着陸
「頼んだ覚えはないんだが」
重たいまぶた、目元に隈をたたえたまま、俺は目の前の人物に投げかける。
視界には、男が1人。
喉仏の位置まで伸び切った金髪。雑に伸びているはずが、絹のように柔らかく光を反射するせいか、むしろ品位を感じる。白いシルクブラウスの上には外套を羽織っており、これも身なりの良さを感じさせられた。
ーーリシャール・カルヴェ。今回の手紙の送り主であり、俺の父と同じ時期に「フランスの海賊」船長としての名を連ね、かつてフランス周辺の海域を統治していた人物だ。
「え、なに? なんのこと?」
アイスグリーンの瞳は、キョトンとした様子で視線を向けてくる。
俺はたまらずため息をつき、先ほどと全く同じ文言を繰り返す。
「モーニングコールを頼んだ覚えはない、『出向いてくれ』とも言っていないはずだ」
「いやぁ…すまないね。つい、見覚えのある船を見かけてしまったから…」
「……だからって、わざわざ海賊の船に上がり込むのか? とても『一般市民』とは思えない行動だが」
「はは、……昔の癖が抜けなくてね」
リシャールの外套の裾が重みで揺らぐ。現役の時と変わらず、その高級そうな外套の裏には、幾つもの刃物が秩序正しく収められているはずだ。
彼は迎合するような薄い笑みを浮かべていたが、瞳の奥は探るようにこちらを覗き込んでいた。
「まさか、君が来てくれるなんて思わなかった。それに……ウィル。寝室の護衛はどうしたんだい?」
「……なにが言いたい?」
「……いや、……今回のところは、私が旧友だから見逃してくれた……ということにしておこうか」
リシャールは言及しなかったが、彼が俺の身を案じていることは伝わってきた。あるいはーー…船員が俺を「守るに値しない」と判断していることを、悟られた可能性もある。父が生きていた頃は、いつも寝室の前には2人の戦闘員が立っていた。そのことも彼は知っているのだから。
「リシャール、そろそろ本題に入ってくれ。」
「はは、嫌だなあ……僕はただ、君が元気にやっているのか心配だったんだよ。こうしてまた会いにきてくれて嬉しいよ」
「……そうか…」
なぜか、室内には息苦しさが漂っていた。たまらず俺は古びた窓枠に手をかけ、風を通すために隙間を開ける。窓の外では、濃い霧が海面と空の境界をぼやかしていた。
「まだ朝食はとっていないだろう?」背後から、リシャールの声がかかる。
「なんだ、藪から棒に。今の俺様をみろ、どこからどう見てもそうだろ」
「ならよかった。再会を祝して、食事をご馳走しようかと思って。…自宅に招いてもよかったんだが、港からは少し距離があるだろう?私が懇意にしているところでよければ、案内しよう」
リシャールは微笑んでいるが、その瞳は俺の反応をじっと観察している。
「リシャール……、せっかくここに来たんだ。船員に用意させてもいいんだぞ?」
「え゛っ……あー、…あはは、いや、遠慮しておくよ……君こそ、久しぶりの陸地だろう?ここまで来て、イギリス産のマズ……質素な食事を摂る必要はないと思うけれど……」
リシャールは明らかに怯えた表情を見せた。俺だって、自分の拠点からは極力離れたくないが……致し方ない。船員らには休暇を与えて、船から離れてもらおう。
「……準備するから5分くれ」
リシャールは返答の代わりに立ち上がり、扉の方へ歩き出した。外套の揺れに合わせ、金属同士が擦れるような音が遠ざかって行く。
洗面台に置いてあった水差しで顔を洗う。冷たい水が頬を伝い、目の奥の霞が払われる。髪の癖を指で整え、父から受け継いだ外套を羽織った。
剣を腰に差し直すと、背筋が自然と伸びる。
廊下に出ると、ちょうど階段下にいたリシャールと目が合った。
「じゃあ、行こうか」
その背を追っているはずなのに、距離感がやけに遠いように見えて。
俺はどうしても、「時間」という溝の深さを感じるしかなかった。