第1話 はじまりの生活 8
うつつから離れて見たのは、昔の自分。
今思うと、いつ死んでも構わないような、そんな環境だった。
けれど、私にとってはそれが当然であり、何でもない風景だった。惨めでも可哀想でもなんでもない、普通だった。
折角拾い上げてくれた誰かを自分で疑い、救いの手は自分ではじき飛ばしていた。
心のどこかで、今思えば、パブロフの犬のようだと、思った。
パブロフの犬、というのは、古典的条件反射で有名だが、それを引き継いだ犬を使った実験が行われていた。
餌を与える人と、暴力を与える人がいる。
当然、犬は餌を与える人に甘え、暴力を与える人に怯えるのだが、それが長期化すると暴力を与える人に甘え、餌を与える人を怖がるという結果が得られたのだ。
それを使い、行われてたのは洗脳だ。
私は、あいつらに洗脳されていたのかも知れない。
それを解くために、今、ここにいて、あの人達に出会えたのだと思うと、少し心が軽くなった。
誰かの笑い声が聞こえた気がしたけれど、気にせず、私は意識を現に戻した。
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とても心地のいい空色の中、私たちはクリニックを開業した。
さし当たって、一番に準備したのは薬だった。
点滴などの注射も、一部準備した。
pH調整なんかに手間取りはしたけれど、ケビン様のおかげでなんとか本当に極々一部のものは何とかなった。
ケビン様も、クリスと一緒の魔法使いではあったのだけれど、どちらかというと論理派の魔法使いで、物理と有機化学、無機化学を伝えるとそれらを用いて自分の好きなように化学反応させることができるとか、錬金術師のような感じのことができるようで。
それでお願いして、化学式を見せて、材料を渡して、合成して貰ったのだ。(見返りはもちろん、それらの学問の話だ)
慢性疾患の薬剤はとりあえず患者さんの様子を見て追加していくことにし、急性と思われるものなどを準備した。
抗菌薬をはじめとした、解熱剤、去痰薬、咳止めなどの風邪薬や、炭酸水素ナトリウムやH2ブロッカーなどの胃薬、β2刺激薬などの気管支拡張剤に、睡眠薬に、虫さされ用にステロイドなんかも一部用意した。あとは手荒れ用の保湿クリームなんかもジェイドとグレイスと一緒にねって作った。
消毒用エタノールは、グレイスにもったいないと言われながら酒を蒸留して、70%エタノールと高純度エタノールとを準備した。また、洗浄用に蒸留水も用意した。
診察室のようなものはジェイドに頼み込んで準備し、ベッドも2床、必要であれば往診する準備も。
患者は待ってはくれないだろうから、緊急を要するものは呼んで良いことにして、ジェイドやグレイスにもある程度基礎の知識をたたき込んで今日に至る。
『ミオ、ミオ!』
私に話しかけるのは、フィネだ。私にグレイスから貰ったお菓子を持ってきてくれた。
フィネは、あれから驚くほどの回復を見せて、数日で驚くほど元気になったようで(断定出来ないのは私が眠りこけているときだったから)、この屋敷に暇さえあれば入り浸っている。
家主も特に文句を言わないので、今では私と一緒にグレイスに読み書きの弟子入りしている。
カルテを書く必要があるときに、みんなで共有出来た方がいいと思ったからなのだけれども、思ったより難しくて、習得ままならない状態で開業してしまった。
でも、どうやら今日は平和で患者は一人も来なくて、暇だ。フィネもグレイスが出したお菓子をつまんでいる。
フィネはあのケガの縁もあって、グレイスからは私の身の回りを頼まれているだけなのかも知れないけれど、今まで誰もいなくても大丈夫だったのだから、フィネの手伝いなどあってもなくても構わない……というと、ひどく冷たく聞こえるけれど、そういう突き放した気持ちを露骨に出していったわけではなくて、ただの事実でしかない。
そもそも、ここに来るまで、誰も助けてくれない環境下にずっとあったのだ。少し忘れかけていたけれども。
あの人達は、敵だったのだから。
……眠っているときに、昔の夢を見てしまったからか、少し感情的になっているようで、それもなんとなく、グレイスやフィネ、ジェイドに気付かれて気を遣われているのを、私も分かっている。
だから、なんだというのだろう。
全てを話す必要性は感じないし、それならば、以前の自分を持ってくるべきでもない。
こう、昔を思い出して、一番イライラしてしまったのは、自分だ。
新しいことをしていても、心のどこかで晴れなくて、イライラしている。そんな感情すら御せない、自分の子供っぽさに余計イライラする。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
あの頃のように、結局、誰にでも、謝っている。
『ミオ?』
ふと声をかけてきたのは、ジェイドだった。
イライラして、頭を抱えているときだったので、振り向いたときに思いっきり睨み付けてしまっていた。
『機嫌悪いのか?』
『ごめん、ジェイド。みんなのことは、関係ないのに……昔のこと、思い出しちゃって』
『あの、寝てたときに?』
『そうそう……、ここにいるのが幸せだったから、折角忘れられてたのに』
私のゴミ屑のような過去話など、聞かせても胸くそ悪くなるだけだから話さない。
私がジェイド達から欲しいのは、同情じゃないし、哀れみでも、なんでもないから。
『言いにくかったら言わなくて良い。……でも、それは背中の傷とか火傷とかと関係ある?』
私は驚いた。あれを見られていたなんて。
『最初、君が来たときに、首にも手形で大きな痣があった。……それと、関係も?』
『関係なく、はないけど、話せない』
『なら、話さなくていいよ。別に聞きたかったわけでも、ない。ただ、原因が分からなくてフィネが異様に怖がってたからな』
思い返せば、少し戸惑った感じがしていた気がした。謝っておこう。
『ありがとう。なんか、心が軽くなった』
何かが変わったわけではないけれど、こう過ごしていれば10年後とかに話してもいいのかも知れないと思った。
開業初日は、名誉なのか不名誉なのか、患者数0という残念な結果で締めくくられた。
※訂正しました。ご指摘ありがとうございます!
前回で終わっても良かったかなぁと思ったけれど、
第2話をジェイド視点にして、ジェイドのヒーローポジション確立に向けて努力した方がいいと思ってここまでを1話にしました(汗。
ずっと、美緒視点にしようかなぁと思ってたのですが…力不足です。
もうちょっとジェイドのキャラが(私の中でも)たたないと、フラグどころではないですから…(笑)一応、設定だけは凝ってるはずなので。
パブロフ云々は、教養の授業でとった看護学部の心理学の先生が、言っていたはずなので間違いではないはずです……(間違っていたら私の記憶違いです;;)。
ちなみに、洗脳と、マインドコントロールの違いは説明しなくて、本文で使い分けても……大丈夫、ですよね…?