発進
「イギリスの海賊」は、俺が今所属しているこの船と、俺が生まれ育った船との二つに別れている。
向こうのほうはもう動くことはなく、陸の敷地内に眠っている。その船は本来、先代が乗るものなのだ。俺が跡継ぎを作らないうちに動くことはないだろう。
もう俺も今年で二十四歳になるが、伴侶なんていない。というかこんなむさくるしい環境でどうやって女に出会えというのだ。……ああ、父親に出会いの秘訣でも聞いておけばよかった。
いや、伴侶だけではない。俺には、
俺には……。
…もうこの話は止そう。誰も得しない。特に俺が。
そういえば、妹は元気だろうか。
この船を出てくときに大層噛み付かれてしまったが、まだ俺のことを兄だと思ってくれているだろうか。まだ頼りにしてくれているだろうか。しばらく顔を見ていない。まさか人知れず沈んではないだろうな。ああ……。
誰かに会いたい。この世界は殺るか殺られるかだ。昨日の親友は今日の骸かもしれないのだ。
俺の、顔見知り。……海賊でない顔見知り…。
いや、そんなのはいない。海で生まれ育ったんだぞ。陸に知り合いなんて……。
記憶の中のアルバムをめくり続けていた時、ある人物の顔で停止した。
ふと机の上を見れば、山積みになった開封済みの手紙が雪崩を起こしている。中身は日によって多少のずれはあるものの、一行だけ一貫した箇所がある。
俺は威圧的な雰囲気を放つその山の一つをつまみ上げた。
真っ白な皺一つない便箋に、筆記体の美しい英語がつづられている。
「ラタトゥイユは嫌いになったのかい?だったらキッシュは?小さい頃には喜んで食べていたじゃないか。
どうだろう、そろそろまたお茶でもしないか。……」
いつもこんな調子である。
酔狂なやつだ。そいつは俺を肥え太らせオーブンに入れるつもりかもしれない。
十数年前なら別だが、数年前から……そいつが海賊で無くなってから、俺は奴の作るものを一切口にしていない。
テーブルいっぱいに並ぶ生々しい飾りを眺めながら、熱い紅茶を口にいれても、なんだか胸の底が冷えていくような心地がする。
食えない。毒が盛られてる気がしてままならないのだ。みんなが敵だ。パイから上る細い湯気も体に悪いものに思える。
いや、でもこれ以上手紙を無視し続けるのも良くない。一応、過去に世話になった身なのだ。
あいつなら突然訪問しても快く迎えてくれるはずだ。前もそうだったし。燃料も余分に補充してくれるだろう。
そうと決まれば行動を起こすのみだ。
俺は机から離れ、扉を開け、廊下に出た。
戦いから時間が経っていたからか、あたりは不気味なほど静かだった。この船にいるのが己一人のように感じる。
コツ、コツ、…廊下を歩く靴の音が遠くから聞こえる。
そのつま先は操縦室へ向いている。
「あ、ウィル船長、ばんわーっス。波はいい感じっスよ?どうかしたんスか?」
操縦席に座る男が顔だけをこちらに向けて言った。この船の舵はこいつだ。俺が行きたいところを指示すればそこまで運転してくれる都合のいいドライバーだ。
「フランスに行きたいんだが。」
「へえ、なんスか。また強制招集ッスか?」
「いや、…ああ、まあそういうもんだな。」
「じゃあ、ルアーブルっスね。いつものルートで?」彼は世界地図の、フランスに書かれた古びた赤丸をつついた。
「プリマスで補給してから行く。イギリスからドーバーだ。問題はないか?」地図を眺めながら進路を指でなぞる。
「ええ、ああ。多少揺れるけど大丈夫っス。きっと。」
「じゃあ頼むぞ。到着後は起こさなくていいからな。」
「了解っス!」彼は席に戻り、ハンドルやそこら中をいじる。
エンジンが目覚め、モーターが嘶く。船は鞭打たれた馬のように加速しだした。
ーーー……
夜の闇の中を数時間ほどいくと、霧が深くなっていく。季節は初夏だというのに、冷えた潮風が肌を撫でる。
ここは、フランス北岸ーールアーブル。
元々、いろんな階級のものがここを発着点にしているが……。この時間帯は人気も少なく、点在する密輸商が声を顰めて、やり取りをしている程度だった。時々、金切り声が建物の向こう側から聞こえるが、誰もが意に介していないようだ。
甲板から街の様子を見下ろしてみると、数ヶ月前に来た時よりも街全体が不穏な空気に包まれているように感じられた。…船上の方が平和なんじゃないかと、錯覚させられるほどには。
廃材の香りが混じった湿度の高い空気にあおられながらーー“船生まれ船育ち“の自分は、船内で朝を待つのが妥当だと判断した。
こんな夜更けに陸に降りて、よくわからない輩に喧嘩をふっかけられるのはごめんだ。
自室のベッドに横になると、目を閉じて時が過ぎるのを待った。