第1話「没落貴族の三男」
『灰燼の領地から始める国造り』
第1話「没落貴族の三男」
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人は、生まれながらにして平等ではない。
それを、私は十八年の生涯で嫌というほど思い知らされてきた。
◇
アルヴァイン王国歴三一二年、秋。
私——レオンハルト・フォン・ヴァルトシュタインは、父の臨終に立ち会っていた。
王都から馬で十日、辺境に位置するヴァルトシュタイン伯爵領。かつては豊かな領地だったと聞くが、今や見る影もない。
父が臥せる寝室も、かつての栄華を偲ばせる調度品こそあれ、どれも色褪せ、埃を被っている。
「レオン——」
痩せ細った父が、私の名を呼んだ。
ゲオルク・フォン・ヴァルトシュタイン。かつては王国騎士団の中隊長を務めた武人だが、十年前の戦争で重傷を負い、以来ずっと病床にあった。
「はい、父上」
「お前に——話しておかねばならぬことがある」
父の声は弱々しく、途切れ途切れだった。
「兄上たちは——」
「呼んでおらぬ」
父が、微かに首を振った。
「あやつらに聞かせる話ではない」
私には二人の兄がいる。
長兄エルヴィンは三十歳、次兄カールは二十五歳。どちらも既に成人し、それぞれ独立した生計を立てている。
長兄は王都で役人として働き、次兄は商家に婿入りした。
どちらも、没落しつつあるヴァルトシュタイン家を見限った——と言えば聞こえは悪いが、現実的な判断だったと私は思っている。
「レオンよ——」
父が、私の手を取った。
骨と皮ばかりの、冷たい手だった。
「お前には——辛い役目を押し付けることになる」
「何でしょうか」
「この領地を——お前に継がせる」
私は、一瞬言葉を失った。
「——私に、ですか」
「そうだ」
「しかし、長兄のエルヴィン兄上が——」
「あやつは継がぬと言った」
父の目に、苦い光が宿った。
「カールもだ。二人とも——この沈みゆく船から逃げ出したのだ」
責めるような口調ではなかった。むしろ、諦めに近い響きがあった。
「お前しか——おらぬのだ、レオン」
「……」
「すまぬ——こんな重荷を、お前に——」
父が咳き込んだ。
私は黙って、父の背をさすった。
◇
父の話を要約すると、こうだった。
ヴァルトシュタイン伯爵領は、現在莫大な借金を抱えている。
十年前の戦争で領地は荒廃し、民は逃げ出し、税収は激減した。父は傷病の身で領地経営などできず、雇った代官たちは私腹を肥やすばかりで、領地は衰退の一途を辿った。
今や領民は千人を切り、兵士として動員できるのはせいぜい百人。領地の大半は荒れ地と化し、まともに耕作されている農地はわずかしかない。
そして、隣接するブラント男爵領は、虎視眈々とこの領地を狙っている。
「正直に言おう——」
父が、目を閉じて言った。
「この領地に、未来はない。お前が継いでも——苦労するだけだ」
「……」
「だが、それでも——」
父の目が開いた。
そこには、武人としての誇りの残滓があった。
「先祖代々の土地を——誰にも渡したくはないのだ」
「父上——」
「我儘な父を——許してくれ」
それが、父の最後の言葉だった。
翌朝、父は息を引き取った。
◇
葬儀は、質素なものだった。
参列者は、領内に残っていた数十人の民と、数人の使用人のみ。長兄と次兄は「忙しい」という理由で来なかった。
王都の貴族からの弔問もない。没落貴族に義理立てする者など、いないのだ。
「殿様——いえ、若様」
葬儀の後、執事のハインリヒが声をかけてきた。
白髪の老人で、祖父の代から仕えている古参の使用人だ。
「今後のことを——お話ししなければなりません」
「ええ、わかっています」
私は頷いた。
「まず、領地の現状を正確に把握したい。帳簿と地図を用意していただけますか」
「かしこまりました」
ハインリヒは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げた。
「それと、領内の視察をしたいのですが——案内をお願いできますか」
「もちろんでございます。いつがよろしいでしょうか」
「明日から、三日かけて全域を回りたいと思います」
「三日——全域を、でございますか」
「ええ。自分の目で見なければ、何も始まりませんから」
ハインリヒの目に、微かな光が宿った。
「若様は——先代様とは、違うようでございますな」
「どういう意味でしょう」
「いえ——失礼いたしました。明日の準備を整えます」
ハインリヒが去った後、私は父の書斎に入った。
