7-4
桜嘉は固く拳を握りしめた。
それなのに。
「はぁ」
場にそぐわぬ軽々しい調子の嘆息が聞こえて、桜嘉は耳を疑った。
目を見開くと、俐安がさも不服そうに桜嘉を睨み上げている。
「そのような褒賞は頂戴いたしかねます」
「……はぁ?」
桜嘉の声が裏返った。
「何を言っているんだ。俐安は知らぬかもしれんが、後宮に入った妃が暇を許されるなど極めて稀有な例。僥倖のようなものなのだぞ」
「だからといって勝手に要らぬものを押し付けて、それで褒美を与えた気になるのをやめていただけますか?」
挑戦的な言い方にカチンときた。
「ならばいつも通り命令してやろう、石俐安。貴殿は速やかに故国に帰れ! 二度と私の前に顔を見せるな!」
「それじゃあ褒美にならないでしょうが」
「……このっ!」
桜嘉の手が、俐安の頬を叩こうと伸びる。俐安はそれを易々と防いだ。
振り下ろされた桜嘉の手首を掴んで、彼は立ち上がる。
「私はエルフリーデのことを今でも愛しています」
「…………そうか」
桜嘉はかろうじてそう応じた。
俐安は何も分かっていない。己の言い放った一言がどれほど桜嘉の心を傷つけるのか。そしてその言葉に傷ついた自分自身に、桜嘉がどれほど嫌悪を抱いているのかを。
「だから帰国しろと言っている」
「桜嘉様、私がどうしてエルフリーデを諦めることにしたか、ご存じですか?」
「知らん」
そんな込み入ったことまでは、蒼家の報告にもなかった。
「エルフリーデは奴婢の出身でしたが、抜群に賢かったのです」
俐安は慈しむように微笑む。
「記憶力、算術、発想。どの点においても尋常ではない能力を有していました。私はそれを見初めて彼女を奴隷商人から買い取ったのです」
面白かったですよ、と彼は目を細めた。
「隊商で一緒に旅をしながら、さまざまなことを教えてやりました。すると、すぐに吸収してしまう。そのうち私では手に負えなくなって、方々でたくさんの専門家に合わせました。その人たちがね、みな口を揃えてこの子は天才だと言うんです」
だから、と俐安は続ける。
「西石国の研究所にエルフリーデを入所させたかった――だが、女性にはその資格がない。西石でも、女は学問をするものではありませんから」
桜嘉は奥歯を噛み締めた。
――その娘は、私じゃないか。
泣き出しそうな桜嘉に対し、俐安は晴れやかに笑ってみせた。
「だから私は、エルフリーデを諦めるのと引き換えに、彼女を研究所に入れるよう父上に懇願したのです」
桜嘉ははっとした。
「……それで、その娘はどうなったのだ?」
「入所できました。ただし、所長の息子の妻となり、研究助手という立場ではありますが」
俐安は得意げだ。
「さすがはエルフリーデです。西石に戻った汀緒の報告によると、錬金術の分野ですでに大きな発見をして、助手の立場を超えた研究を認められているとか」
「……俐安は、その娘に会わなかったのか?」
「私は北芽の香雪様の元へと向かっていましたから、西石の地には踏み入れていないのです――そもそも、帰国しても彼女に会うつもりはありませんでしたが」
彼は桜嘉の手を掴んだまま言う。
「私はエルフリーデを愛しています。彼女の幸せを願っている。そしてその幸せを、彼女はすでに手にしている――私はもう、エルフリーデに必要ありません」
決然とした物言いだった。
俐安は、なんて勝手なんだろう。桜嘉は歯をくいしばった。まだエルフリーデを愛していると言うくせに、その娘に自分が必要なければ、その前から消えてしまっていいと言う。
つんとする鼻の奥を誤魔化して、桜嘉は首を振った。
「では、別にその娘の元に帰らなくてもいい。後宮から解放してやるから、私の目の前から消えてくれ」
「そんなのは困ります」
