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桜花の迫力に、ユリアンの額を冷たい汗が伝った。
「お前には、天の使いになってもらう」
桜花は言い切った。
「先刻のように、この桜花こそが真の皇帝であると『天啓』を下せ。もっと大きな舞台で、多くの官吏、民を前にして、な。その啓示を受けて私は玉座に登る」
ユリアンは息を呑んだ。御するつもりで接触した公主に首を掴まれている。こんな遠くまで来て、なんという失態だ。
唇を噛んだ。冷静になれ、と彼は己に命じる。一方的に利用されるわけにはいかない。少しの利を得ることもないままでは、故郷に顔向けできない。
「……つまり、俺がいないとあなたは玉座を手に入れられない、というわけですね」
ぴくり、と桜花の眉が跳ねた。
「あなたは女でありながら密かに帝位を欲している。この国では前代未聞、本来なら即位は実現しない。だが、状況はそろいつつある。強力な外敵による国防の危機、若く愚かな皇帝、あなた自身のずば抜けた資質と流れる帝室の血――そして、西から転がりこんできた異質な王太子。これらすべてが同時に作用すれば、女のあなたでも玉座に手をかけることができるかもしれない――同時にこれらの条件は一つも欠かすことはできない」
今度はユリアンが不敵に笑う番だった。
「あなたには絶対に俺が必要だ。替えはきかない――。短刀を納めていただけませんか? 俺が死んだら困るでしょう?」
桜花の視線を受けて玉兎が腕を下げた。その気配を感じて、ユリアンはそっと息をつく。眼前の公主に焦りは見えない。だが口もとの笑みは消えていた。
彼は賭けに出た。
「丹栄公主、桜花様。互いに腹のうちを見せて盟約を結びませんか」
「盟約?」
「俺にもあなたにも偽らざる望みがある。互恵関係を結びましょう。あなたの登極を助けてもいいが、こちらに利がないなら俺は動かない」
ふっ、と桜花は小さく笑った。
「商人らしい発想だ。だが、悪い話ではなさそうだな――貴様の望みはなんだ? 言ってみろ」
ユリアンは腹に力を込めた。
「祖国を守りたい」
峻厳な山々に抱かれた石の城、大陸のあらゆる言葉が飛び交う市場、そこで笑い、泣き、傷ついても立ち上がる逞しい人。目を閉じれば、彼のまぶたには故郷フェルゼンシュタインの日常が映る。
「草原の王は愚かだ。フェルゼンシュタインの富を一方的に略奪しようとしている」
「侵略者とはそのようなものだ」
挑発的な桜花の言葉に、ユリアンは首を振る。
「奴らが狙っているのは我が国で産出する銀です。それ以外には目もくれない。すでに街がいくつか焼かれました――そこにある人や市場こそが我々の本当の富だというのに」
「人の命こそが富、か――そのような綺麗ごとが通用する相手ではないということだ。商人なら分かるだろう?」
「賢明な公主様ですら、何も分かっておられない」
嘲るような言葉に、桜花の眉間に皺が走った。
「銀などいずれ枯渇する。だが、我々が長年をかけて築いてきた交易路、人と人との繋がり、信用――それは常に形を変えながらも確実に我々に富を落としてくれる。フェルゼンシュタインは鉱山の国ではなく、間違いなく商人の国なのです」
「……ふむ」
「草原の王はそれを理解せず見せしめのようにいくつかの交易都市を焼いた。街が一つ失われれば道も失われる。道が失われれば、フェルゼンシュタインは滅びる――俺は、指をくわえてそれを眺めているわけにはいかないのです」
桜花は椅子に深く腰掛けた。
「なるほど、それがお前の切なる願いか。だが、どんなに強く望んでも、西石国単独の軍事力では草原の兵力に太刀打ちできない、それが事実だ」
「……おっしゃる通りです。公主様、俺の命を懸けてあなたの登極を実現させましょう。その代償に、大眞国の軍を西石のために動かして下さいませ」
桜花は考え込んだ。
長い沈黙のなか、ユリアンはこっそりと生唾を飲み込んだ。桜花はユリアンを欲している。だが、実際にはそれ以上にユリアンが大眞国の軍事力を必要としていた。
桜花は、ただ皇帝になりたいという我欲を満たしたいだけ。それに対しユリアンは国の存亡を背負っている。桜花に対してどんなに強気に出てみても、しょせんは虚勢に過ぎない。
いいだろう、と呟いて、桜花は立ち上がった。
「私が皇帝となれば、一軍を西石国の国境警備に向かわせよう」
目を見開くユリアンに、桜花は粛々と告げる。
「指揮権の所在、輜重等、詳細は以後協議を重ねよう――だが、必ず一軍を遣わす。天帝の名のもとに、私は必ず盟約を守ろう」
「……ありがとう存じます」
「その分お前には十二分に働いてもらう。無理難題も、汚れ役も、全て引き受けろ」
「あの」
気の抜けたユリアンの声に、桜花は片眉を上げた。
「ひとまず、私のことを『お前』と呼ぶのをやめていただけませんか?」
「……これは失礼した。西石の名が呼びづらいもので」
では、とユリアンは椅子を離れて片膝をついた。胸に手を当て、公主を仰ぎ見る。
「畏れながら気安くお呼びいただける名を賜りたい。その名で呼んでいただければ、陛下への忠義が深まり、どんな働きもできましょう」
桜花はにやりと笑うと、首を垂れたユリアンに向かって命じる。
「もう一度名を言え」
「ユリアン=フェルゼンシュタインでございます」
少しの思案の末、桜花は扇の先をユリアンに向けた。
「名を賜る。貴殿はこれから『石俐安』と名乗れ」
「ありがたく頂戴いたします――皇帝陛下」




