための鉄砲規制の入り鉄砲、農村部の貧しい女性が吉原などの遊郭から逃げ出してしまう出女。そんなことで銃の改良は火縄式から基本的には進化しなかったのですが、長崎の出島などの交流での知識、または密輸などのサンプルなどから、それぞれ藩は銃を改良しようとした記録、物的証拠としての試作品がありました。
その中にはホイールロック、フリントロック式もあり、それらを使った絡繰り細工ということでタバコ着火用のライターも作られましたが、一番の問題は日本ではフリントロックに使える良質な火打ち石が取れなかったことが問題でした。
さらに言えば武士の立場が武人ではあるが、同時に幕府、藩を維持する官僚という風に武術一辺倒では成り立たない立場となりました。結果として剣術が剣道になったように鉄砲術も武芸の1つへとなりました。
結果として発射時に激しく撃鉄を撃ちつけ、火花を着火剤に使うフリントロック式、不発が起こりやすいホイールロック式は結果として使われることなく、命中精度が高い(マスケットとしてはだが)火縄銃が競技射撃となっている鉄砲術へ採用されました。
その結果ですが、当時、銃器保有数だけでいえば日本がトップとなっていました。
事実、現在でも世界中で行われている古式銃の競技射撃では日本の火縄銃、及びそのレプリカモデルが人気があり評価が高いです。
ただ、日本の銃刀法の規制で銃の所持は厳しく、世界の競技射撃では日本勢が人数が少ないのに毎回上位に食い込んでいる方です。
さて、江戸期の火縄銃に話を戻しますと、武芸としての競技射撃の鉄砲術以外には熊などの害獣駆除用に農村部に火縄銃が販売、所有されましたが、その数量管理は厳しく、一揆に備えて警戒していました。
そもそも、各地の武将が農民や下級武士出身なので農民の武装蜂起の怖さは知っていたわけですから。
そして幕末になると火縄銃では速射性能がないことが問題となり欧州の連射性能が高いパッカーション式(雷管方式、今でも主流の薬莢を使う方式)銃の購入やパッカーションシステムを火縄銃に改造して取り付けるという改造型もつくられました。
幕府の敗北が決まると明治政府は各地にあった鉄砲術の流派を一掃し、統一された陸軍式射撃術と銃器の運用を始めましたが、当初は大量に購入した各種銃器があったことから弾薬補給、メンテナンス、射撃訓練と別の銃で受けた訓練を元に別の銃を使うという非効率すぎる一面がありましたが、明治13年に薩摩藩から新生明治政府軍の兵器運用などの責任者、村田経芳により村田銃が作られると、旧式の火縄銃が狩猟用などに民間に払い下げとなりました。
以降、火縄銃は新規生産などは大正時代から昭和初期まで続きましたが、明治30年に有坂成章が38式歩兵銃の前に30式歩兵銃を開発すると、民間へはライフリングを削った上、散弾銃へと改造された村田銃の払い下げが軍の資金獲得のために行われると、火縄銃からより威力のある村田式散弾銃へと代わり、マタギなどが購入し、狩猟に活躍しました。
ちなみに、太平洋戦争末期、陸軍は本土最終決戦用に粗製濫造でも(作動部分が内蔵していないから多少の不良弾でも粗悪な銃身でも使える)作れる火縄銃を再度作り、国民簡易小銃として量産配備する計画も立ち上がり、ごくごく少数の試作品が確認されました。
そういう意味では歴史イベントでの空砲射撃はやるだけの意味のある伝統ともいえますね