エンパイア・モーン
主人公たちのセリフなどに人種差別と取れるものがあるかもしれないですが、あくまでもイギリス人である主人公たちの主観であることを踏まえてお読みいただければ幸いです。
……冷たい潮風が、彼の頬を撫でた。
北極海を行く合計44隻の輸送船団と、それに寄り添う軍艦の群れ。これほどまでの船団を組織していても、何隻が目的地にたどり着けるか分からない。
彼……イギリス海軍少尉のウィリアム=クロフォードは、商船の船首で海を眺めていた。船首と言っても、この『エンパイア・モーン』のそれには通常の商船にあるまじき物が取り付けられていた。
「何度見てもこれは……苦し紛れだな」
船首から突き出すように搭載された、カタパルト。艦船から飛行機を射出するための装置だ。そしてその上には、ホーカー社製の旧式戦闘機ハリケーンが乗っている。金属だけでなく木材なども多用して作られた旧型機だが、新鋭機のスピットファイアが揃うまで戦線を支えた名機だ。無論、艦上戦闘機として大雑把な改造は施されているが。
イギリスからソ連への物資輸送船団は、ドイツ軍の爆撃機やUボートにより多くの被害を出していた。
空母が不足していたイギリス軍は船団に有効な航空支援を行うことができず、その代用として輸送船に航空機を搭載することを思い立ったのである。射出用のカタパルトと戦闘機1機を積んだだけの代物だが、それでも無いよりは良いとして、50隻の商船に実装されることが決定された。
それが『CAMシップ』。この『エンパイア・モーン』も、その改造が行われた1隻である。
無論、空母のように着艦はできない。パイロットはパラシュートで脱出か不時着水し救助を待つか、燃料が十分にあるなら陸上基地へ向かって着陸するという、際どい発想の兵器だ。
いくら空母が足りないとはいえ、こんな鉄砲玉同然の方法が果たしてどれだけの効果があるか、操縦士であるウィリアムにも分からなかった。
「あら、またこんな所にいらしたのですか?」
背後から甲高い声が聞こえた。
ウィリアムは愛機に視線を向けたまま、軽く苦笑する。
「ティータイムかい?」
「ええ。まったく、飛行機乗りの方々は遠くばかり見ていますのね」
「まあ、半分くらいはそれが仕事だからな」
ウィリアムは振り向く。声の主……栗色の髪をした少女は、やれやれと言わんばかりにため息を吐いた。庶民的なシャツにスカートという姿で、顔立ちは整っている。CAMシップは民間船を改造した物であり、乗組員もウィリアムや航空整備士などを除けば全員民間人なので、女性補助員が乗っていても不思議はない。しかし彼女は違う。
「しかし今更だが、船の妖精さんもお茶飲んだりするんだな」
「イギリスに生まれたなら当然ですわ!」
「日本の艦魂ならハラキリとかやるのか?」
「そんなこと知りませんわ! ……まったく」
艦魂。
文字通り、艦船に宿る魂であり、船の精霊である。あらゆる船に宿り、皆美しい女性の姿をしているが、その姿が見えるのは一握りの人間だけ。ウィリアムもまた、その1人だった。
彼女はこの船……『エンパイア・モーン』に宿る船魂。
「ま、レディからのミッディ・ティーブレイクのお誘いを断る気はない」
「あら、案外紳士ですのね」
モーンはにこりと笑い、並んで船内へと歩いて行った。他の人間からすれば、ウィリアムが一人歩いているようにしか見えないだろうが。
「どうぞ」
「サンキュー」
モーンの淹れた紅茶に、ウィリアムは砂糖をたっぷりと入れた。
紅茶は中国原産だが、1660年代にはイギリス人の習慣として定着し始めた。ポルトガルのキャサリン王女がイギリスへ嫁入りした際、祖国で身に付けた喫茶習慣を伝えたのがきっかけと言われている。特に午後のティータイムは欠かすことの出来ないものであり、戦時中でも変わらなかった。
「いつもながら、砂糖多いですわね」
「糖はすぐエネルギーになる。多めに摂っておけば、いつドイツ軍が来ても大丈夫だ」
「まったく、単なる甘党のくせに」
「バレてたか」
「当り前ですわ、まったく」
モーンも自分の紅茶に砂糖を入れ、一口飲む。
この部屋は船魂である彼女の私室であり、この空間の存在はウィリアムや他の船魂しか知らない。とはいえ内装は人間の部屋とほぼ同様で、ベッドやテーブル、本棚などがあるごく普通の部屋だ。
