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2-2


 ――朱凰、山を繞りて飛び、宛転して花園のうち


 男は我が子の歌声にはっと顔を上げた。

 彼は祭儀を司る礼部所属の官で、都に邸を構えている。非番の今日、のんびり酒肴を楽しもうと中庭に卓を用意させると、そばで子どもたちが聴きなれない唄を歌っているのだった。


 ――朱凰、山を繞りて飛び、宛転して花園の裏。


 六つになる長女に尋ねると、友だちとの間で流行っている唄なのだという。弟とともにくるくると跳ねるように歌い踊っている。子どもというのはいったいどこから新しい遊びを仕入れてくるのか。


「朱凰か……」


 凰は四瑞といわれる神獣の一つだ。通常は鳳凰と呼称され、鳳が雄、凰が雌なのだという。


「ずっと歌っているの、困っちゃう」


 正房おもやから出てきた妻は不安そうだった。


「朱、だなんて……あまりにも畏れ多くて」

「まぁ、幼童の唄だから」


 男はそう妻をなだめたが、彼女の畏れももっともだった。

 『朱』は帝室の姓だ。大人は憚って口にしないし、それ以上に夫婦には格段に朱家を崇敬する理由があった。


 庭で元気に遊んでいる娘――お転婆が過ぎて騒々しいが、それを咎める気にならないのは彼女が健やかに跳ね遊ぶことの尊さが身に沁みているからだった。

 

 一年前、彼の娘は大病を患った。高熱が数日続き、小さい体は生きる力を急速に失っていった。医者には最悪を覚悟せよと匙を投げられ、夫婦にできることは娘を温め小さな手を握って祈ることぐらいだった。


 そこに医師を名乗る人物が現れた――女だ。


 女の医師など聞いたこともないし、なぜ突然彼の家に現れたのか分からない。混乱する夫婦に、試してみたい治癒術があると女は言う。二人は一縷の望みを懸けて、この女に娘の命を託してみることにしたのだった。


 数日後、奇跡が起きた。娘が意識を取り戻したのだ。あどけない可愛らしい声で「お父様」と呼んだその時の喜びを、男は一生忘れることはないだろう。


 涙ながらに感謝を伝える夫婦に、その女は首を振った。


「礼は私ではなく丹栄公主様に。女である私が医術を身につけられたのは公主様のご配慮あってのこと。この家の病人を救ってほしいと私に命じたのも、公主様ですから」


 夫婦は仰天した。尊い身の公主様が一介の官吏の娘の病状をなぜご存じなのか。しかも実際に医師を寄越して下さるなんて。


 以来、夫婦は桜花の居殿である飛燕殿に足を向けて寝られない。


 ――朱凰、山を繞りて飛び、宛転して花園の裏。


 子どもたちがまた歌う。 


 それにしても、と男は腰掛けに身を沈めながら考え込んだ――朱の凰とは、まるで丹栄公主そのものだ。


 彼は今、公主の婚儀の準備に関わっている。先日の辰星殿での皇帝と桜花との衝突の折も末席に控えていた。恩人である桜花を贔屓してしまう心根を置いたとしても、和蕃公主策撤回を涙ながらに進言する桜花の方に明らかに理も情もあり、皇帝よりも数段時勢を心得ていると思えてならなかった。


 許されることならば、丹栄公主入輿の準備などしたくない。彼女は国に残るべきだ。大眞国を取り巻く情勢は日に日に悪化している。北の蛮族が国境を脅かし、すでに国境付近の村々はいくつか焼かれてしまったとか。首都・永明えいめいは、国境からさほど離れていない。この街からも、すでに人が逃げ始めていた。


 こんな末世だ、暗愚の皇帝よりも桜花に仕えたい――決して口には出せないものの、彼は切実にそう望んでいた。


「……朱凰、山を繞りて飛び、宛転して花園の裏」


 気づけば彼も口ずさんでいた――朱凰が飛び立ち天下を巡り、花園の中心に降り立つだろう……。花園の裏、とは禁裏、すなわち天子のおわす鎮星宮を思わせる。朱凰――朱家の女がその中心に立つ、と。


 ――それが本当に実現したら。


 男は首を振った。もちろんそんなことは起こらない。公主自ら政に乗り出すなど、許されざることだ。この国に『暉禍』の戒めを知らぬ者などいない。


          ***

  

