06-1.林杏の主張
修儀宮は人が少なかった。
最低限の女官だけが働いている。宦官の姿は一人もいない。
「修儀様。陛下と賢妃様がお見えになられました」
女官はそう声をかけて、部屋の扉を渡す。
扉が開かれると強烈な香の匂いがした。反射的に俊熙は顔を逸らした。
(陳勇の香と同じ匂い)
換気はしていないのだろう。
強烈な匂いを放っていた。その部屋の中に足を踏み入れる。
(呪術の痕跡がひどい)
修儀宮で呪術を扱っていたのは間違いないだろう。
(黄妃にまとわりついていた残滓と同じだ)
呪術には残滓が付きまとう。
拭うことのできない残滓は術師を見つける手段となる。
「陛下。お待ちしておりました」
部屋の中央で林杏は最敬礼をとっていた。
来ることがわかっていたのだろう。
その顔は酷くやつれていた。誰よりも美しいと自負していた髪は解かされることもなく、やつれている顔つきを化粧で隠せていない。
「陳勇を杖刑で殺したのはわたくしです」
杏は自白した。
それを問いに来たのだろうというかのように、簡単に事実を口にする。
(妙だな)
なにかに怯えているようだった。
「陳勇の遺体が消えた。なにか知っているか?」
俊熙の質問に対し、杏は首を横に振った。
「存じ上げません」
杏は頭を深く下げた。
「わたくしがしたのは呪術を使い、遺体を醜い姿に変えたことだけでございます。それ以上の呪術を使うことはできません」
杏は自供する。
その体は震えていた。
「陛下は麒麟の加護を受けている尊いお方。それゆえに、この場に立つことができるのでしょう」
杏は深々と頭を下げる。
その存在に救われたとでもいわんばかりの姿だった。
「どういう意味だ」
俊熙は眉間にしわを寄せた。
感謝される意味がわからなかった。
「恐ろしい怪物が出ました。多くの宦官を犠牲にし、なんとか、脅威を抑え込んだところでございます」
杏は嘘を吐いていない。
(怪物)
宦官は自ら犠牲になったのではなく、杏の命令により犠牲にされたのだろう。その犠牲になった者たちの遺体は残っていない。
(キョンシーにでもなったか)
キョンシーは操っている術師以外を無差別に襲う。制御に失敗をすれば、キョンシーを操る術師の命さえも奪ってしまう。
止める為にはキョンシーを倒さなければならないのだが、元々は人だったとは思えないほどに狂暴であり恐ろしい怪力を誇る怪物だ。キョンシーには理性はない。
「修儀。その怪物というのは顔に札を張られていましたか?」
「はい。賢妃様のおっしゃる通りです」
「そうですか。では、キョンシーの可能性はありますか?」
香月の問いかけに対し、杏はきょとんとした。
想像していなかったようだ。
「キョンシーは想像上の怪物でしょう?」
杏は言い切った。
(呪術を扱っていながらも、その認識か)
認識が甘すぎる。
それゆえに呪術を気軽に扱っていたのだろう。
「賢妃様は幼いところがありますのね」
杏は笑った。
これならば相手をしても勝てると言わんばかりの顔だった。
「キョンシーではありませんわ」
「なぜ、言い切れる?」
「陛下。簡単な理由でございます。あの怪物は札は張られておりましたが、それ以外は真っ黒の霧のような怪物でございました。人の形を成しておりません。それを伝説上の怪物と呼ぶのにはふさわしくはないでしょう」
杏は流暢に答えた。
(失敗したのだろう)
怨霊を制御化に置いているのならば、恐ろしいことである。
杏はそのことに気づいていなかった。
(いや。もしかしたら、遺体ではなく、怨霊を使ったのかもしれない)
後宮は負の感情で溢れている場所だ。
黄藍洙が怨霊と化した以降、後宮では度々怨霊の姿が目撃されている。ぼんやりとなにも考えていなさそうな人影が目撃されることもあれば、追い掛け回されたという話もある。しかし、それらはすべて藍洙のように人の形を保っていなかった。
亡くなった藍洙の侍女が怨霊になっている可能性も高い。
怨霊によって殺された馮雹華たちかもしれない。
短い間に人が亡くなりすぎている。
「どちらでもかまわないが」
俊熙には怨霊もキョンシーも違いがわからなかった。
「亡くなった宦官はどこにいる?」
「わかりませんわ。すべて飲み込まれてしまいましたもの」
「飲み込まれた? そんな現実的ではない言い訳が通用すると思うのか」
俊熙の問いかけに対し、杏は深々と頷いた。
「怨霊の仕業ですわ」
杏は怨霊のせいだと主張する。
「わたくしのせいではありませんわ」
杏は断言した。
(妙だな)
これだけ体に呪術の痕跡がまとわりついているのならば、怨霊は無意識に杏を狙うはずだ。それなのにもかかわらず、宦官だけが殺され、姿を消した。
(なにか意図があったはずだ)
襲われている現場を見ていない。
しかし、明らかに得体のしれないものに怯えていた。
「……陳勇を暴行死させた罪で林杏修儀を冷宮に送る」
俊熙は背後に控えていた宦官に告げた。
「捕縛せよ」
俊熙の言葉を聞き、宦官は動いた。
「来ないでちょうだい!」
杏は拒絶の声をあげた。
「陛下! 冷宮にはまいります。逃げも隠れもいたしません。ですから、どうか、この身を宦官に触らせないでくださいませ!」
杏は宦官が嫌いだった。
そもそも、男性に触れられると鳥肌の立つ体質をしていた。