俐安はしれっと言った。そして声音を変える。眼差しにも真摯な光が宿った。
「桜嘉様。俺はあなたにお仕えしたいのです」
「な……」
彼は悔しそうに続けた。
「俺は、エルフリーデだけを救って満足していた。そしてエルフリーデが暮らす地が平穏であればいいと思っていた。それなのにあなたは、己だけでなく、この国のあらゆる娘の未来を変えようとしている――とんでもない人だ」
「それは」
「あなたより器の大きな方には会ったことがない。だから俺は、あなたに仕えて、あなたの国づくりを手伝いたい」
小さな隊商を率いるよりやりがいがありそうだ、と俐安は笑う。
「損はさせません。今後も私の能力や立場はあなたのお役に立つと思いますよ」
「……だが」
桜嘉はたじろいだ。たしかに俐安は有能だ。西石の王子という立場だけでなく言語能力も交渉力も機転も、得難いものだと知っている。
でも、そういうことではないのだ。
「俐安、もう一度言わせてくれ」
桜嘉は彼の手を振り払った。
「私は、暉后になりたくないんだ。炎龍として己の名が歴史に刻まれることを、私自身がどうしても許せない――俐安がいると、きっと私は炎龍になる」
「そんなもの」
俐安は真っ直ぐ桜嘉の目を見て言う。
「桜嘉様は、炎龍になればいいのです」
「どういう……?」
「炎龍が忌み嫌われるのは、全てを焼き尽くす神獣だからでしょう? でも、桜嘉様がなるべきは、これまでの慣習や常識や、条理――そんなものを全て焼き尽くす炎龍だ」
俐安の言葉は、桜嘉の胸を強く衝いた。
「女帝の統治を恐れる者たちを嘲笑うために、あなたは炎龍になればいい。そうして全て焼き尽くしたその朝廷で、あなたが望む新しい国を作ればいいのです」
違いますか? と、俐安は桜嘉を挑発する。
「桜嘉様が作るのは、千年続く帝国だ。その帝国では、誰にでも己の力を発揮する場が与えられる。男にも、女にも。そして奴婢にだって――まるで、御伽話みたいですけどね」
俐安から浴びせられる想いの奔流に、桜嘉は圧倒されていた。
「大丈夫です。あなたは暉后ではないし、私も暉后の愛人ではない」
「だけど……」
俐安はいつもの達観した微笑みを浮かべる。
「安心してください。私には故郷に愛するひとがいる――絶対に桜嘉様を愛したりはしない」
なんだそれ、と桜嘉は思う。
「私は桜嘉様の共謀相手だから、あなたがちゃんと炎龍になるか、ずっと見張っておりますよ」
くそ、と桜嘉は内心で悪態をついた。
本当に、この男はむかつく。絶対に桜嘉の思い通りに動いてくれない。目の前から消えてくれと言っているのに。
「いいだろう」
桜嘉は、血を吐く思いで宣言した。
「私もだ。私も――絶対に俐安のことを愛さない」
その程度の気概がなくて、「史上初の女帝」になどなれるはずがない。こんなむかつく男一人への想いを御しきれないなんて、そんなことは許されない。
俐安は満足そうに頷くと、その場に両膝をつき、地に頭を擦り付ける。
それは、俐安の初めての叩頭礼だった。
「陛下の妃として、陛下に忠誠をお誓い申し上げます」
地に身を臥した彼を前に、桜嘉は、決して俐安が己のものにはならないのだということを悟る。
「石賢妃の忠義に感謝する」
面を上げることを俐安に許し、桜嘉は重々しく告げる。
「覚悟しろ。俐安は死ぬまで私の共犯者だ」
「身に余る光栄でございます」
「裏切りは許さない」
「当然のこと」
桜嘉の黒い瞳と、俐安の碧い瞳が、互いを映し合う。
「どこまでもついて来い、俐安。私は、絶対に貴殿を手放さない」
桜嘉は彼に背を向けた。振り返る必要などない。俐安は必ず桜嘉の背中を追っている。
――二人で、千年続く帝国を築くのだから。
了