埃っぽい部屋には、古い書物と書類が山積みになっている。
「さて——」
私は椅子に座り、目の前の書類の山を見つめた。
「ここから、始めましょうか」
◇
三日間の視察を終えて、私は愕然としていた。
想像以上だった。
いや、想像を遥かに超えていた。
「これが——私の領地、か」
領主館の窓から、荒れ果てた景色を眺める。
かつては緑豊かだったであろう丘陵地帯は、今や茶色い荒野と化している。畑は放棄され、雑草が生い茂り、家屋は朽ち果てている。
視察で見た村々も、悲惨な状況だった。
まともに人が住んでいる村は五つ。残りは廃村になっているか、数家族が細々と暮らしているだけ。
民の顔には、疲労と諦めが染みついていた。
新しい領主——私——を見る目にも、期待などなかった。「どうせまた、何も変わらない」という諦観だけがあった。
「若様」
ハインリヒが、書斎に入ってきた。
「帳簿の整理が終わりました」
「ありがとうございます。見せていただけますか」
受け取った帳簿を開き、数字を追っていく。
税収、支出、借金——
「……これは」
私は、思わず息を呑んだ。
「はい。見ての通りでございます」
ハインリヒの声には、苦い響きがあった。
「借金総額、金貨三千枚。年間税収は金貨百枚。このままでは——」
「三十年経っても返せませんね」
「左様でございます」
しかも、毎年の利子が金貨三百枚。税収を全て返済に充てても、借金は増え続ける計算だ。
「詰んでいますね」
「……」
「いえ、すみません。独り言です」
私は帳簿を閉じ、窓の外を見た。
夕陽が、荒野を赤く染めている。
冷静に考えれば、この領地を捨てるのが最善の選択だ。
長兄や次兄のように、どこかで別の人生を始めればいい。没落貴族の三男など、王都に行けばいくらでもいる。身を粉にして働けば、それなりの暮らしはできるだろう。
だが——
「ハインリヒ」
「はい」
「あなたは、なぜまだここにいるのですか」
ハインリヒは、少し考えてから答えた。
「私は——この土地で生まれ、この土地で育ちました」
「……」
「他に行く場所など、ないのでございます」
その言葉には、諦めではなく——静かな覚悟があった。
「民たちも、同じでしょう。逃げられる者は逃げた。残っているのは——逃げる場所のない者たちだけでございます」
「そうですか」
私は、しばらく沈黙した。
逃げる場所のない者たち。
彼らは、この荒れ果てた土地にしがみついて生きている。
諦めながらも、それでも——生きている。
「ハインリヒ」
「はい」
「私は——この領地を立て直します」
ハインリヒの目が、見開かれた。
「若様——」
「正直に言えば、勝算があるわけではありません。むしろ、無謀な挑戦でしょう」
私は、ハインリヒを真っ直ぐに見た。
「それでも——やれるだけのことは、やりたいのです」
「……」
「父は、この土地を守りたかった。民たちは、この土地で生きていきたい。ならば——」
私は、窓の外の荒野を見つめた。
「私が、その願いを叶えましょう」
沈黙が流れた。
やがて、ハインリヒが深く頭を下げた。
「若様——いえ、殿様」
その声は、震えていた。
「この老骨——最後まで、お供いたします」
「ありがとうございます。頼りにしていますよ」
私は微笑んだ。
それは——崖っぷちに立たされた者の、開き直りにも似た笑みだったかもしれない。
◇
その夜、私は書斎で計画を練っていた。
まず必要なのは、現状の正確な把握だ。
領地の広さ、人口、農地の面積、水源の位置、道路の状態——
帳簿だけではわからないことが多い。実地調査を、さらに詳しく行う必要がある。
次に、借金の問題だ。
金貨三千枚の借金、年利一割。このままでは破綻するのは時間の問題だ。
債権者は誰か。返済の猶予は得られないか。最悪の場合、領地の一部を売却して借金を減らせないか——
「殿様」
扉がノックされ、ハインリヒが顔を出した。
「こんな時間にどうされましたか」
「客人でございます」
「客人?」
「ブラント男爵家の使者と名乗る者が——」
私は、眉をひそめた。
ブラント男爵。隣接する領地の領主で、父の生前から「ヴァルトシュタイン領を狙っている」と噂されていた人物だ。
「通してください」
「かしこまりました」
◇
使者は、三十代半ばの男だった。
仕立ての良い服を着ているが、どこか品のない印象を受ける。
「夜分遅くに失礼いたします。私、ブラント男爵家の家宰を務めております、シュトラウスと申します」
「ヴァルトシュタイン家当主、レオンハルトです。どのようなご用件でしょうか」
「まずは、先代様のご逝去、心よりお悔やみ申し上げます」