「それにしても、ロシア人の我が儘には困ったものですわね」
「ああ。苦しいのは分かるが、状況も考えずに物資よこせ物資よこせと、そればかりだ」
……このPQ18船団は、同盟国であるソ連への物資援助を行うために結成された船団である。以前よりアメリカ・イギリスからソ連への船舶による物資輸送は行われていたが、ドイツ軍の空襲やUボートの雷撃によって多大な損害を出していた。特に6月に編成されたPQ17船団は、商船22隻、海軍給油艦1隻、救難艦1隻を失うという著しい被害を受けている。本来ならば夜の時間帯が長くなる秋に船団派遣を行う予定だったが、ドイツ軍の攻勢に晒されていたソ連側から早急な輸送を強要され、夏場に出航する羽目になったのだ。
結果、僅かな物資しか受け取れなかったソ連側は尚も輸送船団の派遣を要請。イギリス軍は体勢をどうにか立て直し、9月にこうしてPQ18船団を派遣したのだ。前回までの教訓から、船団への航空援護を充実させることが決定され、アメリカから供与された商船改造型の護衛空母『アヴェンジャー』が護衛艦隊の中核を担った。その他、陸上基地からの航空援護や駆逐艦の対空砲火、CAMシップに改造された商船で敵の攻撃をしのぐのである。
「ま、ソ連軍がいるからドイツの戦力を東西に分散させられるんだ。今は仲良しこよしってことだろう」
あくまでも『今は』だが……ウィリアムは心の中でそう付け加えた。イギリスがソ連と協力するのは、ナチスドイツを打倒するという共通の目的からだ。イギリスからすればロシア人は『蛮族』であり、加えてフィンランドなどの中立国を一方的に侵略したことから、ソ連に対するイギリス人の印象は最悪であった。心の底で「ヒトラーとスターリンが両方くたばればいいのに」と思っているイギリス人は、おそらくウィリアムだけではあるまい。
「ロシア人のための馬車馬とは、大英帝国海軍も落ちぶれた物ですわね」
「民間船に言われちゃお終いだな。だがイギリスは昔から、権益のためなら海賊でも麻薬でも利用してきたじゃないか。おお、わが愛すべき祖国よ」
皮肉たっぷりに嘆息するウィリアムに、モーンはムッとした表情をする。
「軍人のお言葉とは思えませんけど」
「でも本当だろ」
「まったく、腕は良くても一言多いせいで、こんな任務に就かされてるって自覚はありませんの?」
「まあ確かに」
瓢々と答えるウィリアムに、モーンは「まったく」と頭を抱えた。これは彼女の口癖のようなもので、ウィリアムは今日の朝から、モーンの「まったく」を17回聞いている。そのほとんどがウィリアムに向けたものであり、ある意味ウィリアムが言わせているようなものだが。
ウィリアムの戦闘機パイロットとしての技量は高い部類に入る。実際CAMシップに配備されるまでに、ハリケーン戦闘機でドイツ軍機を7機撃墜しており、エースの称号を得ている。なお、エースパイロットや撃墜王などと呼ばれるのは敵機を5機以上墜としたパイロットであり、逆に言えば1機墜とせるようになるまでがどれだけ大変かを表している。全金属製戦闘機が主流であるこの時代に、木材や布が多用された旧型機でこれだけの戦果を挙げたのだから、高い操縦技能を持っていると言えるだろう。
そんなウィリアムが「着艦不能な船」に配備されたのは、彼の性格に寄るところが大きい。反骨精神が強く、大層な皮肉屋なのだ。
「……ん?」
ウィリアムは本棚の端に置かれている、掌に収まるほどの銀色の箱に気付いた。連合国軍の愛煙家に広く使われている、ジッポー・ライターだ。
「お前、タバコを吸うのか?」
「いいえ。あれは以前のパイロットさんの遺品ですわ」
以前のパイロット、という言葉を聞いて、ウィリアムは自分の前任者がすでに死んでいたことを思い出した。『エンパイア・モーン』が、6月にソ連からイギリスへ向かったQP12船団に組み込まれていた時のことである。ドイツ軍機の攻撃に際し、『エンパイア・モーン』から発進した戦闘機が、ドイツ軍のJu88爆撃機を撃墜したが、パイロットは死亡したのだ。
「他の遺品は遺族の方々に送られましたけど、あのライターは船内に落っこちていたんですの」
