銃の歴史1・火薬の発見とタッチホール式銃の開発
銃の基本は如何にして火薬を爆発させて弾を撃ちだすというコンセプトです。
ではその起源はどこかというと、古代中国。618年頃、唐代の頃とだとされます。
唐代に記された書物には黒色火薬と思われるものがあり、硝石、硫黄、炭を混ぜると燃焼、爆発が起こりやすいと書物には記されていました。
そして本格的に銃器へと進化したのが唐の次の時代、マ・クベさんの好きな北宋の時代だそうです。
この頃の武器には基本として2つの考え方がありました。
1つは既存の矢に取り付けて加速させたり、竹筒に火薬をつめてロケット花火のように一気に発射する方式
もう1つは鉄や青銅(一般的には青銅とは言われていますけど、真鍮という方が正しいようです)の短い筒に棒をつけて爆発時の火薬の燃えカスなどから防御しながら砲弾を飛ばすもの
この2つが銃の歴史の始まりだとされます。
北宋の時代には突火槍、明の時代には火竜槍が生まれます。基本はロケット花火の水平射撃という奴でして、拠点防御用の牽制砲撃用の武装だったそうです。角度45度で台座に載せておき、敵を確認したら、松明で導火線に一気に火をつけて撃ちだすというものです。
ロケット弾の原理とも言える加速方式ですが、この方式だと、面制圧という概念になってしまいますし、更には炸裂弾頭がないわけですから効果は低いとしか言えないものでした。
ちなみに火槍とはこの流れを受けて、中国では小銃のことを火槍と当て字にします。
そしてもう1つの火箭は同じロケット花火と同じ発射方式ですが、こちらは矢に直接、ロケット花火をつけるというものでした。使い捨てに等しい矢ですが、こちらも一斉射撃による牽制攻撃向けの武装となってしまいます。
基本的には火薬の爆発力を武器とする武装というものはなかなか難しいものです。初期の射撃武装の弓を如何に強力にするかという方向に持って行ったわけですが、矢だと推進力にはなるが、威力が足りない。また牽制の武器にしかならないというものとなり、タッチホール式銃へと進化していったのです。
タッチホール。直訳すると穴に触れる。文字通り、金属の筒、先込め式の銃の原型に穴を開け、中にある火薬に直接、火縄を押し当てる、または銃口から直接火種を放り込むという強引な方式でした。日本語訳では指し火式。穴に火を差し込むことからつけられたそうです。
この基本が生まれたのは960年から1279年ごろに栄えた宋王朝、正確には北部に生まれた金王朝の方からの侵略を受け、北部を奪われた1127年以降の南宋時代の子窠という人が火槍の原理を作ったとされます。
ただ、この当時の火槍は命中率も最悪、火薬も粗悪な錬成されていない黒色火薬で遅発、不発などの事故も多く、どちらかといえば、やはり火箭と同じように防御用に使われるものでした。
そして金王朝も銃の構造や火薬製造技術がわかったので竜火槍ならぬ飛火槍という武器を生み出します。
基本は鹵獲されたものを構造解析したのでしょうか、非常に似通った物で、銃器の分類としては火槍としてまとめられる分類です。
そしてモンゴル帝国が北部の金王朝、南部の南宋王朝を下し、中国を支配することによって当時、世界最大級の帝国となっていたモンゴル帝国により火薬と銃の概念は世界へと広まります。
その証拠としてはアーノルド・パーシー氏がまとめた「世界文明における技術の千年史」新評論によれば、中国がモンゴル帝国になった頃、広まった火薬技術によって1250年代、モンゴル帝国によるイラン侵攻では導火線を併用した火薬を投石機で投げるという榴弾攻撃が行われた記録があります。
基本的なダイナマイトのような手投げ弾自体は北宋時代に既に生まれていましたが、手で投げるという行為が危険ということで白兵戦での運用が難しい武装だったそうです。
1280年にはシリア、地中海南部で火槍についての記述がなされ、イスラム文化圏のシリア、マルムーク王朝でも火薬の情報が伝わり、マドファとよばれる火槍が1300年頃に生まれたとなっています。
そしてモンゴル帝国の影響を受けて西洋で銃身が長い銃が生まれた・・・・というのが最近までの通説ですが、最新の学説では1288年当時の青銅製銃身が中国で確認されたため、初期型の銃の概念はモンゴル帝国に配備された物が支配下にあった南ロシア経由で西洋に伝わったというものが学説として確立されました。
そして15世紀神聖ローマ帝国において騎兵でも使いやすいハンドカノンがフス戦争などで市民の武装として使われると、鍛錬と経験を積んだ熟練の重装騎兵相手に撃ちあうと、騎士を倒す武装となり、火縄銃へと進化してきました。
次は進化の過程を見てみましょう