口調は丁寧だが、目は笑っていなかった。
「それで——本題でございますが」
シュトラウスは、一通の書状を取り出した。
「ブラント男爵様より、ご提案がございます」
「提案、ですか」
「はい。ヴァルトシュタイン領を——ブラント家にお譲りいただきたいのです」
私は、表情を変えなかった。
「その見返りは?」
「借金の全額肩代わり。そして、王都での安定した職の斡旋でございます」
悪くない条件だ。
借金から解放され、王都で暮らせる。没落貴族の三男としては、十分すぎる待遇だろう。
「ご検討いただけますか」
「……」
私は、少し考えるふりをした。
実際には、答えは決まっていた。
「ありがたいお申し出ですが——お断りいたします」
シュトラウスの目が、一瞬鋭くなった。
「理由を、お聞かせいただけますか」
「この領地は、先祖代々受け継いできたものです。私の代で手放すわけには参りません」
「しかし——失礼ながら、この領地に未来があるとは思えませんが」
「それは、私が決めることです」
私は、静かに言った。
「ブラント男爵様のご厚意には感謝いたします。しかし、お気持ちだけ頂戴いたします」
シュトラウスは、しばらく私を見つめていた。
やがて、薄い笑みを浮かべた。
「かしこまりました。そのようにお伝えいたします」
「よろしくお願いいたします」
「ただ——一つだけ」
シュトラウスが、立ち上がりながら言った。
「男爵様は、大変——気の短いお方でございます」
それは、明らかな脅しだった。
「お気をつけくださいませ」
シュトラウスは一礼し、去っていった。
◇
使者が去った後、私は椅子に深く座り込んだ。
「……これは、思ったより早く来ましたね」
ブラント男爵が動くのは、もう少し先だと思っていた。
父の死を待っていたのだろう。没落貴族の若い三男坊なら、簡単に追い出せると踏んだに違いない。
「殿様」
ハインリヒが、心配そうな顔で言った。
「ブラント男爵は——執念深いお方です。一度断られて、引き下がるとは思えません」
「ええ、わかっています」
私は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「おそらく、次は——もっと直接的な手段に出てくるでしょう」
「直接的、とは——」
「武力です」
ハインリヒの顔が、青ざめた。
「しかし——貴族同士の私戦は、王国法で禁じられて——」
「表向きはそうです。しかし、『山賊に襲われた』『魔物の被害が出た』——いくらでも言い訳はできます」
私は、暗い夜空を見上げた。
「時間がありません。急いで、領地を立て直さなければ」
「殿様——」
「ハインリヒ」
私は、振り返った。
「明日から、本格的に動きます。あなたには——人手を集めてほしいのです」
「人手、でございますか」
「ええ。領内で、まだ働ける者を全員集めてください。男女は問いません。老人でも、子供でも——動ける者は全員」
「何をなさるおつもりですか」
「まずは——道を作ります」
ハインリヒが、怪訝な顔をした。
「道、でございますか?」
「ええ。全ての基盤は、道から始まります」
私は、机の上に広げた地図を指差した。
「人が動けなければ、物は運べない。物が運べなければ、商売はできない。商売ができなければ、金は入らない」
「……」
「この領地が衰退した原因の一つは、インフラの崩壊です。道が荒れ、橋が落ち、人の往来が途絶えた。だから、まずはそこから立て直す」
ハインリヒの目に、理解の色が浮かんだ。
「なるほど——」
「もちろん、道を作るだけでは意味がありません。その先に、産業を興し、人を呼び、経済を回す——長い道のりになります」
私は、地図を見つめた。
「しかし、千里の道も一歩から、です」
「……殿様は」
ハインリヒが、不思議そうに言った。
「どこで、そのようなことを学ばれたのですか」
「本で読みました」
半分は嘘だ。
私には——この世界とは別の記憶がある。
遠い昔、どこか別の世界で生きていた記憶。そこで学んだ知識、読んだ書物、見聞きした歴史——
断片的で、曖昧で、夢のようなもの。しかし、確かに——ある。
「さて、夜も更けました。明日に備えて、休みましょう」
「かしこまりました。殿様も、お体にはお気をつけください」
「ええ。ありがとうございます」
ハインリヒが去り、私は一人になった。
窓の外には、荒れ果てた領地が広がっている。
希望など、どこにもない。
それでも——
「やるしか、ないんですよね」
私は小さく呟き、明かりを消した。
——第1話「没落貴族の三男」完——