「確か、パラシュートで脱出はできたんだよな」
「ええ。でも駆逐艦に救助された後……そのまま亡くなられましたわ」
モーンは哀しげな目をしてうつむいた。
CAMシップ搭載機は敵機を撃墜後、燃料があれば陸上基地へ飛べるが、そうでなければ極寒の北極海に脱出しなければならない。体力の消耗は著しく、そのまま力尽きるパイロットも多かった。
「気の毒に。戦闘機乗りなら飛んだまま死にたかっただろうに」
「……ええ。多分彼はそう言ったでしょうね」
モーンはティーカップを片づけ始めた。目にうっすらと涙が浮かんでいるように見える。
「彼は私たちの姿は見えなかったけど……そう、貴方よりは真面目で、貴方と同じく空を愛していました。あと貴方と違って、とても信心深い方でしたわね」
「ああ、俺はお祈りとかやらないからな」
そう言えば最後に教会へいつだったか、とウィリアムは考えた。少なくとも戦闘機乗りになってからは行っていない。
「神様はお嫌いですの?」
「いや、尊ぶべきだとは思っているけどね、頼っちゃ駄目だと思うのさ。特に俺みたいな奴は」
「何故?」
「つまるところ、俺は人殺しだからさ。そんなのに手を貸してくれる神様なんて、本物じゃない」
バトル・オブ・ブリテンで、ウィリアムは撃墜されてパラシュートで脱出したことがあった。降下中、敵機のパイロットが自分に向けて敬礼するのを見て以来、相手もまた人間なのだということを常に忘れずにいる。そして重いはずの人の命が、時に羽よりも軽くなることも。
「それに神が天に住まうなら、それを血で汚す俺はいつか報いを受けるだろうしな」
「……まったく。貴方みたいな人に限って、図々しく長生きするに決まってますわ。きっと、ね」
「はは、そう言ってもらえれば少しは安心だ」
ウィリアムは笑みを浮かべ、モーンは再び「まったく」と呟く。
「本当に、貴方は何のために戦っているのですか?」
「そう言われてみれば、何のためかな。政治家じゃないから国の正義がどうのってわけでもないし、国民を守るってのも今ひとつピンとこないし……そもそも単に飛行機に乗りたいってだけで軍に入っちゃったわけだし」
瓢々とそんなことを言うウィリアム。しかし眼差しは真剣だった。
「あ、でも死にたくない理由ならあるな」
「それは……うっ」
モーンはくしゅんと、くしゃみをした。船魂は寒いからと言って死にはしないが、やはり寒いものは寒いらしい。
ウィリアムは部屋に入ったときに外した航空用マフラーを、折りたたんで彼女に差し出した。
「これを巻いてろ。それなりに暖かい」
「……絹のマフラー?」
モーンは受け取ると、手触りを確かめた。
「前のパイロットさんもそうでしたけど、飛行機乗りの方はずいぶん贅沢ですのね」
「単にファッションだけじゃない」
戦闘機のパイロットは、操縦中常に四方八方を見まわし、敵機を探さなければならない。マフラーを巻いているのはその際、首が飛行服の襟に擦れるのを防ぐためでもあるのだ。それには柔らかい絹が丁度いいし、燃えにくいことも絹が選ばれる理由の一つだ。また、負傷した際に手足を縛れば血止めにもなる。
「俺は以前、撃墜されたことがあってな。そのとき使ったパラシュートで作ったのさ」
「パラシュート!?」
「パラシュートは絹製だ。知らないのか?」
「知りませんわ、そんなこと!」
この時代、すでにアメリカでナイロンが発明されていたが、まだ絹のパラシュートが多く使われていた。中には恋人のウェディングドレスをパラシュートの生地で作った兵士までいたという。
「一度俺の命を救ってくれた縁起物だから、お守り代わりに持っていてくれ。予備があるから遠慮するな」
モーンは数秒間マフラーを見つめていたが、やがてその白い首に巻いた。生地をゆっくりと撫でる。
「に、似合うかしら?」
「ああ、似合う似合う」
「ちょっと油臭いですけど、まあ縁起物なら……」
頬を赤らめ、モーンは笑う。そして青い瞳で、真っすぐにウィリアムを見た。
「必ず、生き残ってくださいね。私も絶対、アルハンゲリスクに辿り着きます」
「……ああ。イギリスに帰ったら、俺の死にたくない理由を教えてやるよ」
「約束ですわよ?」
……翌日。
