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2-1


少女は鎮星宮で下働きをする宮女だった。宮女といえば聞こえがいいが、日々の仕事は草取りや水汲み――要するに官位も俸禄もない下女だった。


 その身分に少女は満足している。齢十五の彼女は、幼い頃に父母を亡くし、数年間路上で暮らした。風雨に打たれ腹を空かせた日々の中、運よく役人に拾われ宮城での仕事にありついた。今では毎日食事を摂り、屋根の下で眠ることができる。


 娯楽も得た。仕事の傍ら、高貴な人々を盗み見るのだ。高位の女官の衣の美しさは目を楽しませてくれるし、官吏の中には見目の麗しい殿方がいて、叩頭して彼等が通り過ぎるのを視線の隅で追いかけるだけでも胸が高鳴った。


 一番のお気に入りは現皇帝の姉である丹栄公主――桜花だ。


 桜花は薄い肩の小柄な方だ。華美な装いは好まず、高くまとめた髪を芙蓉や白梅などの一挿しで飾ることを常としていた。だが、凛とした佇まいと優雅な所作は、凡百の女官とは異なる圧倒的な気高さを持ち合わせている。一目見た時から、少女は桜花の虜になってしまった。


 その桜花がかつて孤児の救済事業を献策したのだと知ったのは最近のことだった。街で襤褸を纏ってうずくまっていた少女を救ったのは、まさしくあの方だったのだ。憧れの気持ちに恩義が重なり、少女にとって桜花はさらに格別のひととなった。


 今日は桜花様を拝見できないかしら、と夢想しながら庭の草木に水をやっていると、近くに人が寄る気配があった。驚いて振り返り、少女はぎょっとした。見たことのない髪色――光沢を帯びた黄金だ――の男が近づいてくる。


 少女がいるのは鎮星宮の内廷である。皇帝が執務を行い、寝食をする場だ。怪しき者が居ようはずはない――ではこの男は何者なのだろう。少女の知っているあらゆる男と姿かたちがあまりにも違いすぎて、この世のものとは思われなかった。仙人様だろうか。天子のおわす宮城に、天帝から遣わされたのかも。そう思って見ると、どんな殿方よりも華やかな面立ちをしている。


 仙人様が少女に微笑んだ。彼女はぽーっとなってしまって、叩頭するのも跪くのも忘れていた。彼は掌に何かを捧げ持つようにしている。示されて覗きこむと、薄紅の花びらが数枚、白い掌に収まっていた。


「これは……硝子でしょうか?」


 本物の花弁ではなく、細工だった。陽の光を吸ってきらきらと輝いている。

 仙は天を見上げた。空がどうかしましたか、と問いかけても返答はない。言葉が通じていないようだ。この花弁は梅だろうか? それとも牡丹? いや、そのどれとも趣が異なる。


「あぁ、これは桜なのですね」


 小さな花弁の先には切れ込みがあり、中心に朱のすじがうっすらと見える。

 桜は、牡丹や梅などに比べれば見劣りする花だとされているが、少女にとっては恩義ある公主の名を冠する特別な花である。春の盛りにほんの数日だけ泉が湧くように咲く、潔い美しさをもつ花だ。


 仙は満足そうににっこりと笑った。そして彼女に桜の細工を差し出す。されるがままに少女がそれを受け取った時。


「王太子殿下!」


 太い声がした。二名の衛士がすごい勢いでこちらに向かってくる。我に返った少女は、小さく悲鳴を上げてその場に叩頭した。


(宮女の分際で仙人様に物を賜るなど! あぁ、お叱りを受けるのだろうか!? でも……今『王太子殿下』と聞こえたような?)


 少女は西域から遥々赴いたという異国の王太子の存在にやっと思い至った。


「どうしてすぐに迷い込んでしまうのです! 一昨日からこれで三度目でございますよ!」


 衛士は息を切らしている。


「いったいこんな庭になんの御用が……ん? その下女に何か粗相がございましたか?」


 話の矛先が自分に向いて、少女は震えた。掌の上でさらさらと硝子が鳴る。


「女、その手に持っているものは何だ」


 仙人様に賜ったものを握りつぶすわけにも放り出すわけにもいかず、掌を前に投げ出すような格好になっていた。見咎められるのは当然だろう。


「畏れながら……この桜の花弁は、仙……殿下がお持ちになっていたものです」

「……桜?」


 衛士たちの声に動揺が混じった。


「女、面を上げて良い、詳しく話せ」


 命じられるがまま事の次第を説明すると、二人の視線は黄金の王太子の方に向かった。


「殿下、この花細工はいったい? 極めて精巧なもののようですが」


 少女から受け取った花弁を、衛士たちはためつすがめつしている。王太子は、すっと天を指差した。


「空がどうしたのですか?」


 衛士が尋ねても、彼は迷いなくただ天を指し示すばかり。異国の出身である彼は、この国の言葉を理解していない。


「……空から……降ってきたとでも? 桜の……花弁が?」


 衛士の一人――精悍な若者だ――が愕然として呟くと、もう一人は不機嫌そうに唸った。


「そんなはずがあるか。承固しょうこ殿、飛燕殿の飛騎とはそのような戯言に惑わされる程度のものか」

「いえ……ですがここ数日奇妙なことばかりが起こるので……」


 承固と呼ばれた衛士は、畏れるように王太子をちらりと見た。王太子は小首を傾げて微笑んでいる。


「その細工は預る――気味が悪い、処分してしまおう」


 少女は躊躇した。処分してしまうなんて。美しいだけでなく、桜花につながるものなのに、それに。


「処分してよいものでしょうか……? 天からの授かりものかも知れぬというのに」


 若い衛士も少女と同じく感じたようだった。


 ――これは天の託宣かもしれない。


「そのような馬鹿なことがあるか!」


 怒り露わに声を荒げたのは年嵩の衛士だった。それに承固が答える。


「だが、貴殿はご存じですか? 最近都で流行っているという童謡を……」


 年嵩の男は不快に眉を寄せ、結局細工を受け取って懐にしまい込んだ。


「承固殿、北衙禁軍所属の兵たる者、女子供の戯言に振り回されてはならぬ」

「は、はい……」


 若い衛士は折目正しく敬礼したが、眼差しには戸惑いがありありと見て取れた。みなの困惑をよそに泰然と微笑む異邦の男の存在感を無視できないようだ。


 少女も王太子の姿を仰ぎ見る。彼は陽光を浴びて真っ直ぐに天を見上げている。その瞳は、空をそのまま写し取ったような紺碧で、やはりこの世のものとは思えなかった。


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