サクラ・シンドローム
「……であるからして。小泉さん、しっかりと聞いていますか?」
柔らかな春の日差しが注がれる教室。ぼぅっ、と窓の外を眺めていた遙香は、漢文の教師に窘められてびくり、と肩を揺らした。
「も、申し訳ございません……!」
「桜に心奪われるのも結構ですが、本分を疎かにしてはなりませんよ」
教師は授業を再開する。
確かに桜は綺麗だ。でも、遙香が見ていたのは桜では無い……。
彼女の視線は、桜の木の根元で本を読んでいる人物に注がれていた。
カラスの濡れ羽色をした艶やかな髪を風に晒し、細く白い指がページを捲る。
熟れた林檎の様な唇から漏れる吐息を想像すると、胸がひりっとする。
上原千枝。遙香より一歳年上の女学校の先輩で、ミステリアスな魅力を持つ彼女は全生徒の憧れだ。
勿論遙香とて例外では無く、密かな憧れを日々募らせている。
でも、平凡な自分が声を掛けた所で、きっと千枝には相手にもして貰えない。
恥ずかしい思いをするくらいなら、その他大勢と共に彼女を眺めているのが丁度良いのだ。
遙香はもう一度注意されないように、必死で教本に目を通す。
だが、内容は頭を素通りしていって、いつの間にか視線は千枝に戻ってしまう。
(お綺麗だわ……)
上級生はこの時間、自習だと聞いていた。
場所を選ばなくても自習は出来る。千枝が桜の下に居るのもきっとそういう理由だろう。
行動に移せるのは彼女くらいだ。遙香にはどうやっても出来そうに無い。
外で少し強めの風が吹いたのだろう。
先程は美しい髪に隠れて見えなかった桜の形をしたブローチが、千枝の胸元で冷たく輝いた。
「コホッ……」
喉の奥がひりついて、咳が漏れる。
近頃、こういった咳が頻繁に出る。
絹のハンカチーフを取り出し、遙香は暫し咳き込んだ。
深呼吸をして落ち着き、ハンカチーフを仕舞おうとした時。
「え……」
鮮血が、真っ白な布地に染みこんでいる。
遙香の脳裏に、満開の桜が蘇る。次第にそれは、淡く、淡く──色を失っていった。
◇ ◆ ◇ ◆
「肺を患っております。春を越せぬでしょう」
医師が眼鏡を診察机の上へと置く音が、やけに大きく響く。
遙香の母が後ろですすり泣いて、父はどうにかならないのか、と医師に詰め寄っている。
自身の肺辺りに手を添えた遙香は、殊勝に頭を下げた。
「診察、有り難う存じます……」
それからの事は、よく覚えていない。
真っ白な原稿用紙に意味の無い文字を連ねるように、事象だけが淡々と記録されていく。
現在。遙香の眼前に満開の夜桜が咲き誇っていた。
はらり、ひらり、と軽やかに花弁が舞い落ちていく。
両手をお椀の形にして、薄紅を一枚手にした。
その瞬間、風が吹いて微かな灯火さえも手のひらからこぼれ落ちていってしまう。
身体から力が抜けて、遙香はその場に両膝を突いた。
ほろほろと涙が溢れ、手の椀に水たまりを作っていく。
震える腕はやがて力を失い、身体の横へと流れていった。
「あら、先客がいらしたのね」
細いが、桜の様に芯のある可憐な声がする。
聞き覚えのある声に遙香はゆるり、と振り返った。
「千枝御姉様……」
夜桜の花弁を散らした袴に身を包んだ、儚くも美しい人。
憧れの御姉様が、艶やかな黒髪を夜風に遊ばせ、伏し目がちに遙香を見ている。
涙で潤んだ視界の中でも、千枝は咲き誇って見えた。
彼女は桜色のハンカチーフをそっと取り出し、遙香に差し出す。
「泣いていらっしゃる様だから」
案じるというより、可愛らしいものを見つけた、という声音で千枝は言う。
笑みの形に上がった口角が、夜桜が人の形を成しているみたいに感じられて。
遙香は頷くことも忘れたまま、ハンカチーフを受け取った。