空から爆音が迫り、船員たちがざわめく。モーンが甲板に出たときには、すでにハリケーン戦闘機のエンジンが回っていた。
そして、その操縦席に乗り込むウィリアム。
「ウィリアムさん!」
エンジン音に負けぬよう、大声でモーンは叫ぶ。それが聞こえたかは定かでないが、ウィリアムは彼女に親指を立て、操縦席に座り……キャノピーを閉めた。
エンジンの音がさらに高鳴る。
そして次の瞬間、カタパルトが機体を空中に放り出した。
ハリケーンはそのまま上昇し、空へ。すでに駆逐艦などが対空砲火を開始しており、他のCAMシップからも戦闘機が飛び立っていく。
「……」
モーンの首のマフラーが、寒風にたなびく。彼女はそのマフラーと、銀色のジッポー・ライターをぎゅっと握りしめていた。
……
とりあえず、射出時に空中分解しなかったことにウィリアムは安堵した。CAMシップ搭載機は前線で使われていた機体を改造したものであり、そのような事故も起きていたのだ。
周囲の状況を確認。敵機は多い。
魚雷を搭載した双発機・ハインケルHe111が船団に迫る。楕円形の主翼に、鉄十字の紋章が大きく描かれていた。
「さて……北極海に嵐が来たぞ!」
スロットルを開き、機を加速させる。
敵機の背後に回り込むべく、旋回。敵機も銃座で迎撃してきたが、ハリケーンの小回りを活かして火線をかいくぐる。
雷撃機は高度5~10mで突入し、魚雷を投下する。当然そのような低高度で急旋回はできないので、敵艦の回避行動や迎撃には、方向舵を使った横滑りで対応するのだ。
それに上から覆いかぶさるように追跡し、攻撃を加える。
「どの程度までやれるか、だな」
ウィリアムはこの状況に笑みを浮かべていた。戦闘機乗りの本能が、危険を好んだのかもしれない。
1機のHe111に狙いを定め、その背後につく。しかし敵も必死だ。銃座で応射しつつ、機体をぐっと横滑りさせてやり過ごそうとする。
怯むなと自分に言い聞かせ、ウィリアムは敵機を追う。曳光弾の光が近くを抜けていく。
……照準が合わさった。
発射レバーを引き、7.7mmの機銃弾が放たれる。それが命中したか分かる前に、敵機は回避行動に移る。
ウィリアム機は再び旋回して、加速。接近して撃つのだ。
敵の機銃弾が翼を掠めるが、ウィリアムはHe111の左翼に再度攻撃を叩き込んだ。7.7mm弾程度ではなかなか墜ちない。
しかし、ついに左翼のエンジンから煙が噴き出した。
やがてそれが炎になり……散華。
鉄の棺桶が、冷たい海へと墜ちていく。
「……何人殺しても、引きかえるのは俺の命だけで済む」
自分に神を頼る資格は無いと思う以上、敵の冥福を祈ることもない。戦場の不条理を口にしつつ、ウィリアムは機を旋回させた。
別の敵機に狙いを定め、接敵。
撃つ。
「ほら、さっさと逃げな!」
命中したかは分からないが、敵機は雷撃コースを外れて逃げていく。ウィリアムの任務は船団の護衛であり、撃墜に拘る必要は無いのだ。そして、彼自身が生き残ることが最大の目標。生き残れば人殺しの償いもできるだろう。
それに……死にたくない理由はある。
ウィリアムは船団に近づくHe111、Ju88爆撃機を追い散らしていく。僚機や駆逐艦も奮闘しているが、敵機は次々と船団に迫る。
そしてついに、魚雷を受けてしまう船も。
だが。
精強と名高いドイツ空軍でも、限界はあった。雷撃機が退避行動を取り始めたのである。
すでに魚雷を投下した機はそのまま変針し、投下の機会を逃した者達は魚雷を投棄して後に続く。
「……凌いだか?」
遠ざかっていく敵影を見送り、周囲の安全を確認。機を傾け、『エンパイア・モーン』を見下ろした。無事で良かったが、今の襲撃で船団に損害も出たし、この後もドイツ軍の攻撃は続くだろう。ウィリアムには飛び立つ船はあったが、降りる母艦はないし、パイロットだけ脱出しても機体が無ければ役には立たない。燃料計を確認すると、一番近い陸上基地へ行くのには事足りる量が残っていた。機体は数か所に被弾していたが、なんとかなる。
「……大丈夫、俺は約束は守る男だ」
ウィリアムは陸の方角に機首を向けた。目指すはソ連領の飛行場だ。
「飛行機乗りは、その日その日を空に生きるのみ。……また会おう! 必ずな!」
久々の空戦シーン。グダグダだ……(汗)。