 皇太后に招かれて、桜花は東宮の北奥、白鷺殿はくろでんを訪れた。東宮のうち最も広大な敷地を有するこの邸の庭は、紅や黄金に色づいた葉の盛りだった。


「よく来てくれましたね、桜花」


 皇太后、りゅう芙蓉ふようは自ら正房の階をくだって娘を迎え入れた。


 劉皇太后は桜花の実母。先帝中宗の寵愛を恣にした美貌は健在で、高く結った髪もいまだに艶やかだ。冠のごとくいただいた金の飾り櫛も、玉の腕輪も、かつて中宗に賜った時のまま、美しく彼女を引き立てている。


「お母様、お招きありがとう存じます」


 桜花は質素な装いだった。まとめた髪には蝋梅の花を挿し、その明黄の色と同じ絹の披帛を纏っている。襦裙は控えめな紅梅と翠で、耳飾りも簪もない。ただ、そのおかげで額を彩る桜の花鈿が際立ち、他を圧倒する凛とした美しさを見せていた。


「桜花、あなた今日も地味ね。せっかく王太子殿下も招いたのに、これではつまらないわ」

「……殿下がいらっしゃるなんて聞いておりませんでしたわ」


 桜花は困ったように母の背後を見やる。西石国の王太子が笑んで腰を折った。大眞国の官吏が平素身につける円領まるえりの袍に身を包み明るい色の髪を幞頭に押し込んでいるが、瞳の紺碧も特徴的な面立ちも隠しようがなく、異質な存在感を放っていた。


 桜花に付き従った若い飛騎――てい承陽しょうようは小さく舌打ちをした。


 承陽は立派な体躯の持ち主だが齢はまだ十六で、言葉遣いや所作に関しては実年齢よりもさらに幼い。だが類まれなる身体能力と厚い忠誠心が評価されて、桜花は彼を好んでそばに置いた。本人は、それを何よりの誉れだと受け止めている。


 そんな承陽だからこそ、この場に西石の王太子がいることを許せなかった。


 平国公主の入輿に続いて先帝が薨去し、芙蓉は悲しみに沈んでいた。残された女同士互いに慰め合いましょうと、桜花を茶席に招いたのは十分理解できる。そこになぜ西石の王太子がいる?


 王太子は皇帝の許しを得て、昼は鎮星宮や都を見聞してまわっている。彼の警護を担当する者たちは大忙しだ。特に承陽の兄である承固がその任にあたっているため、苦労話はたくさん彼の耳に入っていた。


 承陽たち飛騎は、王太子が桜花と顔を合わせないように細心の注意を払っている。日が暮れた後には飛燕殿の一角に押し込んで一歩も外に出していない。二人が夫婦になったなどとあらぬ嫌疑をかけられるわけにはいかないからだ。


 だというのに、鉄壁の防衛線を実母の皇太后に破られるとは。王太子の背後で、承固も苦虫を噛み潰したような顔をしている。


「わたくし、異国に嫁すつもりはございません」


 桜花は静かに睫毛を伏せた。母はその肩に優しく手を置く。


「決めつけては駄目よ、桜花。今日は西石の言葉を解する者も同席します。互いにもっと知り合えば、降嫁の恐れもなくなるというもの」

「そういうことではないのです」


 桜花のささやかな抵抗は、母の強い言葉に掻き消された。


「あぁ桜花、あなたって本当に頑固ね。もともと幼い頃から変わった娘だったわ。『桜花』なんて変わったあざながよくないのかしら? 洒落ていて素敵だと思ったのだけど」

「お母様から賜った字ですもの、とても気に入っておりますわ」


 桜花は楚々と微笑む。


「でもねぇ……まぁいいわ、とにかくこちらの殿下は陛下が格別のご配慮のもと決めてくださったお相手。それを無下にするような娘に育てた覚えはありませんよ。『三従の教え』を忘れていないわね?」

「『未だ嫁せざるは父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う』――忘れようもございません」


 皇太后は満足げに頷いた。


「先帝中宗様亡き今、あなたにとっては陛下が父です。女の身で生意気を言うことがないように」


 さぁ、と皇后に促され、桜花は否応なく客庁に案内されていった。


 承陽は他の飛騎とともにそれに従う。ついつい鼻息が荒くなった。彼の主は何事もわきまえているひとだ、母親に強く命じられれば従わざるを得ない。条理やら立派な教えやらに疎い承陽としてはもどかしいが、だからこそ「俺が守ってやらねば」と強く思うのだった。


 生真面目な兄も同じ思いだろうと横目で見れば、やはり承固も足音高く憤然と歩いていた。


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