一瞬触れた千枝の指先は酷く冷たい。
彼女の胸元にある桜形のブローチが、銀色の光を放った。
「あっ……、有り難う存じます……」
「春の夜はまだ冷えますわ。どうぞお立ちになって」
促され、遙香は立ち上がる。
遠目から見ているだけだった千枝は、近くで見れば見るほど淡い桜の花びらの様。
「わたくしね、美しいものがとても好きなの」
遙香は千枝に見蕩れたまま、自然と頷いた。
「でもね、美しさはどれも永遠ではないでしょう? だからこそ、散って尚美しいものに惹かれてしまうのよ」
遙香に向かって差し出される、華奢な手。
更なる夢幻に誘う、招待。
千枝は桜の花が開く様に微笑んで遙香を見つめてる。
「ねぇ、わたくしとお友達になりましょう?」
委ねてみせているが、その言葉は不思議な引力を持っていた。
遙香の頭に、断るという選択肢は最初から存在していなかったの様に。
夜桜舞う元。千枝の手に、自然と遙香の手が重なった。
──その日から、千枝と遙香は何をするにも共に過ごした。
授業が終われば真っ先に校庭の桜の木の下で落ち合う。
その後は他愛もない話をする。
「ゴホッ、ゴホッ……」
幸せな時間とは裏腹に、遙香の病気はどんどんと重くなっていた。
咳込むと中々収まらず、ハンカチーフに滲む血の量は増すばかり。
千枝に背中を擦られている遙香は、気付いていない。
酷くなってゆく様子に、千枝が眼を細めて居ることに。
「療養地へのお誘い、何故断ったの?」
千枝の問いに、遙香は笑顔を作る。
「最期くらい、好きにしたいんです」
「そう……」
千枝がどこか陶酔した様子で頷きを返す。
それで良いのだ。それが良いのだ。
彼女が言っている気がする。
遙香の心にはなんの躊躇いも無い。
だって、千枝御姉様が看取ってくださる。
いつもの優しいマリア様みたいな微笑みで、見守ってくださる。
千枝の桜のブローチが、また銀色の光を冷たく発した。
◇ ◆ ◇ ◆
「ゲホッ……、ゴホッ、ゴホッ……!」
「遙香……!」
霞む視界の中。
父と母が必死で遙香の名前を呼んでいるのが聞こえる。
遙香の身体はもう限界だった。
きっとこの晩を最後に、朝陽を見ることは無い。
医師が沈痛な面持ちで「最後の時をお過ごしください」と告げる。
悲痛な叫びが聞こえる。
けれど遙香は、ここで死ぬわけにいかなかった。
桜。
最期に桜の元へ行かなければ。
そう思ったら、身体が何時になく軽い。
遙香は両親の見ていない隙に、布団から抜け出した。
玄関を出ると、濃紺の夜空が広がっている。
清涼な空気に勇気づけられ、桜の元へと歩いて行く。
踊るような足取りで、誰にも邪魔されず夢の中へ。
──あぁ、やっぱり。
出会った場所と同じ、遙香の桜がそこに立っていた。
ひた、と遙香だけを見つめる千枝。
優しく手招きされて、足は自然と千枝の元へと辿り着く。
ひやり、と冷たい手が遙香の頬に触れた。
「やはり貴方はわたくしの唯一だわ」
喜色に染まった、麗しい声。
遙香はその手に自分の手を重ねる。
「私の唯一も、御姉様です」
二人の少女は、大きな桜の下に横たわる。
千枝が自分の桜のブローチを取り外し、空洞になっている中から何かを取り出した。
「ねぇ、二人で永遠に成りましょう?」
唇に添えられる、オブラートに包まれた何か。
遙香は微笑んだ。
「えぇ、勿論です」
もう一つのオブラートを、遙香は千枝の唇に添える。
少女二人は、何の躊躇いも無くそれを口に含んだ。
そして、祈る様にお互いの両手を合わせる。
閉じていく、瞳。
至福に包まれて、深い夢へと落ちてゆく。
──桜が二人の少女を眺めながら、花弁を二枚散らした。
~END~




